【五】キス
――朝が来た。
俺はまだ寝ている師匠を見て、堪えきれずにその唇に、己の唇で触れる。
目を閉じて、長々と味わっていた。どうせ師匠は起きない。
そう考えていたのに、瞼を開けたら、ラインハルト様が俺を見ていた。
「ダメだって言っただろ?」
「……」
「悪い子だな。お仕置きが必要か?」
「……ごめんなさい」
素直に俺が謝ると、ラインハルト様が短く吹き出し、片手で俺の頬に触れた。
「気をつけて行ってこいよ。俺はもう少し寝る。昨日はよく眠れなくてなぁ」
「俺のせいか?」
「そ。ライゼのせいだ」
「……でも、俺は師匠と一緒に寝たい」
「まぁライゼのせいだが、それはお前が可愛いのが悪いという、俺の感じ方の問題であるから、そうだな――気にしなくて良い」
目を細めて笑った師匠は、俺の髪を撫でる。
その後俺は寝台から降りて、一度自室へと戻る事にした。言葉の通り、師匠は寝直したようで、食堂での席には、俺しかいない。
主席魔術師の座る席は決まっている。主席魔術師と、過去の経験者と、その弟子が、同じ丸テーブルで食べる決まりだ。現在天球儀の塔で、その条件に当てはまるのは、俺と師匠、そしてキルトお祖父様だけだ。だが、キルトお祖父様は非常に不規則な生活をしているから、自分で厨房から食材を得て料理をしているらしく、滅多に顔を合わせない。そして俺には、まだ弟子もいない。
食後、俺は最果ての闇森へと向かった。本日相手にした魔獣はカタツムリ型で、幼少時に初めて相手をしたものと同じだったが、その大きさが異常だった。どんどん、魔獣は肥大化していく。魔王の繭を、あるいはそこから孵る魔王をどうにかしない限り、脅威は高まるばかりだ。
俺は、平穏が崩れる事を望まない。師匠やみんなで、今後も幸せな日々を送りたい。だから、絶対にいつか、この手でそれらを排除しようと考えている。
そうしてこの日も、魔獣を倒した。
討伐と調査が完了したのは夕方で、そこからは転移魔法陣で帰還する。
俺はその足で、師匠の部屋へと向かった。無性に会いたくて仕方が無かったからだ。
ノックをし、返答があったので、そっと扉を開ける。すると正面にラインハルト様が立っていた。俺の背後で扉が閉まった時、ラインハルト様の両腕が俺に回った。不意に抱きしめられて、俺は瞠目する。
「無事、みたいだな。ま、心配はしてなかったが」
「あ、あのくらい、なんていう事も無いぞ」
背の高い師匠が、俺の肩に顎を乗せる。その体温に惹きつけられて、俺は腕を回し返した。そのまま俺は、師匠の腕の中にいた。俺の頬に、師匠の綺麗な黒髪が触れていた。
「師匠……」
俺はうっとりとしながら、師匠を見た。するとラインハルト様もまた、顔を上げて俺を見た。
「キスしたい」
「――ダメだ」
「……お願いだ」
「もう夕食の時間だろ? 食堂へ行くぞ」
ラインハルト様は、俺から腕を放した。温もりが無くなってしまった事が寂しくて、俺は俯く。けれど空腹を感じているのも事実だったので、その後は師匠と共に食堂へと向かった。スコッチエッグを皿に取った俺は、久しぶりに師匠と並んで座る。それだけでも嬉しい。もうレタスやキュウリを、俺は自分で自分の皿に載せる事を覚えた。
――どうして、キスをしては、ダメなんだろう。
――師匠は、俺との間に子供がデキる事が、嫌なのだろうか?
ラインハルト様は、ルツ父様やユーゼ父上と年齢が近い。だが、番いもいないようで、結婚もしていない。俺は、番いの香りというものを、まだよく理解出来ていないが、ラインハルト様から良い匂いがする事は間違いない。
――俺が、ラインハルト様の、番いだったら良いのに。
そんな想いをいつしか俺は抱くようになっていた。けれど天球儀の塔において、番い関係や伴侶という概念、結婚という法的制度は、あまり信用されていない。全ては結界や魔力が生み出した幻想であるという論調が主要だ。同時に、仮に番い関係にあったとしても、それをいずれかの国の法制度に当てはめる必要は無いというのが、何者にも囚われない天球儀の塔の公式見解である。
食事中は、本日の魔獣討伐について話していた。師匠のテノールの声音は、耳触りが良くて、聞いているだけで安心する。
食後は――本日も、俺はラインハルト様に、『一緒に寝たい』と強請った。苦笑しながらラインハルト様が頷いてくれたから、俺は喜びながら目を閉じる。入浴をしてから、俺は師匠の部屋へと向かい、寝室で待っていた師匠を見据えた。
「来いよ、ほら」
上半身を起こしていた師匠が、両腕を広げた。俺は正面から、その腕に抱きしめてもらう。そして転がるように、引き寄せられたから、寝台の上にのぼった。するとそんな俺をくるりと反転させて、俺を押し潰すようにラインハルト様が上に乗る。
「師匠? 俺で遊ばないでくれ」
「遊んでねぇよ」
ラインハルト様はそう言うと、ギシリと俺の顔の両脇に手をついた。その瞳は、やはりどこかギラついて見える。何だろう?
「どうしてここまで無防備に育ったんだか。ま、猥談をする同年代もいなければ、教育する人間も――俺だったんだろうが、まぁ照れもあってなぁ」
「何の話だ? 俺、結界魔術は得意だぞ?」
「攻撃系の不安は無い。お前は俺以上に強いからな。誇りだよ」
微苦笑した師匠は、それから唇が触れ合いそうな距離まで、俺に顔を近づけた。その眼差しを見ているだけで、俺の胸はドキリとする。
「そんなに俺とキスがしたいのか?」
「うん……」
早く子供がデキれば良いのに。そう願ってばかりだ。今ならば、少し俺が顔を動かしたらキス出来る。そう思って、俺は実行した。師匠の唇を奪う。すると、すぐに顔を離されて、斜め横を見た師匠に溜息を零された。そのまま師匠は俺の上から退くと、隣に寝転がる。そうして横から、俺を抱き寄せた。腕枕の始まりだ。師匠が俺の髪を撫でる。
「いつまで俺の理性が持つ事やら……あー、弱ったな」
「ん? なんて?」
師匠が小声で言ったから、上手く聞き取れなくて、俺は聞き返した。だが師匠は何も言わずに、俺を撫でているだけだ。
その後も、俺は師匠の唇を、不意打ちのように、朝や部屋に入った瞬間に、奪い続けた。早く子供がデキる事を祈りながら。師匠が苦笑するのを無視しながら。師匠の腕の中で眠る時、俺は幸せだった。