【二】新生活の開始
四の月の頭になった。この大陸には、十二の月が存在する。暦もまた稀人がもたらした文化なのだという。少々肌寒かったので、僕はローブを羽織り直した。
――婚姻により、他国に武力や頭脳が移動する事は、いずれの国も望まなかった。同様に、勇者となる子供を一国が独占する事も、三カ国共に危惧した。よって子供が出来るまで……あるいは出来ずとも数年間、三カ国の中間に位置するリファラ山地一帯に、今回番いとなった者は暮らす事に決まった。移動は転移魔法陣で可能であるから、そこから各々はこれまで通りの仕事に出向く形だ。
僕とユーゼ宰相閣下に用意された家は、山地の端の湖の前。グレーの屋根の邸宅だった。急な事態であるから、結婚式などは無い。僕は衣類だけを詰めた鞄を手に、転移魔法陣で邸宅の庭にやってきた。特別持参したい品などは無かったし、家具などは揃っていると聞いている。ああ、唯一の私物として、魔導目覚まし時計は持ってきたのだった。
白い扉に手を掛けると、僅かに音を立てて戸が開き、玄関が視界に入った。まだ生活感の無いこの家が、今後数年間の僕の住まいとなる事が、どこか不思議だった。中へと進んでいき、僕はリビングの扉を開けた。そこにある象牙色のソファの上には、黒に近い紫色の外套がおいてあった。バルミルナ帝国の文官の羽織る正装の一つだ。
どうやら既に、ユーゼ様はこの家に来ているらしい。そう判断した僕は、周囲を一瞥した。使用人の姿は無い。邸宅の中を魔術で探索してみたが、見えない一室――帝国の結界魔術を感じるから、恐らくユーゼ様の書斎を除き、誰もいない事が分かった。
僕が魔術を用いてすぐ、上階から扉の開く音がした。続いて廊下を歩く気配、そうして階段を降りてくる気配が続き、僕が無表情で見ている前で、リビングの扉が開いた。
「予定時刻よりは早かったな」
姿を現したのは、ユーゼ様だった。ユーゼ様の方がずっと早い。待ち合わせは午後の六時だったが、まだ三時半だ。日が高い。
「これよりお世話になります」
僕はユーゼ様の黒い髪と濃い海色の瞳を見た。スッと通った鼻筋をしていて、その瞳は切れ長だ。僕よりも、頭一つ分ほど身長が高いように見える。
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
番い選定のあの日以後、ずっと書面でやりとりをしてきたため、直接はなしをするのは、二度目の事である。書面というのは、署名が必要な書類を互いに送りあい確認する際に、義務的に『以上、何卒よろしくお願いします』といった文言を紙片に付け足して送っていただけであるが。
「とは言っても、仕事が立て込んでいて、暫くはろくに話も出来そうに無いんだ」
「そうですか」
「ああ。寝に帰るだけになるかもしれない。在宅中も書斎にこもる」
ユーゼ様が、どこか窺うように僕を見た。邪魔をされたくないようだと判断し、僕は小さく頷く。
「僕も自分の仕事をしている事にします」
「そうか。悪いな、形ばかりだとは言え、結婚直後だというのに、何の相手もしてやれず」
「別に構いません」
子供に関して言うならば、討伐時の成長を考えても、なるべく早く儲けた方が訓練出来るのかもしれないとは思うが――正直僕は、今でも僕が倒すつもりでいる。いきなり子供を作れと言われても実感はわかないが、魔獣や魔王を倒せと言われる分には、イメージがわきやすい。
「食事はどうする?」
「――戦闘用の固形魔法食なら亜空間倉庫に魔術で保管しておりますので、僕単体では困りません」
「俺も何かと会議や打ち合わせを兼ねて、外で食事をしてくる事が多いから、別々だと有難い。が……一食くらいは一緒に食べないか?」
僕が淡々と言うと、ユーゼ様が腕を組んだ。じっと僕を見ている。
「これから数年間のみかもしれないとはいえ、共に暮らす相手とは相応に親睦を深めたい。俺個人はそう考える方だ」
「閣下がお望みでしたら、そのように」
「もっと気を楽にしてくれないか? 家でまで息が詰まる生活は嫌なんだ」
「具体的には、どういう事ですか?」
「その敬語をもう少し緩やかに出来ないか? なんというか――ルツ。君は堅い」
いきなりそう言われても困ってしまう。何せ敵国の政治のトップが相手だ。そういった条件を抜きにしても、ユーゼ様は僕よりも年上だ。ナイトレル伯爵家では、年上の相手には敬意を示すようにと教えられてきた。しかしとうのユーゼ様のご指示である。断った方が不敬だろうか。
「努力します」
「期待している。夜は何時になるか分からないから、朝食を共にしよう」
「分かりました」
「毎朝六時半には食べたい――が、早いか?」
「構いません」
何せ目覚まし時計を持参した。ごく個人的に言うのであれば、僕は朝、なるべく寝ていたい。しかし魔獣等の討伐や、戦争は、時間など問わずに行われるから、僕はいつでも起床出来るように身構えている。
「料理は出来るか?」
「出来ませんが、必要でしたら習得してきます」
「いい。俺が用意する。好き嫌いはあるか?」
「ありません」
強いて言うならば、ニンジンはあまり好きでは無いが、食べられないわけではない。そもそも魔法食であるクッキーばかり口にしている僕には、きちんとした料理というだけで物珍しい。魔法食が無ければ、そこにあるものを何でも食べて命を繋ぎながら戦闘をしなければならなかったため、好みを聞かれるというのも新鮮だった。
「それと書斎は勝手に選ばせてもらった。他の好きな空き部屋を私室にしてくれ」
「分かりました」
「寝室は用意されていた。ただ、俺は遅くまで家でも仕事をしなければならないだろうし、書斎の隣の一部屋も借りて、そちらにも寝台を運び入れた。落ち着くまで別で寝て貰えると有難い。君はその寝室を使ってくれ。俺が自室で寝る」
寝袋ならば亜空間倉庫に魔術で収納してあるが、使えと言われているのだから、使って構わないだろう。それにしても、一緒に暮らすという事には、様々な取り決めが必要なのだなと考えてしまう。
「キッチンのゴミ箱と、裏庭の倉庫付近に、ゴミの分別魔術は展開しておいた。都度ゴミは処理しよう」
それとも、ユーゼ様が、物事を明確にするのが好きなのかもしれない。僕はこれまで、言われた通りに生きてきたから、はっきり言って、決めてもらえると非常に有難い。
「掃除も清掃魔術を展開済みだ」
「ご配慮、感謝致します」
「自分が生活しやすいようにと言う配慮が大部分だったが、役に立つのならば良かった」
僕には生活に密着した魔術の知識はあまり多くないので、ユーゼ様の魔術は本当に有難い。当初僕は、使用人がいなかった時点で、僕が家事をするのだろうかと思っていたのだが、その必要もほぼ無さそうだ。宰相業は僕の仕事よりも多忙だろうと思ってそう判断していたのだが、ユーゼ様はサクサクと家事の事まで片付けている。
「僕に何か出来る事があれば、お申し付け下さい」
「だったら、先ほども伝えたが、なるべく気楽に話をしてくれ」
「……はい。頑張ります」
気楽か否かといわれたら、別段緊張しているわけでもなく、これは僕の通常の口調だ。しかし何か一つくらい、僕も役に立ちたいので、今後は気をつけていこうと考える。
こうして僕達の結婚生活――当面は、同居が開始した。