【四】エビフライが好きです。




 ジリリリリ。そんな無機質な目覚まし時計の音。反射的に目を覚ました僕は、音も立てずに時計の音を止めて、半身を起こした。そうだった。僕は昨日から、戦地でもなく最果ての闇森の中でもなく、リファラ山地居住区画の邸宅に引っ越したのだった。瞬時にそう思い出し、僕は深く吐息した。

 時刻は午前六時丁度。後三十分ほどで、約束の時刻だ。

 寝台から降り、僕はまず顔を洗った。洗面台がついている部屋を僕は選んだ。冷水で顔を綺麗にすると、背筋がピシリとする。その後は、普段着を身に纏った。あまり私服は持っておらず、戦闘用の服やローブばかり着ているのだが、新生活に際して、父が手配してくれた。この場では、僕には、伯爵家の次男としての顔も求められているらしい。

 袖に腕を通し、最後に僕は首元のリボンを結んだ。一番上には、魔術用のローブを纏う。これは無いと不安な、僕の鎧のようなものであるし、魔術師ならば皆同じようなものだろう。

 静かに扉を開けて、朝の気配が充満している廊下に出る。それから階段へと向かうと――良い香りが漂ってきた。安心する匂いがする。料理の香りだ。

 静かに階下に降りて、僕はリビングへと続く扉に手を掛けた。ゆっくりと扉を開けて、リビング――そしてその先にあるキッチンを窺えば、ユーゼ様がガス台の前に立っていた。ユーゼ様はすぐに僕の気配に気づいたようで、振り返って僕を見た。黒いエプロンをつけている。

「おはよう、ルツ」
「……おはようございます」
「座ってくれ。帝国料理を作った」

 促されて、僕はキッチンとリビングの中間にあるダイニングテーブルへと向かった。卓上には、彩り鮮やかなサラダや、スクランブルエッグ、パンなどがある。帝国の主食はパンだ。僕が生まれ育った王国ではライスが多いが、僕はパンも好きだ。バケットを一瞥していると、ユーゼ様が僕の正面にコーンクリームのスープを置いた。そしてエプロンを解いてから、僕の正面に座った。

「伯爵家のシェフに敵う自信は無いが、相応に料理は作れるという証明になっていると良いんだが」
「美味しそうです」
「実際に、食して美味だと判断して貰いたい。とはいえ、料理は視覚や臭覚にも訴えるものがあるか。見目だけでも褒められれば嬉しいが」

 楽しそうにユーゼ様が笑っている。臭覚――というのであれば、ユーゼ様からは、お香のような甘い匂いが漂っている。初対面の時ほどは気にならなくなったが、無性に心地良く感じる香りがする。

「いただきます」

 僕は述べた。稀人から僕の母国にもたらされた風習の一つで、食事の前に手を合わせるという儀式がある。ユーゼ様はそんな僕を見ると、優しい顔で頷いた。帝国には『いただきます』の習慣は無いようだが、陸続きの大陸においては、敵国と言えど、隣国の文化は伝播しやすく、違和感を覚えられたわけでも無いようだった。

 静かに銀色のスプーンを手に取り、まずはスープを口に運んだ。

「味はどうだ?」
「美味しいです」
「世辞か?」
「本当です」
「それは良かった。自信作だからな」

 僕の言葉に、ユーゼ様が楽しげに笑った。ニコニコしているユーゼ様を見ると、僕も頬が緩みそうになる。これまでの人生では経験した事の無い衝動だ。

 パクパクと食べながら、僕は、自分の語彙力を呪った。僕には、『美味しい』としか評価出来ないのだが、胸を捕まれるような味がするのである。どこか芸術品のようでも無機質でもあるシェフの料理とは全然違うのだ。家庭的、と、表現したら良いのかもしれない。ふわふわの卵に、頬が落ちそうになる。

「ユーゼ様は、料理がお上手なんですね」
「よく言われる。だが、どうだろうな。これでも貧乏とは言え一応貴族の生まれなんだが、まぁ貧乏故にシェフを雇う余裕も無くてな。幼少時から、料理をして育ったんだ」
「……」
「ナイトレル伯爵家では考えられないだろう? 子息が料理をするなどとは」
「……はい。料理はシェフの仕事でした」
「正直だな」

 ユーゼ様は微笑しながら僕を見ている。僕は、果たして正直なのだろうか? 僕には、任務以外で嘘をつくというスキルが無い。思った事はそのまま伝えてしまう方だ。

「俺の育った帝国は、貧富の格差が激しい。爵位よりも、裕福な商人の方が権力を持つ事も多い。その点、絶対階級制度がある王国の方が、貴族は優遇されているだろう?」
「王国では、貴族しか魔力を持ちませんので」
「そうだったな。帝国では、民草の中にも魔力を持つ者が多く生まれる点が異なる」
「同じ大陸なのに、どうして国によって違いがあるんでしょうね……」
「朝から難しい話をするんだな」
「……え、ええと……僕は、雑談があまり思いつかなくて……」

 僕は僕なりに会話を弾ませようと試みたのだが、失敗したらしい。

「そのままで良い。自然に話してくれる事が何より嬉しい」
「……有難うございます」
「俺も異国の話を聞くのは楽しいしな」

 ユーゼ様は冗談めかしてそう言うと、スープを一口飲んでから、改めて僕を見た。

「機密は話さなくて良い。仕事は、主にどんな事をしているんだ?」

 僕達はそれぞれの仕事を、ここから通いながらする事になるのだが、結婚前の取り決めで、国家機密に関する事は話さなくて良いと決められている。だから僕は少し逡巡してから答えた。

「主に魔獣の討伐となります。国家間の戦争は停戦したから」
「そうか――人を相手にするのと、魔獣を相手にするのは、どちらが楽だ?」
「気が楽という意味では魔獣です。そこに自我が伴わないので。ただ、武力という意味ならば、人間の方が、殺りやすいです……あんまり、僕は人を殺める事は好きでは無いのですが」
「優しいんだな」

 その言葉に、僕の胸がトクンと疼いた。過去にはあまり、貰った事の無い評価だ。優しいのはユーゼ様の方だと正確に理解していたのだが、頬が熱くなってくる。僕は、誰かに優しくする事が、優しくなる事が、出来るのだろうか? もし仮に、僕にも将来の夢を持つ事が許されるのであれば、僕は人に優しい人間になりたい。いつも殺して奪ってばかりの毎日だったからこそ、そうではない人々に憧れるのだ。

「昼は何が食べたい?」
「……何でも」
「それが一番困る返答だ。覚えておいてくれ。好物は?」
「僕はエビフライが好きです……」
「では、エビフライを作ろうか。まぁ、好物ならば、美味しいものに慣れ親しんでいるかもしれないから、俺の作るものでは満足出来ない可能性もあるが」
「いえ、きっと好きになれます!」

 気づくと僕は、必死でそう告げていた。自分の衝動がよく分からない。

「――そうか。嬉しいな」

 ユーゼ様はそう言って、ただ微笑むばかりだった。
 ――この日、昼食に出てきたエビフライは、目を瞠るほど美味しかった。