【30】人間




 ――このようにして、玲瓏院紬には、恋人が出来た。


 これは、それから少し時が経った日の出来事だ。

 火朽は、最近薔薇香の匂いがしなくなった住居スペースのリビングで、膝を組み、ブラックベリーの霊能学と呼ばれる本を開きながら、それを読むでもなく、ただぼんやりと頁を捲っていた。

 最近のローラは機嫌が良い。先日までは非常に機嫌が悪かった己の師は、最近浮かれている。何故なのかその頃は、日常的に薔薇香を焚いていたローラは、今は特に何も使用していない様子だ。彼には彼なりの、何らかの日常――あるいは戦いがあったのだろうが、火朽には特に興味はない。

 もっぱら最近では、火朽もまた恋人について考えている。
 人間とは、本当に面白い生き物だ。

 上達した砂鳥が淹れてくれた紅茶を飲みながら、火朽は、いつかローラに聞いた言葉を脳裏で反芻する。

 ――人間は、本当に弱い生き物なのだろうか?
 ――他者の感情を揺さぶる事が出来るのは、人間だけではないのか?

「ローラの言葉は、正しかったようですね」

 カップを傾けながら本を閉じ、火朽は呟いた。
 テーブルの上に書籍を置いて、味を楽しむ。

 そして、腕時計を一瞥した。既に冬休みに入っている。
 大学の冬休みは非常に短い。
 それにテスト期間の直前であるから、勉学に精を出す学生も多い。

 とはいえ、つかの間の休日だ。本日も火朽は、紬と出かける約束をしている。
 待ち合わせの時間は午後の六時だが、四時には約束の場所に出かけようと考える。
 家を出る時間を三時としても――まだだいぶ時間がある。

 待ち遠しいと考えて、火朽は苦笑した。

「一瞬で過ぎ去る人間の刻であるというのに、長く感じるというのは、不可思議な事ですね」

 火朽がそう呟いた時、ローラがリビングへと顔を出した。

「そうか? 俺なんて、毎日毎日、長くて倒れそうだぞ?」
「そうなんですか?」
「おう。人間と暮らすっていうのは、そういう事だと俺は考えてる」

 ローラはそう言うと、火朽の正面に腰を下ろした。

「それは、単純に食事や衣服といった人間の文化を経験するという意味合いじゃない。同じ時間を共に生きるというのが、人間と暮らすという行為の本質だからな」

 そういうものかと火朽が頷いた時、砂鳥がローラの分の紅茶を運んできた。
 砂鳥は、それをローラの前に置くと、自分のカップを手に、火朽の隣に座る。

 一時期は店を諸事情で閉店していたのだが、その間に紅茶を淹れる腕前を鍛えていた砂鳥は、再開した現在、楽しそうにCafeの仕事をしている。最近の絢樫Cafeは、逆にマッサージを希望する客がほとんどいない。ローラが働かなくなってしまったからだ。

「ローラ、貴方はそういえば、人間のように働いて喰べるのでは無かったんですか?」

 何気なく火朽が問うと、ローラがニッと笑う。
 猫のような瞳に、楽しそうな色を浮かべている。

「気が変わった。俺にはもう餌は不要だ」
「では、何が必要なんです?」
「そうだなぁ――想い、かもな」
「想い?」
「ああ。人間だけが抱く感情に触れるのは、実に楽しい。俺は常々、妖の方が、純粋で素直で優しい存在だと思っていたんだけどな、どうやら違ったらしい」

 ローラはそう言うと、カップを傾ける。

「人間は、ほらさ、すぐに泣くし、すぐに傷つく」
「ええ。怪我や恐怖に非常に弱い生き物ですね――ああ、いいえ、そうじゃないですね」

 火朽は言いながら、紬がいつか林の中で泣いていた姿を思い出した。

「誰かを想って涙を零す、とても優しい存在だという意味ですか」
「おう。火朽も成長したな」

 そんな二人のやり取りを静かに見守っていた砂鳥が、カップを置いてから呟いた。

「だけどさ、二人とも、自分のために泣いてくれるような人間を見つけて、泣かせていると、嫌われると思うよ? 人はさ、優しさがないと、生きていけないみたい」

 心が読める、外見が少年の覚という妖怪の声に、ローラと火朽は顔を見合わせる。
 それからどちらともなく吹き出した。

「俺はなぁ、きちんと人間を大切にするし、非常に優しい吸血鬼だ。俺ほど優しい吸血鬼は、ちょっと見かけないぞ?」

 その言葉にクスクスと笑ってから、火朽は砂鳥を見る。

「僕も、大切な恋人を泣かせるような事はしません」

 二人の声に、考えるような瞳をした後、ゆっくりと何度か砂鳥が頷いた。
 その後、火朽は二人とお茶を楽しんでから、待ち合わせの時間を待った。