【27】休暇の知らせ



 翌日、昼威は、侑眞に送ってもらい、クリニックへと向かった。本日の予約は無い。よってバイクもそのままであるし、今日は休診として、そのまま総合病院までついでに送ってもらう計画を立てていた。

 患者が来ないのは――良い事だ。病人は少ない方が良い。確かに生活は苦しくなるが、紛れもない事実として……繁盛しないほうが良いのが、病院だ。そう考えながら茶色の手袋を締め直して、クリニックの中へと入る。するとエントランス脇の小さなベンチに、顔なじみの老人が座っていた。

「先生、聞きましたぞ」
「おはようございます、馬臣(マオミ)さん。何をですか?」

 玲瓏院のご隠居の紹介により、ここへと通ってくる、主訴が肩こりの老人だ。本日は、いつも来る曜日とは違う。かと言って、診察希望の様子でも無い。素直に昼威が尋ね返すと、好々爺が微笑した。

「藍円寺の除夜の鐘の手入れで、二月までクリニックがお休みだと、ご隠居に聞きましてなぁ。ご挨拶を、と」

 それを聞いて、昼威は短く息を呑みそうになった。そんな話は、聞いていない。だが、昨日の侑眞の口ぶりからしても、玲瓏院結界の再構築が、本当に年末に行われるのだとすれば、十分ありえる『デマ』だった。

 ご隠居がこの老人にどう告げたのかは不明瞭だが、事前準備の他に――事後、残った妖魔をそれこそ、ホコリを払うように、叩いて消していく作業が、自分に割り振られている可能性は、十二分にある。

「ちょっと早いですが、今年もお世話になりました。来年も、早く開けてくだされ」

 老人はそれだけ言うと、昼威が言葉を探している内に、杖をついて帰っていった。
 ……。
 曲がった彼の背を見据えながら、本当に休暇が出来るらしいと昼威は考える。

 その後、クリニックの中に入り、昼威は、自動受付音声を切り替える事にした。総合病院が多忙時に使用している、クリニック休診のお知らせに変更したのである。他には新しい予約も無い。それから簡単に戸締りを確認し、電化製品の電源を落としていく。他には簡単に、こちらに置いてあった衣類を鞄に詰めて、そのまま戻らなくて良い準備をした。

 外へと向かいながら、昼威は考えていた。過去に、玲瓏院のご隠居からは、二つの案を聞いた事があった。己の役割について。ひとつはそれこそ、『玲瓏院に連なる藍円寺のものとして、恥じないように働くべし』という――手で祓い除霊をするようにというお達しだった。ただ、特に救命救急で評判が上がるたびに、『昼威は医師なのであるから、けが人に救護の担当も良いであろう』と、言われるようにもなった。後者だけならば、引き受ける事に抵抗は無い。

「あれ? 先生、大荷物だね」

 車のそばに戻ると、侑眞が目を丸くしながら、外へと出てきた。そしてトランクを開けながら、小さく首を捻っている。昼威は小さく頷くと、そこに荷物を積んだ。

「クリニックがしばらく休みになったんだ」
「ついに、潰れそうなの?」
「どういう意味だ? 違う! ご隠居が、休診だと触れ回っているようでな。お前が昨日話していた休暇が、現実味を帯びてきただけだ」

 昼威が憮然とした顔でそう告げると、侑眞が小さく息を飲んだ。
 その後、二人で車に乗り込む。

「ご隠居からは、まだ直接の連絡は無いんでしょう?」
「恐らくご隠居は、救命で休みを聞いた後、俺が自発的に玲瓏院に顔を出す事を求めているんだろう」
「なるほどね。あ、お昼ご飯はどうしますか?」
「いつもは、病院の売店で何かを食べてる」
「知ってるけど」
「どうして知ってるんだ?」
「気になっちゃって。先生の事はなんでもね――そうじゃなく、せっかくだし……たまには外食でもどう?」

 車を発進させながら、侑眞が微笑した。助手席でそれを一瞥しながら、昼威は小さく頷く。その後は、二人で駅前の商店街へと向かった。飲食店が立ち並んでいる区画としては、この市内では最大だ。車を停めて、小さな店へと二人で入る。侑眞は、海老が入ったトマトクリームのパスタを頼んだ。昼威はボンゴレを注文する。サラダとスープが先に届いた。

「休暇になったとして、さ」
「ん?」

 昼威が視線を向けると、レモンが入った水を飲みながら、侑眞が続けた。

「本当に準備をする期間も必要だろうから――実際には、何日くらい休めるのかなぁって思ったんだよね」
「俺個人には、さしたる準備は無い。言われた事をやるだけだろうな――予定では、基本的には、藍円寺の正式な住職が必要な品の準備等には駆り出される。ただ……今回、享夜はどうなるんだろうな」
「うーん。享夜くんが、裏切るとか寝返るとか、そういう意味じゃないけど、俺がご隠居なら、享夜くんじゃなくて、先生に頼むような気がするんだよね」
「……法具の準備だからな。普段であれば、紬に経文を読ませて終わりで良いんだろうが……玲瓏院の人間は他の事で多忙となるからこそ、藍円寺でやるわけだしな……」

