【十】魔術の神に纏わる事柄
「時間だ。第二塔の五階の、応接室へと向かってくれ」
そのまま父の執務室で資料を読み込んでいた僕は、その言葉に顔を上げた。
「本来であれば、私も同席すべきなんだが――先方の希望でな。既にラインハルトと私も、公国から来ている他の魔術師達との顔合わせも終わっている。何でもラインハルトは、ルツと二人で話がしたいそうだ。実務的な今後の打ち合わせを兼ねて」
腕組んでいる父上は、どこか呆れたような顔をしていた。
「本来であれば、失礼がないようにと言う所なんだろうが、父は心配だ。ラインハルト=フェルゼンバーグは噂に違わず、規格外の天才肌――といえば聞こえは良いのかもしれないが、私には必要なネジが緩んでいる印象を与えた」
「……」
「ルツ、気をつけるように」
「はい」
僕もその噂は知っていた。僕が直接顔を合わせた数度では、その気配を感じた事は無いが、そもそも【天球儀の塔】自体が、奇人変人の集まりだと聞いた事がある。この大陸一の魔術師集団であるのは、裏階梯のランキングから言っても間違いではないのだが。
裏階梯のランキングは、二位が僕の他は、一位をラインハルトとし、三位から十位までの八名も天球儀の塔の魔術師が占めている。その後三十位ほどまでが、王国の宮廷魔術師。その下からは帝国・公国・王国のその他の宮廷魔術師の名が続く。公国において、天球儀の塔は、宮廷魔術師からは独立して存在しているし、王国や帝国からも学びに来る魔術師を受け入れているとも聞く。だが、学ぶ事を許されるものは出自を問われないが、滅多に許可が出ないらしい。難しい入塔試験が存在するのだという。その他は、完全スカウト制らしい。
そういえば僕は、裏階梯のランキングで、ユーゼ様の名前を見た記憶が無い。宰相職にあるから魔術技巧――特に攻撃魔術等使わないのだろうし、そもそも習得していない可能性もあるが、多くの場合は、表階梯に名を連ねていれば幼少時から魔術を学ぶから、ある意味ではとても珍しい事だと思う。それとも、帝国自体があまり魔術に熱心では無い事も関係しているのだろうか?
その後僕は父の執務室を後にし、宮廷魔術師の管轄下にある王宮の第二塔の五階へと向かった。飴色の豪奢な扉の前に立ち、手を持ち上げる。そして、二度ノックをした。返事は無い。僕はそのまま扉を開けた。
「失礼します」
「ん? おう。ルツ=ナイトレル、本物だ。前に公国の夜会で会ったけど、覚えてるか?」
象の肌色の横長のソファに深々と座り、その背に両腕を回してだらしなく座っていたラインハルト=フェルゼンバーグは、姿勢を変えず、僕を見るとニヤリと笑った。
「はい」
頷きながら、僕はテーブルを挟んだ位置にある、ラインハルトと正面に座った。するとラインハルトがくるくると右手の人差し指を回してから、パチンと指を鳴らした。僕の正面に、紅茶の入るカップが出現した。
この第二塔には、宮廷魔術師達が、指定外の魔術を使用出来ないようにする結界を展開している。だがそんなものが存在しないとでもいうかのように、呼吸をするようにラインハルトは召喚魔術で飲み物を用意した。そもそも飲食物に劣化させないための時間魔術をかけて、亜空間倉庫に収納する事自体が、実に難易度の高い魔術だ。僕もやれと言われたら出来なくはないが、基本的に専用の魔術固形食を食料としては収納しているから、このような魔術の使い方はしない。
パチンパチンとその後もラインハルトは指を鳴らし、テーブルの上には、様々な菓子が溢れた。僕はクッキーやマカロンを一瞥してから、改めてラインハルトを見た。本人は、まだ明るい時間だというのに、赤ワインのボトルを出現させて、グラスに注ぐでも無く、ラッパ飲みしている。彼の前には、サラミやチーズの載るスタンドが出現した。
「聞きたい事があったんだ」
「僕が発見した、巨大化した魔獣についてですか?」
他に話題など無いだろうと判断して、僕は問いかけた。なお、紅茶には手をつけない。僕は基本的には、他者が用意した料理には口をつけない。そう考えて、不思議に思った。ユーゼ様の料理は、最初から食べていた事を思い出す。何故なのか、ユーゼ様に対しては、著しく警戒感が弱まるような気がする。
「いいや、違う。バルミルナの帝国の宰相――ユーゼ=ヴェルリス・バルミルナと伴侶関係になったそうだな」
僕はその言葉に驚いた。三つの意味合いで。実を言えば、僕はユーゼ様の名前を正確には知らなかったのである。というのも表階梯順位のランキング表にも、『ユーゼ』としか記載が無い。実は名前しか記載されない事は、そう珍しい事では無い。だからこれまで僕は気にした事が無かった。生家の名前が記載される人間は、魔術師の家系である事が多いからだ。単純に、その他の貴族家の出身なのだと考えていた。
嘗て少しだけ聞いた、ユーゼ様の家の話を思い出す。貧乏だったと話していた記憶がある。二つ目の驚きは、この点だ。姓名に、『バルミルナ』と入っている。帝国皇帝家の名前だ。皇帝の血筋になければ、名乗る事を許されない。帝国皇帝家の縁者だったという話など初耳だし、そもそもそんな尊きお血筋の人間が、貧乏?
