【三】コップ一杯の水。
今夜は、仕事も無い。というよりも、初夜を周囲に期待されていたはずで、僕の本日の仕事はユーゼ様と同じ寝台で眠る事だったのだと思う。そんな事を考えながら、浴槽の中で僕は膝を折り曲げていた。乳白色の入浴剤が入っているが、これらを用意したのもユーゼ様なのだろうと思う。
僕はお風呂が好きだ。長々と浸っている事が許される時は、じっくりと湯船に体を預けている事が多い。多忙時は魔術で体を綺麗にするだけだから、自分自身の手で泡を立てて体を洗っていると、穏やかな日常の中にいるのだと思えて、ホッとする。
入浴後は、バスローブに袖を通した。髪は魔術で乾かす。水が飲みたい。
そう思いながらキッチンへと向かうと、ユーゼ様がリビングに座っていた。キッチンはリビングを通り抜けた場所にある。
「飲め」
横を通り過ぎようとした時、グラスを差し出された。
「有難うございます」
「長湯だな。のぼせたのかと心配した」
「大丈夫です」
受け取った僕は、ユーゼ様をまじまじと見た。
「ご配慮、有難うございます」
「いいや……だからそう、かしこまらないでくれ」
「そういうつもりではないんですが……いただきます」
喉を癒やす事を優先し、僕はゴクゴクと水を飲んだ。冷えている水が、僕の体を癒やしていく。僕は過去、これまでに、あまり人に気を配られない生活を送ってきた。しかしユーゼ様は――宰相とはいえ、『一般人』なのだろうと思う。表階梯順位が僕より上で、潜在魔力量が多いとは言え、生き死にの現場に出ていたわけではない。そういう人は、『思いやり』や『優しい心』があるのだろう。『気遣い』だとか。いずれも僕には、指示されなければ発揮しがたい代物である。
「ルツは、明日の仕事は何時からだ?」
「明日は、リファラ山地居住区画に移った人々の懇親会があるから、休みで良いと言われています」
「ああ。夕方だったな。では、それまでは暇か?」
「ええ」
僕が簡潔に頷くと、ユーゼ様が膝を組んだ。
「暇な時や休暇、君は何をして過ごしているんだ?」
「え?」
これまでそのように誰かに問いかけられた事は無かった。僕には、自分の意思で自由に出来る時間というものが、これまで存在しなかった。戦争にも討伐にも出かけていない時、それは体を休める時間か、訓練の時間となる。
「余暇の過ごし方を聞くくらいは良いだろう? お互いの仕事に踏み込むわけでは無い。その範囲において、俺はルツが知りたいし、親しくなりたいと考えているんだ」
「閣下は、僕と仲良くなりたいんですか?」
「ああ、そうだ。悪いか?」
「……」
「名前はユーゼで良い。しかし俺側には心を開く準備があるが、ルツにはその気配が無いな」
確かに、僕にはそんな準備は無い。今後は義務的に、子供が生まれるまで生活を共にするのだとだけ考えていたからだ。そもそも過去に、誰かに仲良くなりたいと告げられた事も無いから、反応に困ってしまった。親しくなるって、どうやるんだろう? これまで誰も、僕に教えてくれなかった事柄だ。
「俺が怖いか?」
「あんまり……」
「それは幸いだ。度々威圧感があると言われるし、俺の評判は冷血として悪名高い」
「ユーゼ様は、僕には優しいです。お水をくれたり」
「コップ一杯の水でそう評価してもらえるのであれば、今後毎夜、できる限り振る舞う用意がある」
僕の言葉に、ユーゼ様が喉で笑った。それから膝を組み直すと、片手で顎に触れた。
「では、これまで敵国の人間だったから気にしているのか?」
「いいえ。僕は自然体で、こういう風なんです。これがいつもの僕なんです」
首を軽く振って僕が述べると、ユーゼ様が片目だけを細めた。
「本当に、過度に気を遣っているわけではないんだな?」
「違います」
「なら良いが。俺は、俺だけでは無く、君にも過ごしやすい『家』である事を祈る」
これまでの人生で、家など『寝る場所』という意識しか無かったため、なんともその言葉がくすぐったく感じた。
「明日も懇親会までの間は執務があるから相手が出来るとは言わないが、俺も家にはいる。明日は昼食も一緒に食べよう」
「はい……」
「少しずつ、ルツの事を教えてくれ。そして、俺の事も知って欲しい」
僕はその言葉に、なんて返事をしたら良いのか分からなかった。僕は果たして、ユーゼ様の事が知りたいのだろうか? よく分からない。
「……ユーゼ様は、お休みの時には、その……何をしているんですか?」
勇気を出して、僕は問いかけた。多分、こういった些細な雑談を、ユーゼ様は求めているのだろうと判断したのだ。僕だって、上手くやりたくないわけではない。ユーゼ様の望みの内、出来る範囲の事は叶えながら、快適に過ごしていきたいという思いはある。だが、過去に誰かと雑談をした経験がほぼ皆無の僕にとっては、敷居が高かった。
「翌日の分の仕事をしている事が多いな」
「そ、そうですか」
「仕事が趣味と言っても良い。好きなんだ。書類を片付ける事が」
「……それじゃあお休みが無いようなものですね」
「空き時間があると落ち着かないんだ。仕事をする事で、自分が必要とされていると実感する事で、己を保っているのかもしれないとすら思う」
「それは少しだけ分かります。僕も戦っていると落ち着きます」
自分の仕事に当てはめて僕は答えた。すると小さくユーゼ様が吹き出した。
「お互い、仕事中毒という事か。最初の共通点だな」
「……そうかもしれませんね」
「そういう事にしておこう」
そう言って笑ったユーゼ様の顔は、非常に優しげだった。僕はこれまでの間、誰かの顔に見惚れた事は無かったのだが、暫しの間、目を惹きつけられていた。
まじまじと見てしまった事を自覚したら、急に気恥ずかしくなって、僕はテーブルにグラスを置いた。
「今日は、もう寝ます。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
そのまま僕は、逃げるようにして、確認しておいた寝室へと向かった。巨大なダブルベッドがある。いつかはここで、ユーゼ様と一緒に眠る日も来るのかもしれないが、暫くは僕だけの寝室だ。
「……」
毛布をかぶると、少しだけ冷静さを取り戻す事が出来た。目覚まし時計を六時にセットした事を再確認しながら、溜息を押し殺す。
まだ初日だというのに、いやに密度が濃く感じた。これから、僕はきちんとやっていく事が出来るのだろうか? 僕のそんな胸中の問いに、答えてくれる者は誰もいなかった。