【九】僕はソーセージが食べたかったのかもしれない。




 翌朝。
 そのまま寝入ってしまった僕は、朝靄の中で目を覚ました。開けっぱなしだったカーテンの向こうは白いが、日の光は見えない。寝転んだままそれを確認したのは、僕を横からユーゼ様が抱きしめていたからだ。

「起きたのか?」

 その時、ユーゼ様の瞼がピクリと動いた。起こしてしまったのだろうかと考えていると、目を開けたユーゼ様が僕を見て微笑した。

「おはよう、ルツ」
「おはようございます……」

 僕はユーゼ様と目が合った瞬間、何故なのか顔から火が出そうになった。昨夜の、己の痴態が脳裏を過る。頬が、熱い。何を言えば良いのか分からない。

「体は大丈夫か?」
「……はい」

 視線を逸らしながら、僕は静かに答えた。どうしてユーゼ様は、こんな風に平然としていられるんだろう? 僕はギュッとシーツを握りながら、どんな顔をしたら良いのか思案した。普段の僕は表情筋が動かない事に定評があるわけだが――顔が兎に角熱いのだ。

「初々しいな」
「え?」
「真っ赤だぞ」
「……か、揶揄わないで下さい」
「事実だ。俺はあまり嘘を好まない」

 ユーゼ様はそう言うと、僕の頭を優しく撫でた。あやされているような気分になって、僕は思わず目を閉じる。

「そういう可愛い仕草と表情をされると、また襲いたくなるから困る」
「……」

 きっと――魔王討伐について考えたならば、襲われた方が良いのだろう。一度きりでは、子供が出来るとは限らないはずだ。だが、昨夜のような事が続いたら、僕は恥ずかしくて悶絶して死んでしまう気がした。

「僕、お風呂に入りたいです」
「一緒に入るか?」
「は、入りません。一人で入れます!」
「今のは揶揄ったんだが」
「!」

 僕は真っ赤のままで目を見開いた。ユーゼ様はクスクスと笑っている。その表情が無性に格好良く思えた。僕は一体、どうしてしまったのだろう……。

「では俺は、今日はいつもよりも遅いが、朝食を作って待っている事にする。ルツが眠っている間に、俺はシャワーを浴びたんだ」
「……そうですか」

 その後僕は気怠い体を起こして、寝台から降りた。ユーゼ様もまた立ち上がった。
 それから僕はクローゼットから出したバスローブを羽織って、階下へ向かい浴室に入った。湯船にじっくりと浸かりながらも、終始僕は赤面していた。

 乳白色のお湯からは、ユーゼ様の香りがする。だが、昨夜知ったユーゼ様自身の体の匂いは、もっとずっと心地良かった。ずっとあの香りに浸っていたいと思ってしまう。一度考え出すと、脳裏をユーゼ様の様々な表情が埋め尽くしていった。

 お風呂からあがり着替えた僕は、リビングへと向かった。するとバターの良い香りが漂ってきた。今日はトーストとサラダ、メインは茹でたソーセージのようだ。僕が席に着くと、ユーゼ様が切った檸檬入りの水を差しだしてくれた。

「有難うございます」

 よく冷えた檸檬水で喉を潤していると、僕の正面にユーゼ様が座った。

「首の痕が、その服だとよく見えるな」
「な、っ」

 その言葉に、僕は慌てて首筋を押さえた。

「冗談だ」
「……!」

 思わず僕はユーゼ様を睨んだ。ユーゼ様は余裕たっぷりに笑っている。それからフォークを手にすると、鮮やかな緑のレタスにそれを突き立てた。僕もまたフォークを手に取り、コーンを食べる事に決める。唇を尖らせながら、僕は改めてユーゼ様を見る。

「ユーゼ様は、思ったよりも意地悪ですね。優しいと思ってました」
「意地悪な俺は嫌いか?」
「……そ、その」

 別に意地悪じゃなかったとしても、好きなわけじゃない。最初はそう反論しようとしたが、すると胸の奥がツキンとした。本当に? 僕は、ユーゼ様が嫌いじゃない。

「優しい俺が好きか?」
「……」
「――ルツは思ったよりも顔に出るらしいな」
「え?」
「その朱い顔を見ていたら、勘違いしても仕方が無いと言いたい。ルツは俺を好きなように見える」
「ち、違――」
「違うのか?」
「……」

 僕は何も答えられなかった。ユーゼ様はサラダを食べながら、僕を見ている。今日の朝食も美味だ。僕の亜空間魔術ポストに着信があったのは、その時の事だった。僕は慌ててフォークを置き、左手にはめていた腕輪に右手の人差し指で触れた。すると僕の正面に魔術ウィンドウが展開した。

『ルツ』
「父上……」

 急な通信に、僕はユーゼ様をチラリと一瞥した。するとユーゼ様は笑みを消し、僕をまじまじと見据えていた。

「……食事中だったので、場所を移動します。少々お待ち下さい」
『急ぎの用件だ。すぐに、王国の王宮に来て欲しい。なるべく早く。以上だ』

 父は簡潔にそれだけ述べると通信を切断した。魔術ウィンドウから放たれていた父の声は、ユーゼ様の耳にも入ったはずである。そう考えて、僕が視線を向けると、ユーゼ様がどこかつまらなそうな顔になった。

「仕事が入ったのか」
「は、はい……」
「次の休日は合わせられると良いんだが――……ルツ。約束は守ってくれ」
「分かりました」

 残して申し訳ないとも思ったが、僕はそのまま立ち上がった。するとユーゼ様は片目を細めて残っているソーセージを見たが、何を言うでも無かった。

 僕にとって、現ナイトレル伯爵家の当主である父の言葉は、絶対だ。父と兄に、僕は逆らえない。逆らう気も起きない。そもそもこの婚姻をするまでの間、僕には自発的な意思などほぼ無くて、自分で物事を考えるという事自体を放棄していたに等しい。

