【六】数日ぶりの王国
こうして穏やかな生活が始まった。僕に決定された事柄というのは、毎朝六時に起きて、六時半からユーゼ様が作った朝食を共にとるという一点だけだ。懇親会の翌日からは、ユーゼ様は帝国の王宮に行くように変わり、帰宅も遅いため、本当に朝しか顔を合わせる事は無くなった。
一方の僕は、それから三日目になる本日までは、仕事が入っていなかったので、部屋にいた。空き時間。本当に僕には、特にやるべき事も無く、ただソファに腰掛けて、ぼんやりとしていた。人生で暇な時間など、過去には無かったから、何をして良いのか真面目に分からない。
僕はこの体が朽ち果てるまで、戦い続けて、そして死ぬのだとこれまでには信じていたのだ。だからいきなり、新たな家族が出来たと言われても、やはり戸惑いの方が強い。
それでも――その相手が、ユーゼ様で良かったなとは感じている。我ながらそれが不思議だった。ユーゼ様が優しいからなのだろうか。
さて。
本日であるが、僕は生家に呼び出されていた。現在、午後二時。僕は庭の転移魔法陣の上に立った。目を伏せながら、身長よりも長い杖の先を、トンと魔法陣の中央につく。瞬間、周囲に光が溢れた。瞼越しにその光が収束するのを感じてから目を開けば、僕は生家の地下にある側の転移魔法陣の上にいた。約束は、二時半だ。
階段を上っていき、一階へと行くと、僕を見つけた使用人達が皆立ち止まり頭を下げた。僕は何をいうでもなく、その光景を当然だと感じながら、兄の執務室へと向かう。父からの指示もまた、フィリス兄上が僕に伝えてくれる事になっている。
三階にある兄の執務室の前に立つと、音も無く扉が開いた。僕の転移の魔力気配に、兄も気づいていたのだろう。一礼して中へと入ると、今度は背後で扉が閉まり、ひとりでに鍵が回って施錠された。
「よく戻ったな、ルツ」
「ただいま戻りました」
そう答えながら、やはりまだ生家の方が『家』という感じがするなと漠然と思う。リファラ山地居住区画の邸宅は、僕にとってはまだ、遠征先の砦のような位置づけだ。
「座ってくれ。それで? ユーゼ宰相閣下とは上手くやれそうか?」
執務机の前から立ち上がった兄が、僕をソファに促した。座した僕に、兄は手ずから紅茶を淹れてくれる。兄の数少ない趣味は、紅茶を淹れる事らしいと僕は知っている。
「はい。よくして下さいます」
「決して懐柔だけはされる事の無いようにな」
「心得ております」
「逆に宰相閣下をこちらの『協力者』とする事が出来れば最高なんだ……が、別に俺はルツにハニートラップのような事をして欲しいわけではない」
冗談めかして兄が笑う。その柔和な表情を見ていると、とても落ち着く。フィリス兄上は人格者だ。僕が一生支えていくはずだった人物である。
「円満な家庭を築く事が叶うならば、幸いだ。ルツの幸せを俺は願っているからな」
「有難うございます、兄上」
それから僕は紅茶を受け取った。きっと善良な兄は、本心から僕の幸せを願ってくれているのだろうと思う。
「とはいえ、実力ある者の多くが、現在はリファラ山地居住区画に集まっている。最果ての闇森からの国土防衛という意味では危機だ。たった数日間、ルツがいなかっただけでも、魔獣からの被害は甚大だった。すぐに仕事に戻って欲しい」
兄の瞳が怜悧なものへと変化した。僕は小さく頷きながらカップを置く。
「立ち入った事かもしれないが、子供を作る事に支障が出ないように、定期的に帰宅してくれ。それ以外は、なるべく今まで通り働いて貰いたい」
「承知しました」
暫くは子供も作らないようだったし、朝しか顔を合わせないのだから、僕は朝だけ家にいれば問題は無いだろう。
「次の作戦開始は、本日十六時。完了は十八時を予定しているが、任務は困難を極めるかもしれないし、目標とする魔獣群の討伐完了までは帰宅は出来ないかもしれない。ユーゼ宰相閣下に連絡を入れるならば早めが良いだろう」
連絡は不要だろうと考えたが、僕は頷いておいた。折角の兄の配慮を無駄にしたくはない。
「十五時から、最終作戦会議がある。出席するか?」
「そうですね……規模は知りたいけど……人員は……」
「森の西一帯がルツの担当で単独討伐だ。東一帯には、宮廷魔術師の一個師団が展開予定だ」
「そうですか」
僕は気が楽になった。討伐は、一人の方が良い。何も考えずに攻撃魔術を放つ事が出来るからだ。味方が巻き込まれる事を考えなくて良い方が楽なのだ。
「本来、一人で行くなどというのは、自殺行為だ。そこに送り出すというのは、辛いものがあるが、お前になら出来ると俺は信じている」
しかし優しい兄は、いつも僕の心配をしてくれる。その事実だけでも、僅かに心が温かくなる。自然と僕の唇の両端が少しだけ持ち上がった。
「僕は大丈夫です」
「そうか。では、無事を祈っている。作戦会議は、王宮の第二塔で行われる」
「分かりました。規模の確認に参加してきます」
そう答えてから、僕はカップの中身を飲み干した。
そして兄の執務室を出てから、真っ直ぐに地下へと向かう。
ユーゼ様への連絡は特にしない事に決めた。今頃あちらも仕事で多忙だろう。
お互いの仕事には踏み込まないのが約束であるし、余計な知らせをして煩わせる事も無いだろうという判断だ。
転移魔法陣の上に立ち、僕は今度は王宮の魔法陣へと移動した。混雑している移動の間を抜けて、僕は第二塔を目指す。既に多くの宮廷魔術師達が集まっていた。騎士の姿もある。たった数日足を踏み入れなかっただけだというのに、無性に王宮が懐かしい場に思えた。生家ともまた異なる感覚だったが、やはり僕はこうした『戦う』という空気の方がなじみ深いのかもしれない。
「来たか」
僕は真っ先に、総指揮官である父へと歩み寄った。宮廷魔術師長の正装姿の父は、僕を見ると目尻の皺を深くして、微笑した。父は兄とよく似ている。
「結婚生活は順調か?」
「……はい」
「今の間は、何だ? 帝国の宰相閣下といえど、ルツを蔑ろにするようならば、私が抗議する事を約束するぞ?」
「あ、いえ……とても優しくして下さいます」
「惚気か? それはそれで、父としては寂しいぞ。幸せなのは良い事だが、嫌になったらいつでも『実家に帰らせて頂きます』と伝えるように」
「は、はい」
父上は、いつも明るい。普段は。
ただ、戦場においてだけ、その表情は一変する。
その後は、与えられた席について、僕は作戦会議に臨んだ。今回は、数百体の魔獣を相手にするのだと聞いた。狼型だという。
攻撃魔術にはランクがあるのだが、僕が用いるSSSランクの王国術式ならば、一撃で殲滅可能だろうと、説明を聞きながら考える。脳裏で展開予定の魔術の魔法陣を思い描く準備をした。王国術式は、無詠唱で、脳裏に魔法陣を描く事で発動可能だ。
現地には、既に移動用の簡易転移魔法陣を、宮廷魔術師の師団の一つが展開済みらしい。後は出向くだけだ。
会議終了後立ち上がり、僕は静かに目を伏せた。