三つ目の驚きは、『ヴェルリス』という名だ。
その昔、この大陸の国々がまだ一つだった頃――その話自体が神話であるため真偽は定かでは無いが、一人の王と三人の王子がいたらしい。三人の王子は、それぞれの国の始祖とされているが、各国の正史は、この三名の話から始まる。全てを治めていた本当の始祖王についてや、彼らが兄弟だったのかについては、お伽噺の域を出ない。
さてその創始の王には、右腕がいたのだという。それが魔術の神とされるヴェルリスだ。三カ国のいずれでも、魔術の神として、現在でもヴェルリスの名が出る事はある。例えばこの王国の宮廷魔術師の紋章である片翼の鷲は、ヴェルリスの紋章と呼ばれているし、帝国の宮廷魔術師及び魔導騎士団のエンブレムとして用いられている左手を模したマークはヴェルリスの左手と呼ばれているし、公国の宮廷魔術師の使用する魔導書群はヴェルリスの聖書と呼ばれ、銀の六芒星の印が縫い込まれている。天球儀の塔の紋章とされる眼球のマークはヴェルリスの遙かなる瞳という名前だったと思う。
兎に角魔術師と関係の深い神であり、ヴェルリスだけは実在したと考えられている。
「その名前は、正確なんですか?」
「正確だ。俺の師匠――キルト=ヴェルリスと、前帝国皇帝ザイス=アイゼル・バルミルナのご子息がユーゼだからな。小さい頃は、俺もユーゼと遊んだりしたぞ」
「……」
「まさか素性を偽って、実力で帝国宰相まで上り詰めるとは思ってもいなかった。てっきり魔術師として天球儀の塔に来ると思ってたからなぁ」
グイグイと赤ワインをラッパ飲みしながら、ニヤリとラインハルトが笑った。黒い髪が揺れている。夜のような黒い瞳には、楽しそうな色が浮かんでいる。
「なるほど、なるほど。伴侶にも話していなかったということか。いやぁ、俺は口がどちらかと言えば軽いからな」
「……」
「今となっては、ユーゼの素性を知る人間は、俺くらいかもしれないしな」
「……」
「ルツ、お前も直接聞く事が出来ると良いな。一応、番いなんだから」
その言葉が、胸に重くのしかかった。
――香りがしたのは、その時の事である。ハッとして、僕は目を見開いた。
ユーゼ様の香りが、確かに漂っている。
「この辺りか? ユーゼの魔力が放つ番いの香りは」
「ど、どうして……」
「番い判定技術を生み出したのは、天球儀の塔だ。大陸全土に、今もその特殊フィールドを展開しているのも、天球儀の塔だ。天球儀の塔のおかげで、人間は番いを判別出来るようになったんだよ」
僕は硬直した。無意識に、紅茶のカップに手を伸ばす。ダメだとは思うのだ。よく知らない相手に振る舞われた紅茶など。だが、香りを嗅いだ瞬間に、プツンと僕の中で危機感が薄れた。途切れたに近い。
「ユーゼの魔力を知る俺が、対面して直接ルツの魔力を見れば、双方の一致箇所の特定なんぞ易い。ああ、俺も番いが欲しいもんだよ。俺ならば、自分で好きな相手の香りを調合して、番いのフリだって可能なんだ――が、今の所、恋に落ちた事は無いし、やっぱり結婚するなら、魔力の問題じゃ無くて、心の問題だと思うしな」
ラインハルトは嘆くように吐息してから、再び笑った。
「例えば――こちらの香りはどうだ?」
その瞬間、周囲に漂う香りが変化した。すると僕の脳裏に、冬に咲く白い花が過った。
「アメアリア草に似た香り」