 では、今は?
 僕は庭にある転移魔法陣へと向かいながら、瞬きをした。ユーゼ様の顔が、瞼の裏側にこびりついている。今は、急がなければならないというのに。なのに、僕は二人きりの時間が終わってしまった事が、朝食を最後まで共に食べる事が出来なかった事実が、無性に寂しい。何なのだろう、この感覚は。

 転移魔法陣の中央に進み、僕は瞼を閉じて、転移先を思い描く。魔術古代文字で位置指定が可能だから、迷わず目指す王宮を指定した。光に飲まれ、次に目を開いた時には、僕は、『職場』にいた。

 混雑するその転移の間を通り抜けて、僕は、真っ直ぐに父の執務室へと向かう。何人もの人とすれ違いながら、回廊を抜けて、階段を上った。

 そして父の執務室の正面に立った。右手で二度ノックをすると、中から声がかかった。

『入ってくれ』
「失礼します」

 僕が入室すると、背後で勝手に鍵が回った。父が魔術で施錠したのだ。

「先日ルツが討伐してくれた竜に関して、こちらでも即座に確認のため、内密に宮廷魔術師を数人派遣し、遺骸を見聞した。ルツの報告の通りであったが、他に分かった事もある」

 父は組んだ手の上に、顎を乗せながら、単刀直入に僕に切り出した。瞳が鋭い色を宿している。

「通常の魔獣とは異なっていた。端的に言えば、あれらは――まだ幼生だったのだが、成竜なみに巨大化していたと分かった。魔王の繭の魔力の影響だと考えられる」
「……今後は、巨大化した魔獣が増える可能性があるという事ですか?」
「それもある。だが、問題は、それだけではない」

 父はそう言うと、片手で抽斗を開けて、中から一つの鏡を取りだして、執務机の上に置いた。繊細な魔術細工の縁取りが成された、丸い鏡だった。考古館で見た記憶がある。

「これがなんだか分かるか?」
「古代魔術の媒体では?」
「その通りだ。中でも、ミゼラルダ教という、今は失われし秘密魔術の流派で用いられていた品だ」
「ミゼラルダ教……」

 僕はその名を耳にした事があった。というのも、エンデルフィア公国との前回の戦争後、停戦協定を結んだ数日後に、公国ではテロ事件があったのだが、その主犯が、ミゼラルダ教の後継だと名乗る宗教団体だったからである。当時は僕も、和平協定制定の関係者として公国にいたから、悲惨なテロの直後の現場を直接目にしたものだ。

「これが、竜の胃袋の中から見つかった。この鏡は、魔王の繭の力を吸収する効果があるらしい」
「……それは、その……ミゼラルダ教の人間が、魔獣を操るというか、手引きしたというか……」
「そうだ。そして三体の竜は、お前の報告にもあったが、この王国を真っ直ぐに目指していた。最も最果ての闇森から近いからだけではなく、現在王国は狙われていると考えられる」
「!」

 僕が息を呑むと、父は難しい顔で鏡へと視線を下ろした。

「現在は、公国とも帝国とも、勇者候補育成の件で協調している。それも手伝って、此度のミゼラルダ教の関与疑惑にも、今後の魔獣討伐に際しても――協力関係を締結する事になった」
「協力関係?」
「森とは直接接点の無い帝国はまだ調節中だが、領土の一部が森に触れている公国は、すぐに討伐隊を組み、派遣すると申し出てきた。明日は我が身……公国が襲撃される可能性も無論あるから、情報を求めているという側面もあるのだろうし、元々公国に根付いた新興カルト宗教が主犯の可能性が高いから責任を感じているというのもあるのだろうが」
「……」
「ルツ。今後は、公国の人間と共に討伐隊を編成する事になる。中でも――ルツには、組んでもらいたい相手がいる」

 父はそう言うと、一度瞬きをした。

「世界樹の――『裏階梯』、完全なる実力、実態魔力、技巧を含んだランキングの一位の人間は知っているな?」

 僕は頷いた。表階梯が、僕が二位、ユーゼ様が一位であるように、裏階梯でも二位の僕には、いつも一歩進んだ評価をされる相手が存在している。それが公国にある【天球儀の塔】の主席魔術師である、ラインハルト=フェルゼンバーグだ。僕の二つ年上の二十三歳だ。何度か公国で開かれた夜会で顔を合わせた事がある。黒い髪に黒い瞳をしている青年だ。ユーゼ様の髪よりも更に黒い。それこそ、闇夜という言葉が似合う漆黒の色彩をしている。

「ラインハルト=フェルゼンバーグと僕が?」
「そうなるだろう。巨大化した魔獣は、一撃必殺で倒す事が多くなる。範囲魔術であっても単体魔術であっても、なるべくその一撃に威力を込めなければならない。それが同時に複数出た場合、同等の攻撃力を保持する者達が力を合わせる方が、弱い数百名の集団よりも力を持つ事になるからな」
「分かりました」
「顔合わせを午後に予定している。それまでの間は、今後の作戦計画の資料を読んでいてくれ」

 父はそう口にすると、抽斗から羊皮紙の束を取り出し、机に置いた。一礼し、僕は歩み寄って、それを受け取り、掌をあてがう。そして魔術で内容を読み取り、記録用の魔導具の指輪に内容を保存したのだった。