【十二】退化と進歩
その日、ゼリルが無事に、『人間を保護した』という知らせが、天球儀の塔へともたらされた。それを聞いて、胸をなで下ろした俺は、それから腕を組んだ。
「本当に、人間なんだな?」
「連絡は、そう受けましたよ」
応対したのは、フェゼルという、最近塔に来たばかりの、王国出身の魔術師だった。俺と歳が近いから、何かとやりとりするようになった。ロバートの直弟子が、フェゼルである。主席魔術師という立場にあるから、俺は全員を呼び捨てにするように言われている。
「異邦人みたいですけどね。別大陸から来たと、本人は証言しているみたいですよ」
「……別大陸」
存在だけは、俺も耳にした事があった。この天球儀の塔には、広大な図書館があるのだが、その一角に、別大陸に関する文献群が存在する。こちらの大陸とは異なる魔術体系が広がっているようだという遠隔透視による推論を目にした記憶もある。
「ゼリルは、無事なんだよな? 相手が人間で、その――敵意は無かったんだよな?」
改めて俺が問うと、フェゼルが腕を組んだ。
「瘴気に晒されて、体調を崩されたようではありますが、例えば刺傷されたといった事件は発生していないようですね。すぐに帝国の医療魔術師が診察したみたいです。その部分は、詳しくは聞いていませんけどね」
「そっか……」
「ただ、どーせライゼ様が気にするんだろうなぁって思ったから、俺一応聞いたんです。その結果が、以上です」
「有難うな」
「どういたしまして。では、俺はそろそろ戻りますね」
報告を済ませると、フェゼルは砂色の髪を揺らして、俺の研究の間から出て行った。座ってそれを聞いていた俺は、振り返る。師匠が窓際に立ち、外を見ていた。報告は俺同様聞いていたはずだが、何を言うでも無かった。
「師匠の言う通りだった。ゼリルは無事で、それで、その……」
俺は笑顔を取り繕い、そう言いかけたが、失敗した。
――どうして、行かせてくれなかったのか? 理性ではその疑問を解消出来ても、今もなお、俺はゼリルの事が心配で堪らない。
「……」
「お前が主席魔術師だからだ。それ以外の理由は無い。断言して、恋人だからであるといった私情は挟んでいないぞ」
「それは分かってる」
「そうか」
漸く振り返った師匠は、俺をまじまじと見ると、眉根を下げて微苦笑した。
「ライゼは、大人になったな。昔だったら、俺の手を振り払っただろう?」
「……それは、退化じゃないか?」
「いいや、進歩だ」
俺へと歩み寄ってきた師匠が、パチンと指を鳴らした。するとコーヒーカップが二つ出現した。豆の良い香りがする。俺の隣に静かに座ると、師匠は膝を組み、その上に両手を組んでのせた。
「別大陸からの来訪者に関しては、天球儀の塔でも会議を開く事になるだろう。それまでの間に、『保護』している帝国も独自の、取り調べをするだろうが」
「おう。キルトお祖父様にも、たまには部屋から出てきてもらわないとな」
「キルト師匠は、俺達よりも別大陸について詳しいはずだ。何が何でも、部屋から引きずり出す」
師匠はそう言うと、懐かしそうな顔で笑った。俺はあまりまだキルトお祖父様とは、顔を合わせた事は無い。無論、ルイスやゼリルよりは、会う機会が多いのだが。しかし直に習った師匠ほどでは無い。時折ラインハルト様は、懐かしそうに、キルトお祖父様について語ってくれる事がある。
「ただ、今夜はまだ、情報を精査すべきだ。最果ての闇森に関する分析だって、もう少し詰めた方が良いだろう? ライゼ、今日はいつも通りに過ごすんだ」
「それって……師匠の部屋では、寝て良いのか? ダメなのか?」
「お前のいつもは、俺の腕の中なのか?」
「うん」
「――仕方が無い、と、言いたいが。昨日の件、もう忘れたのか? 安眠は保証出来ないぞ」
師匠が唇の端をニッと持ち上げたのを見て、俺は目を見開いた。
「一回したら、恋人なんじゃないのか?」
「バーカ。恋人は毎日でもするんだよ」
「!」
「別れるまで、可能な限り、な」
「別れない!」
「俺も、お前を手放したりしねぇよ」
ラインハルト様はそう言いながら、カップに手を伸ばした。俺もドキドキしながら、カップを手にする。一口珈琲を飲み込むと、少しだけ落ち着いた。
師匠が好きだ。どうしようもなく、大好きだ。
「ラインハルト様」
「ん?」
「好きだ」
「そうか」
「キスしたい」
「ダメだ」
「どうして?」
「昨日、教えてやっただろ? それだけじゃ、止まらなくなる。子供がデキるぞ」
俺はカップの中身を見てから、チラリと師匠に視線を向ける。
「師匠は、子供がデキたら、嫌か?」
「そうじゃない。魔王の繭がじきに孵るのに、俺達に果たして子育てをしている暇があるのかという話と――俺としては、恋人期間を楽しみたいという想いがあるからだな」
「? 確かに身ごもっていたら大変だろうというのは、ルツ父様が俺を宿していた時の話を聞くと思うけどな……恋人期間?」
「子供がデキたら、その間は、安静にしていなければならないんだよ。つまり、ライゼを抱けない。俺は、もっとお前と一緒に寝たい」
ラインハルト様はそう言って、カップを置くと、片手で俺の肩を抱き寄せた。
それが嬉しくて、師匠の肩に、俺は頭を預ける。
「俺も、師匠と寝たい」
「睡眠、じゃないぞ? 言っとくけどな」
「……師匠になら、何をされても良い」
「殺し文句だな」
クッと楽しそうに喉で笑い、師匠が目を閉じる。その表情が、俺はどうしようもなく愛おしかった。