【四】師匠の腕の中(☆)



 それから三日間、師匠は研究の間から出てこなかった。寝室を奥に抱く私室は、研究の間と廊下から通じている。俺は何度か師匠の部屋の前に立ったが、すぐに引き返した。  ゼリル達との共同調査があるからその準備をしていたというのもあるが、師匠の邪魔をして――我が儘を言って、嫌われるのが何より嫌だからだ。  だけど、四日目にもなると、もう我慢が出来なくなって、俺は師匠の部屋の扉をノックした。廊下の窓からは、白い月が覗いていた。 『何だ?』 「……顔が見たいだけだ」 『――入れ』  ラインハルト様が、少し間を置いてから、そう言った。それだけで、俺は嬉しくなり、両頬を持ち上げる。中に入ると、良い匂いがした。ラインハルト様から香ってくる匂いではない。師匠が室内に炊いているお香の匂いだ。昔からこの香りも変わらない。  一人がけのソファに座り、ブランデーを飲んでいた様子のラインハルト様は、長い膝を組むと、正面の席を見た。口元には、弧を描いている。 「お前も飲むか?」 「ううん。明日は王国からの討伐依頼で出るからな。酒が残っていたらまずいから」 「俺の弟子とは思えない真面目さだ」 「俺は師匠の弟子だ。そんな事を言わないでくれ」  唇を尖らせて俺が抗議すると、苦笑するようにラインハルト様が喉で笑った。綺麗な黒髪が揺れている。夜の空のような色の髪と瞳が、俺は好きだ。 「なぁ、師匠」  俺は視線を一度下げてから、チラリと師匠を見た。上目遣いに、師匠の様子を窺う。幸い機嫌は良さそうだ。 「何だ?」 「……キスしたい」  率直にそう伝えると、片眉を下げて、珍しく師匠が困ったような顔をした。決して困らせたいわけでは無いのだが……俺は、自分の気持ちを抑えられそうにないのだ。 「ダメだ」 「なんでだ?」 「子供がデキるって教えただろ?」 「……じゃあ、今日は一緒に眠ってくれ」  悲しくなりつつ俺がそう言うと、師匠が吹き出した。片手でロックグラスを持ち上げた師匠は、スッと目を細める。しかし口元には、笑みが浮かんでいるから、怒っているわけでは無さそうだ。  小さい頃とは異なり、俺が二次性徴を迎えた頃から、師匠は寝室を分けると宣言した。正確には、俺の寝室は、俺が主席魔術師となった時から存在したのだが、十四歳くらいまでは、抱きしめて眠ってもらっていた。今も、たまにお願いしている。俺が腕枕を頼む時、最近の師匠は、目を細める事が多い。その黒い瞳が、独特の煌めきを宿しているように見える事が多いのだが、俺にはよく分からない。 「仕方無ぇなぁ。ライゼは、いつまで経っても――いいや、今の方が、可愛いから困る」 「俺、可愛いか? それ、子供ぽいって意味? どちらかというと最近は、格好良いって言われるけどな」  俺は師匠のように格好良くなる事が、目標である。ラインハルト様にとっても頼りになる魔術師となりたいのだ。 「いいや艶っぽ――……大人っぽくなった。それは間違いない。だから、困るんだよ」 「?」 「ユーゼとルツから受け継いだ魔力色が放つ香りは、壮絶だな。本当、俺の理性も、よく持ってるよ」 「ラインハルト様が、理性的じゃない時なんかあるのか?」 「俺をそう評価するのは、ライゼくらいのものだけどな」  確かに師匠は、『頭のネジが抜け落ちている』と評されがちだ。実際、研究対象も奇っ怪なものも多い。だけど俺は、物事に打ち込む師匠の姿勢が好きだし、その熱意に感銘を受けてばかりだ。俺にとって師匠は、誰よりも、『常識人』である。 「寝室に行くか」  指をパチンと鳴らして、ロックグラスとブランデーの瓶を消失させたラインハルト様は、静かに立ち上がった。それを見て、頷いて俺も席を立つ。嬉しい。師匠の腕の中で、今夜は過ごせるのだ。  私室の居室から通じている寝室へと行き、師匠が寝そべったのを見る。師匠は片手で俺を手招きした。嬉しい気持ちで、俺は寝台へと歩み寄り、その上に乗る。シーツに皺が出来たが、気にしない。 「ほら」  師匠が俺を抱き寄せた。俺は師匠の脇の下に頭を預けて、その厚い胸板に手を乗せる。師匠の体温が好きすぎて、俺はどうにかなってしまいそうだ。最近、師匠の温度をこうして感じる時、俺の内側に不思議な感覚が浮かび上がってくる事がある。体が震えるのだ。  自慰というのを俺は習ったのだが、普段、俺は己の陰茎に触れたいとは思わない。天球儀の塔の医療魔術において、自戒もまた学ぶから、吐精しなくても過ごす事が、所属する魔術師には可能なのだ。 「……っ」  けれど現在のように、師匠に頭を撫でられながら、耳の後ろをなぞられると、ゾクリとする。体の芯が熱を帯びたようになり、俺の陰茎は持ち上がりそうになるのだ。師匠はもう一方の手を俺の腰に添えると、そちらも撫でる。脇腹から太股の側部までを、優しい手つきでなぞられると、いよいよダメだ。 「ッ、っ」  師匠が、俺の首筋を舌で舐めた。俺は瞳を潤ませる。  ラインハルト様の手が、俺の内股に触れ、手の甲が、服の上から、俺の陰茎の付け根に少しだけ触れた。俺の喉が震える。体が熱い。焦れったいような何かがせり上がってくる。けれどその正体や名前が、俺には分からない。  すぐに師匠の手は離れ、今度は力が抜けた俺の胸へと回された。指先が、軽く乳首を挟むように置かれる。トクンとその箇所から、体に何かが染み入ってくる。師匠の手に他意は無いのだろうが、俺の体は大変だ。 「っ、ぁ……」  軽く指先を動かされたら、思わず声が漏れてしまった。それが恥ずかしくて、ギュッと俺は目を閉じる。するとラインハルト様が吐息に笑みをのせた。その気配に恐る恐る双眸を開けると、師匠はスッと目を細めていた。先ほどと同じように、その黒い瞳には、何かが炎が揺れているような、色気が灯っているような、不思議な煌めきがある。 「ライゼは良い匂いがするな、本当に」 「し、師匠の方が、良い香りがする」  自分の香りは、基本的に自覚出来ない。だから、俺には、本当は比較は出来ない。師匠の技術では、香りを人為的に生み出す事も可能らしく、時折師匠は違う香りを纏っている事があるけれど――俺は、いつも根底にある変わらない香りを感じている。 「あ」  師匠が、俺の首筋に噛みついた。その感触にブルリと震えた俺は、ラインハルト様の胸元の服を握りしめる。そしてフワフワする体で、仕返しを決意し、師匠の首筋を舐めた。するとクスクスと笑い、ラインハルト様が俺を改めて抱き寄せた。 「寝ろ」 「……」  そう言うと師匠が目を伏せた。だから俺も、素直に瞼を閉じる。体の内側に燻る熱を必死に抑えながら、ただただラインハルト様の体温を心地良いと感じている内に、微睡んでいった。