【三】大人になるという事と始まりが不明瞭な初恋




 天球儀の塔の研究室に於いて。  研究室は主席魔術師の間の他に、存命中の過去の主席魔術師の個人室が併設されているのだが、その中央に居間が存在する。俺は、そこにある横長のソファに寝そべり、目を伏せている師匠を見た。  既に、俺が主席魔術師となって、七年が経過し、今年で八年目となる。その間も、師匠は俺を導いてくれた。  今になって思えば、おんぶをしてもらったり、小さな手を握ってもらった頃と比べると、随分と俺も大人になった。今年で二十一になる俺は、最近――一つ悩みがある。  ラインハルト様を見ていると、無性にその薄い唇に惹きつけられるのだ。何故なのか、欲しくなるのだ。じっと見てしまう。今も、眠っている師匠の唇に、俺は釘付けだ。  師匠は変わらない。  ルツ父様やユーゼ父上も大概若いが、もっと若く見える。それこそ出会った時から、変わらないように見える。それでも大人びている事は確実なのだが……俺の体も大きくなった。背も伸びて、今では、前よりも師匠を見上げる角度が下がったと感じている。それでも師匠は大きい。それは俺より身長が高いからというだけでなく、存在感が大きいのだと思う。 「……」  俺は静かに師匠へと歩み寄った。そして横から、眠っている師匠の顔を覗き込む。師匠の胸元には、魔導書が開いた状態で乗っている。思いのほか長い睫毛、端正な鼻筋、アーモンド型の双眸。どれも……好きだ。ずっと見ていられる。  歩み寄るともう『ダメ』で、俺は香ってくる甘い匂いの中、目を伏せ、唇を近づけていた。師匠は寝ているから、きっと気がつかないはずだ。なにせ、ここ三日ほど、眠っていなかったらしいと俺は知っている。それに師匠は、一度寝るとあまり起きない。俺はそれを知っていて、既に何度か、眠っている師匠にキスをしそうになってきた。そして今回は――本当にしてしまった。 「っ」  柔らかい感触を覚えたその時の事である。不意に俺の後頭部に大きな骨張った手が回った。狼狽えて目と口を開いた俺に、薄らと目を開いた師匠が舌を差し込んできた。驚きすぎて硬直していると、歯列をなぞられ、舌を追い詰められた。 「ん」  絡め取られた舌を引きずり出され、甘く噛まれる。俺の肩がピクンと跳ねた。これ、は。何だろう。俺には、深いキスの知識が欠落していた。背筋を這い上がってくる熱の意味も分からない。  暫しの間、師匠は味わうように、俺の口腔を貪っていた。  唇が離れ、唾液が線を引いた時、目を見開いたまま俺は赤面した。後頭部から離れた師匠の手が、俺の顎を持ち上げる。 「ライゼ」 「な、何……」 「これ以上は、ダメだ」 「……」 「子供がデキるからな。それにまずは、恋人として付き合わないとしちゃダメだ」  その言葉を耳にした瞬間、俺は更に真っ赤になった。上半身を起こした師匠は、緩慢に瞬きをしてから、欠伸をした。そして俺を見ると、ニッと笑った。精悍な甘い香りがする。 「【最果ての闇森】は、どうだった?」 「っ、その……来週、ゼリルも来る事になってる。もう少し詳細で深い調査をしようという話になっているんだ」 「合同調査か?」 「ああ」 「気をつけていけよ。俺はそろそろ、研究室にこもる」  ラインハルト様はそう述べると、本を片手にソファから降りた。そして腕で伸びをしてから、自身の研究の間へと消えてしまった。赤面したままその姿を見送っていた俺は、一人小さく頷く。 「……ユーゼ父上とルツ父様も、よくキスをしているしな。それで、子供が、俺達がデキたのか……最近は、子供を作らないようにしているのか?」  キスをすると、子供がデキる。  俺は今日までその事を知らなかった。過去、どうすれば子供がデキるのかと、師匠に聞いた時は、『恋人が出来れば自然と分かる事だ。恋人に教えを請え』と言われた。ただ同時に、『最初は、避妊をする事も検討しろ』として、世界には、子供を作らない方法があるらしいと言う事は教えてもらった。  ……今は、特別な事は、何もしなかった。が、触れるだけでは無い、キスをした。 「子供……デキたのか?」  ラインハルト様との間に、子供?  胸がドクンとする。俺は既に師匠を家族のように思っているが、子供がデキたとすれば、より本格的な家族になれる気がした。ユーゼ父上とルツ父様のような関係が、俺は羨ましい。  明確に、俺は大人になるにつれ、理解した事がある。ラインハルト様が、特別に好きなのだが、その『好き』は、他の人々に対する想いとは一線を画すのだ。師匠を見た時しか、俺はドキドキしない。俺は、多分、小さい頃師匠が読み聞かせてくれた絵本の中のお伽噺でしか知らない概念だが、恋をしているのだと思う。何せ、胸が疼き、切なく、苦しくなる事があるのだから――同時に、師匠の笑顔を見ているだけで、無性に幸せにもなる。  ずっと、ずっとずっと、一緒にいたい。  もう子供ではなくなり、幼年時代が終わった俺に待っていた、新たな感情。その名を知った俺は、ラインハルト様の事ばかり考えてしまう。ラインハルト様の甘い香りに浸る時、俺は蕩けそうになる。  今になって思えば、一目出会った時には、既に好きだったのかもしれない。俺の初恋はラインハルト様だと断言出来るのだが、いつから好きだったのかと問われても、最初からとしか言いようが無い。  ――その日は、宣言通り、師匠は己の研究の間から出ては来なかった。広い食堂で、俺は人混みの中、皿に料理を取ったが、席には自分一人だった。既にこういう日常にも慣れている。もう俺は、ラインハルト様の腕の中で無くとも眠る事が可能だ。自立し、大人になった。けれど……時に、無性にあの腕の温度が恋しくなるし、食事だって共に口にしたいというのが本音だ。