 面倒くさそうな顔で昼威が呟くと、侑眞が腕を組んだ。

「紬くんも、絢樫Cafeにいる――狐火? と、仲が良いんだっけ?」
「らしいな。よく一緒に、絢樫Cafeで茶を飲んでいるらしい」
「六条さんの話を信じるわけじゃないけど――確かに、玲瓏院の関係者に、近づいているよね」
「偶然だと思うがな」
「どうして?」
「結界云々が無くとも、常に寄ってくる。力が強ければ強いほど、つまり玲瓏院の関係者は美味しそうに映るらしい」

 事実として昼威が述べると、侑眞が同意するように何度か頷いた。

「先生が無事で良かったです」
「確かに、俺と砂鳥くんという妖の間に、何事かの接点が生まれる事は無いかもしれないが――俺は俺で、どこぞの神様を宿した、どこかの神主に、良いように扱われている気もするが?」

 どこかトゲのある笑みを浮かべて昼威が言うと、吹き出すように侑眞が笑った。

「捕まったのは、俺の方なので、そこはノーカウントでお願いします」

 そんなやりとりをしてから、届いたパスタを、二人は堪能した。

 そして、総合病院へと昼威は送ってもらった。帰りは玲瓏院家に顔を出す予定だったので、昼威は侑眞とターミナルで別れた。

「昼威先生! ついに、ついに、救命救急の専門になってくれるという噂は本当ですか?」
「は?」

 顔なじみの看護師が、昼威を見た瞬間、そう声を上げた。唖然として昼威が目を細めると、周囲からもそれを期待するような眼差しを注がれる。

「院長先生が、お呼びです! 先生が来たら、すぐに院長室へ、と!」
「そ、そうか……」

 恐らくは休暇の知らせなのだろうが、周囲の反応には涙ぐみそうになった。
 エレベーターホールへと向かい、昼威は嘆息しながら、院長室を目指す。
 到着したフロアで、昼威は首元のネクタイを正してから、院長室の前へと立った。

『どうぞ』

 扉をノックすると、すぐにそう返されたので、中へと入る。見れば、黒い応接用のソファには――この総合病院の院長と、玲瓏院のご隠居こと、玲瓏院統真(レイロウイントウシン)の姿があった。

「藍円寺先生、よく来てくれましたね。救命救急の方の休暇日程はこちらで調整しておきましたので、お早い復帰をお祈りしております」

 院長はそう言うと、柔和な微笑を浮かべてから、一人大きく頷いた。

「それでは、私は診察へ行って参りますので、どうぞこの部屋をお使い下さい」
「忝ないのう」

 統真がこちらも穏やかな笑みで頷くと、そのまま院長が出て行った。こういう姿を見る時、玲瓏院家の権力のようなものを嗅ぎ取って、昼威はあまり良い気がしない。ご隠居に対しては、囲碁や将棋の仲間以外の全ての者が、基本的に低姿勢なのである。

 そもそも、市の名士とはいえ、部外者の老人に、あっさりと院長室を貸し与えるというのも、勤務している側から見ると、昼威は微妙な気持ちになってしまう。しかしながら、これが、新南津市の常識らしい。玲瓏院の元とはいえ当主に、『ちょっと貸してほしい』と言われたら、断った場合、首が飛ぶのは依頼された側なのだ。

「して、昼威。分かってはいると思うが」
「……はぁ」

 曖昧に頷きながら、昼威は、統真の正面の席へと座った。そこには、既に昼威の分らしき緑茶が用意されていた。

「通常の仕事は、暫しの間、休暇とするように」
「……俺の意思には、無関係で既に、ご隠居が根回しをして下さっていたようですが」
「うむ。正確には、儂では無いのだが、院長先生と話すのは儂の方が良いであろうと思い、ここへと来た」
「縲さんのご采配ですか?」
「いかにも。現在の玲瓏院の当主は、縲である。早く紬の勇姿が見たいものじゃ」
「はぁ」

 適当に同意しつつ、昼威は湯呑を手に取る。すると統真が、窓の外を一瞥した。

「今回の件であるが、念には念を入れ、直前の儀式まで、享夜と紬には知らせぬ事になっていてな。理由は言わずとも、分かるであろう」
「……」
「絆にも言わぬ。絆はロケで遠出中ゆえ、仕方が無い。斗望がおるゆえ――朝儀にも、そう重い責務は背負わせない事と決めている」
「……」
「よって、昼威よ。お主の働きに、儂は期待している」

 続いた統真の声に、昼威は一気に疲労を覚えた。

「具体的に、俺は何をすれば良いんですか?」
「追って詳細を連絡する。まずは、休むが良い」

 統真はそう言って喉で笑うと、昼威の前に横長の封筒をひとつ置いた。玲瓏院家の透かしが入っている。こうして――昼威の、僅かな間の休暇が決定したのだった。