目眩がして、僕はカップを置いてから、口元を押さえた。ゾクリと背筋が泡立ったようになり、僕は思わずじっとラインハルトを見た。本能的に――危険だと感じていた。
「俺に服従させる香りだ。体も――いいや、心も自由に出来る。もう少し強くすれば」
僕は反射的に、周囲に魔術結界を展開した。そして香りを遮断する。すると僅かに香りが薄くなった。ラインハルトはニヤニヤと笑っている。
「お前、良い匂いがするな。あーあー。俺も、立食パーティに行けば良かった」
「――表階梯順位、三位だったのに、あの場にいなかったんですか?」
「ほら、俺が求めるのは、魔力の香りじゃなく、心だからな。お見合い結婚なんてする気が無かった」
「……魔王の繭を倒さなければならないのに」
「そんな国家間の決めごとに、俺が属する天球儀の塔が囚われるはずもないだろう?」
その時、パチンをラインハルトが指を鳴らした。結果、周囲に漂っていた香りが完全に消失した。一気に体が軽くなり、僕は気が抜けて、思わず息を吐き出した。気づけば冷や汗が浮かんでいた。
「さて、実務的な話をするか」
「……」
「俺の希望はただ一つ。神の血――ヴェルリスの名を継ぐ後継者を早急に設けて欲しいというものだ。それは勇者候補の子供を生み出すという計画と結果だけ見れば同一だろう」
僕はその言葉にじっとラインハルトを見た。
「そして、その子供を、俺はもらい受けたい」
「え?」
「安心しろ。勇者になり得る魔術師としての教育をする事は保証する。俺の弟子にしたいんだ。産まれてくる子供を」
突然の話題に、僕は目を見開いた。
「お前の魔力量ならば、ユーゼに相応しいだろう。母体として最適だ。だから、俺としてはルツに死なれると困る。そこで、だ。今後の討伐において、俺がお前を守ってやろう」
「……」
「その代わり、必ず、ユーゼの子供を産め。世界に溢れる魔力のために」
「僕は……守られるほど弱くはないです」
「そうか」
「それに子供が生まれても、貴方に渡す保証は出来ません。それは、ユーゼ様と僕が決める事だから……」
「――勇者候補にはするくせに?」
余裕たっぷりに笑っているラインハルトの言葉に、僕の胸がずっしりと重くなった。僕には、分からない。確かに、いつか生じる魔王を討伐するための導具として、子供を作るつもりなのかもしれないが……そう考えた時、脳裏にユーゼ様の優しい笑顔が浮かんだ。
「……僕には決められません。ユーゼ様に直接話して下さい」
ユーゼ様は子供の事を、どんな風に扱うのだろう? いつか、子供には幸せになって欲しいと話してはいなかっただろうか?
「ユーゼより、お前の方が御しやすそうなんだけどなぁ。ま、考えておいてくれ。さて、行くか?」
「何処に?」
「何処って、魔獣の討伐だろ?」
「何の打ち合わせも――」
「打ち合わせしなければ、倒せないなら、やはり弱いな。俺は右側を倒すから、お前は左側。守らなくて良いなら、円を描いて半分ずつで良いだろ?」
確かに資料は既に読み込んでいるから、討伐は可能だ。だが――……
「僕は、ラインハルトの実力を知らない」
「お。俺の事が不安か。随分な自信かつ、俺を見くびってるな。まぁ良い。それも初回限りだ。俺の実力を見せてやるよ」
こうして、僕達は討伐に向かう事になった。ラインハルトがアルコール分解魔術を用いた気配を感じ、僕は少しホッとしていた。