【十一】敵は魔獣だけとは限らない。
「ン……」
俺は唇に柔らかい感触がしたから、目を覚ました。薄らと瞼を開ければ、師匠の顔が真正面にあった。ぼんやりとしながら、気怠い体で指先を折り曲げてみる。それからハッとした。昨夜の事が蘇ってくる。
「し、師匠……」
俺の放った声は、少し掠れていた。改めて俺の隣に寝転がった師匠は、微笑しながら瞬きをし、そうして俺の頭を撫でた。擽ったい。
「風呂、沸いてる」
「う、うん……」
「処理はしておいたけどな、入ってこいよ。それとも、一緒に入るか?」
「ひ、一人で入る!」
恥ずかしくなって、ガバリと起き上がった俺は、自分が全裸である事に気づいて、思わずシーツを握りしめた。それを被った俺を、上半身だけ裸の師匠がニヤリと笑いながら見ている。その表情が、あんまりにも格好良く見えた。本当に、狡い。
それから俺は、シーツを纏ったままで、師匠の私室の浴室を借りる事にした。湯船に浸かって足を伸ばしながら、自分の体に視線を落とす。点々と紅が散らばっている。昨日、師匠に口づけられた所だと気づき、真っ赤になった俺は、唇までをお湯に沈めた。
のぼせる前に髪を洗い、鏡で再度己の体を見て、いちいち赤面しながら泡で流していった。全く師匠は――……激しすぎると思う。けれど俺に対する手つきは、終始優しかったようにも思う。ああ、ダメだ。思い起こすだけで、羞恥に駆られる!
入浴を終え、俺は師匠のバスローブを勝手に借りた。タオルからは、石鹸の香りがしたが、俺は師匠の匂いの方が好きだと思う。
「あがったか」
居室に戻ると、師匠が指を鳴らして、水の入るグラスを差し出してくれた。それを受け取りながら、俺は軽く師匠を睨んだ。
「いっぱい、痕、ついてたぞ!」
「それが?」
「今日から、ハイネックを着ないと、みんなに見えるだろうが」
「何か問題があるのか?」
「……恥ずかしい」
「何が?」
師匠が意地悪く聞いてくる。何がと言われても困る。直感的にそう感じただけだからだ。
「俺との関係、知られるのが嫌か?」
「いいや。師匠と恋人になったって、全世界に向かって主張したい」
「――俺は、俺達だけが知っていれば十分だと思うけどな」
「え」
「だがな、相応に独占欲がある。だから、キスマーク、見せつけてやりたいほどだ」
「……師匠がそうしたいんなら、俺は隠さない」
「冗談だ」
立ち上がった師匠は、俺からコップを奪い、テーブルに置いてから、俺を抱き寄せた。俺はその胸板に額を押しつけて、香りに浸る。心なしか、いつもよりも、師匠から漂う甘い匂いが強い気がした。
「着替えてこいよ。そろそろ、朝飯だ」
「うん。一回、部屋に戻ってくる」
頷いた俺は、静かに扉を開けて、廊下の人気を窺った。尤もこの階には、俺と師匠の部屋の他は、キルトお祖父様の部屋しか無いわけではあるが。この時間帯のお祖父様は、大体徹夜から続行で、研究中である事が多い。集中しているらしく、部屋から出てくる事はほぼ無いから、気づかれる事も無いだろう。
それでも気配を殺して、俺は自室へと戻った。師匠が恋人になった事は公言して回りたいのだが、昨夜の自分の痴態は、誰にも知られたくないのだ。師匠以外の、誰にも。こうして、俺はキスマークというらしき痕が隠れる服を選んで、その上にローブを羽織った。
そうしているとノックの音がして、師匠が顔を覗かせた。
「行くぞ」
「おう」
俺が頷くと、師匠が柔らかな笑顔を浮かべた。俺は、師匠のその表情が大好きだ。
二人で螺旋階段を降りていき、食堂に入る。既に混雑していたが、俺達の席は空いている。皿に、俺は本日もスコッチエッグを取る。師匠は茹でたソーセージを選んでいた。その後席に着くと、師匠が小声で言った。
「腰、大丈夫か?」
「へ?」
「大丈夫そうだな。若いってさすがだわ」
何の話か分からないまま、俺は隣に座る師匠を見ていた。喉の調子も既に戻っている。昨夜、衝撃的な体験をしたわけではあるが、俺の体調は万全だ。レタスにフォークを刺した俺は、その後は、本日の予定を考えていた。昨日解析した最果ての闇森の資料を、精査したい。
――一報が入ったのは、その時の事だった。
「ライゼ様、ラインハルト様。帝国の魔導騎士団から連絡がございました」
声を掛けてきたのは、古参のロバートという魔術師で、白いあごひげを生やしている老人だった。何だろうかと、俺は顔を上げる。ラインハルト様は、フォークを置いた。
「内容は?」
「最果ての闇森の魔王の繭の付近に、人間が現れたそうです。あるいは、人型の魔獣が。現在、魔術師が一人――ライゼ様の弟公が向かわれたそうです」
「!」
それを聞いて、俺は目を見開いた。魔導騎士団に所属しているゼリルの事を、瞬時に思い浮かべる。俺は思わず立ち上がった。そんな俺の手首を、師匠が握った。強い力だった。
「今から向かっても、間に合わない可能性が高い。ゼリルに任せろ。あいつならば、やれるはずだ。仮に人型の魔獣であるならば、討伐を。人間であるならば、救出を」
「でもゼリルは優しいから、きっと『排除』は出来ない」
俺には、魔王の繭のそばに、通常の人間が存在出来るとは考えられなかった。ならば、特異な魔力の持ち主の可能性――そしてそれが『敵』である可能性を念頭におかなければならないと考えた。嘗て、ルツ父様達の時代に、狂信者達が、魔王の繭を信奉し、即ち人間が人間を攻撃した歴史もあるという事は、ラインハルト様から学んでいた事柄の一つだ。魔王を手引きする人間がいないとは、限らないのだ。
「ライゼには、可能なのか?」
「俺は――っ、拘束出来る」
「それは、排除と言えるのか?」
「ラインハルト様、けど、ゼリルが危険かもしれないんだ。手を離してくれ」
「ダメだ。正式な要請と調査外で、天球儀の塔の主席魔術師が動く事は、基本的に許されない」
師匠の言葉は、事実であり、確かな決まりである。俺は力なく肩を落とし、俯いた。そんな俺の腕を強く引き、師匠が椅子に座らせる。
「落ち着け、ライゼ。事態が明確になるまで、ここで待て。行くというなら、俺が代わる」
「それは、もっとダメだ」
「何故だ?」
「師匠が危険な目に遭うなんて、それこそ――……それこそ」
耐えられない。ゼリルは守りたい。だからといって、師匠が傷ついて良いはずが無いではないか。俯き唇を噛んでいた俺の頭を、逆の手で、ポンと師匠が撫でるように叩く。
「ライゼ。信じろ。ゼリルは、強い。ユーゼとルツが鍛えたんだ。お前ほどではないといえ、世界樹の階梯も、ゼリルの強さを保証している」
「……」
「これは、慰めじゃない」
ラインハルト様はそれだけ言うと、ロバートにいくつかの指示を出した。その間も師匠は、決して俺の手を離さなかったのだった。