【2】玲瓏院の寺院






 そこは木造りの寺院である。ただの木ではなく、霊樹を切り出して建造された古い寺院だ。その黒い柱に背を預け、駱駝色のコートを纏った夏瑪は、黒い手袋をし、腕を組んで、冬の白い空の下、吐息していた。その息もまた白くなる。

「よほど頭が悪くなければ、ここに私をおびき出す計画を練るだろう。その後来るという労力を割いて、待っているというのに、遅いものだな」

 退屈そうな目をしている夏瑪は、気だるげな空気をまとっている。
 常に寺院にいる玲瓏院一門の僧侶達には、視認できない程度の力で身体を構築し、ただ彼は、縲の来訪を待っていた。そうしてもう二日だ。

 さて、この日。
 綿雪が踏み固められた坂道を、漸く待ち人が登ってきた。気配を探れば、隠れてほかの人間もそばにいる。この気配の持ち主は藍円寺の長男だとすぐに判断した。庶務零課の人間二人を相手にするのは、それなりに骨が折れるとは思ったが、刻印をしている以上、己に利があると、夏瑪は確信している。

「……っ」

 夏瑪の姿を視覚に捉えると、忌々しそうな顔をして、縲が立ち止まった。

「やぁ、縲さん」
「ごきげんよう、夏瑪先生」

 その声が響き終わる前に、夏瑪は唇で弧を描き、刻印を通して縲の熱を強めた。すると縲がうずくまり、目を潤ませて、苦しそうに熱い息を吐いた。

「私に抱かれる気になったのかね?」
「誰が、ッ……んぁ……やめて。俺を支配したらならば、絶対に結界を抜けられなくなると、分かりそうなものだけど?」
「私の暗示の力を侮っているのではないかな?」
「……ァ……ッ」

 縲はギュッと目を閉じる。全身が熱くてたまらない。
 ――果てたい。
 再びその欲求で思考が塗りつぶされていく。

「哀れなものだ、人間という生き物は」

 つかつかと、靴の踵の跡を雪につけながら、夏瑪が歩み寄る。
 楽しそうな、愉悦交じりの表情で、夏瑪は縲の顎を手で持ち上げた。その手袋をつけた指の感触にすら感じ入り、縲は唇を強く噛む。すると夏瑪が失笑し、無理に唇に唇で触れた。

 ――縲は涙が滲む瞳をあけたままで、内心で決意する。

 口をわざと開けば、夏瑪の舌が入り込んできて、キスが深く変わる。その瞬間、縲は全力を解放した。すると夏瑪が目を瞠る。夏瑪にとって『ご馳走』に他ならない霊力が、大量に唾液を通して流れ込んでくる。それはそれは美味で、夏瑪は迷わず吸っていく。

 そこから夏瑪は思案する。あんまりにも膨大な力を喰べつつ、これは勝負だと気が付いた。万が一、己の身が縲の霊能力で満ちたならば、逆に――使役されうると、知識で夏瑪は知っていた。縲の狙いもそれなのだろう。そして実際そうだった。決意した縲は、ひたすらに力を解放している。だが夏瑪は内心で嘲笑していた。人間のもつ力ごときでは、自分の身が埋まらないと知っていたからだ。

 その時、縲が震える手を持ち上げ、不意に夏瑪の手首に数珠を嵌めた。

「!」

 それには夏瑪も息を飲んだ。己の内側の許容量が半分ほど欠けた事を理解する。

「……」

 唇を離した夏瑪は、じっと縲の濡れた瞳を見た。

「残念だが、この程度では、私は『満腹』にはならないんだよ。まだ、乾いている」
「ッ」
「全てを明け渡してもらえるかね? そう、『全て』を」
「うあっ」

 夏瑪が力を強めた瞬間、夏瑪の胸板に縲が倒れ込んだ。その耳の後ろを手袋をはめた指で撫でながら、夏瑪は笑う。しかし縲は、その状態で、必死に脳裏に印を描き、口の中で経文を唱えた。

「……さすがは玲瓏院と言いたいが、本当にそれで私を使役できると想っているのならば、愚かとしか言えないが。期待はずれなほどに、滑稽だね」

 呆れたように述べた夏瑪に、縲が息を詰める。

「さて、そろそろ時間だ。連れて行ってもらえるかね? 『命令』だ」
「あ……」

 夏瑪が支えて、縲を立ち上がらせる。縲は思考が曖昧になるのを感じた。理性に反して、足が動き始める。唇の端から唾液を零しながら、生理的な涙を浮かべたままで、縲はふらふらと歩き出した。その腰を支えて、夏瑪が並んで歩く。

 こうして二人は、寺院の中へと入った。最下層へと続く階段を、縲が降り始める。夏瑪の姿は、迎えた他の僧侶には視認できていない。縲が次に床に降り、正面の札が張られた戸を見据えたところで、夏瑪は目を伏せ笑みを浮かべた。実に簡単な結末だと、そう考えながら。

 印が刻まれた床が、中には広がっていて、その先に要石が存在している。
 それを間近で見据えた夏瑪は、縲に命じる。

「さて、許可をもらおうか。この土地から抜け出る許可を。『命令』だ」

 そう告げた瞬間、縲が手を持ち上げた。そして――夏瑪の腹部に、特殊な銀でできたナイフを突き立てた。

「な」

 それまで銀の気配など感じなかった夏瑪が、初めて動揺した顔をする。

「玲瓏院の血脈において命ずる。以後、刻印を封じる」
「っ」
「許可なく俺を喰べる事は、許さない。これは、『使役の数珠の盟約』の本質であり、いかなる鬼も逃れる事は不可能だ。ここに、玲瓏院一門の全ての人間の霊力を放ち、鬼の使役は完成した」

 縲の断言と同時に、夏瑪の中からさらに力を受け入れる器が欠落していった。
 夏瑪は瞬きをし、大きく溜息をつく。

「私が欲したのは、結界を抜ける許可だ。君を喰う許可? それを私が欲すると思うのかね? 私が喰らわなければ、辛いのは縲さん、君だが?」
「無論、結界から出すわけがない。夏瑪先生、貴方の事は、俺が殺す」
「私を手にかければ、縲さんも生きてはいけないが?」
「――いいんだ。封印・使役を成功しない確率を俺は想定していた。やはり誰に何と言われようとも、俺から紗依を奪ったお前を、俺は許さない」
「それは冤罪だ」
「だが間接的な加害者は、紛れもなくお前だ。ここで死ね」

 縲は手にしたナイフに、残っていた全力を込める。そこに初めて生じた痛みに、夏瑪は手を伸ばした。そしてナイフを持つ縲の手首を握り、失笑する。

「縲さんは、実に愚かだ。――全ての思考は、今から曖昧に変わる。君は以後、体の熱しか考えられえない雌になる。その体を私に明け渡す事しか考えられなくなる。そう、それが『全てだ』」
「ふざけるな……ァ、ぁあああああああああああああ」

 夏瑪の声に縲は確かに反論しようとした。だがその瞬間、床に頽れる。そして震えながら、気づくと叫んでいた。

「抱いて、あ、抱いて、も、もう無理だあああああ」
「そう、それでいい。君の体は、私のものだ。それのみが、現実であり『全てだ』」
「ひっ」

 床の上に縲を押し倒し、夏瑪が強引に服を開ける。その時には、もう縲の理性は何処にもなかった。