【十五】好き避けという概念は知らない。
「おやすみ、ライゼ」
私室のある階まで二人で戻った時、師匠が俺の部屋の前で言った。一瞥した時、そっと頬に手を添えられた。師匠は目を伏せると、俺の額に口づけた。その感触に赤面した俺に対し、師匠がにやりと笑う。
「恋人同士は、『おはようのキス』と『おやすみのキス』をするものなんだ」
「そうなのか」
全力で、俺が脳裏でメモすると、師匠が喉で笑った。
「今日はゆっくり休め」
「……一緒には、寝ないのか?」
「寝たいか?」
真っ赤のままで、俺は小さく頷いた。決して――ここ数日で覚えた、体を重ねたいという趣旨ではないのだが、それを口に出すのも照れてしまう。俺はただ、師匠の体温と香りを感じながら微睡みたいなと思っているだけだ。
「今日から――寝室、俺の部屋にするか?」
「え?」
「毎日、来いよ」
「師匠……良いのか?」
「俺も、もっとライゼといたいからな」
ラインハルト様はそう言うと、俺の腰に手を添えた。促されて、俺はそのまま自室の前を通り過ぎた。そうして師匠の部屋の方へ歩きながら考える。師匠の事が好きすぎる。
師匠の部屋に入ると、扉を閉めた師匠がじっと俺を見た。その夜のような瞳を見ていると、それだけで胸が満ちてくる。こうして、この日も、俺達は同じ寝台で眠った。だが、この日は、体は重ねず、俺は師匠の胸板に手を回して抱きついて眠っただけである。
キルトお祖父様の姿は、朝には既に、天球儀の塔には無かった。
――ゼリルから連絡があったのは、それから暫くしてからの事だった。
ゼリルに渡してあった、直接連絡用の腕輪が光り輝いた時、俺は研究の間にいた。慌てて応答する。ここ数日は、色々な事があったわけだが、片時もゼリルの事が心配で無い日は無かった。
「ゼリル?」
少しだけ声をうわずらせて、俺は応答した。
『あ、ライゼ兄上。今、忙しい?』
俺の心配など杞憂であったかのように、ゼリルの声はいつもと同じ調子だった。それに内心で安堵しながら、俺は思わず笑みを浮かべた。
「お前のためならばいくらでも時間を作る! と、言いたい。世界中に宣言して回りたい! 聞いたぞ、瘴気に当てられたって。もう大丈夫なのか!?」
魔術通信ウィンドウ越しに見えるゼリルの眼差しは、いつも通り優しげだ。
『もう大丈夫。それよりもさ』
「他に何か重要な事があるのか!? お前の体調以上に!?」
どうしてもっと自分の体に気を遣わないのだ! と、俺は言いたくなった。その気持ちをそのまま口にすると、ゼリルが微苦笑した。
『……ええと、最果ての闇森でね、別大陸から来た人間を保護したんだ』
「ああ、そうらしいな」
俺は先日の会議の事を思い起こす。まだ、キルトお祖父様は、帰還していない。だから俺は報告を聞いていないのだが、ラインハルト様とは連絡を取っているようで、師匠からはいくつかの話を聞いている。精神透過術は成功したと聞いていた。エルトという人物の言葉は真実であるようだったが、口頭では多くを語ってはいないという事のみを、俺は聞いていた。
『ライゼ兄上に会いたいんだって』
その言葉に、俺は驚いた。術の行使を知られないように、キルトお祖父様だって、エルトに直接接触はしていないはずである。思わず俺は首を傾げる。
「俺に? 何で俺の事を知っているんだ?」
『分からないけど、予言がどうのと言っていたよ』
「予言? 予言って何だ?」
『さぁ?』
「どんな奴なんだ? その人間は」
キルトお祖父様が伝えたので無ければ、帝国から漏れたのか。最初はそう考えたが――予言? 俺にはまだあまり触れる事が出来ていないジャンルの、なにがしかの理が世界には存在するらしいというのは理解出来る。
だが、天球儀の塔の人間では無い者の言葉だ。どのように受け止めれば良いのか分からない。この時点で、その人物は、俺にとっては、ただの異邦人という点を超えて、ゼリルに害をなした人物といえた。だというのにゼリル本人は、飄々としている。お人好し……そんな言葉が頭を過る。兎に角、ゼリルは心が優しいのだ。相手が不審者であっても、それは発揮されるらしい。
『ええと……』
俺の言葉に、ゼリルは暫しの間、沈黙を挟んだ。それから、上目遣いにこちらを見た。
『……ねぇライゼ兄上』
「ん?」
『ラインハルト様からは、どんな香りがするの?』
すると唐突に話が変わった。あからさまに俺は狼狽えてしまった。
「え? な、な、なんだよ急に……! 今は別大陸から来た人間の話だろう?」
『その人間から、百合の匂いがするんだよ……』
「へ?」
すると予想していなかった言葉が返ってきて、俺はきょとんとしてしまった。何度か瞬きをして、これが現実である事をしっかりと確認する。
――香りがする? それ、は。
「その人間が、番いかもしれないって事か?」
『わからないけど……』
「不審者じゃ無いか、すぐにお兄ちゃんが確認しに行ってやる!」
思わず俺は、口走っていた。今度こそ、ゼリルの一大事である。
しかし、ふと師匠の先日の話を思い返して、俺は一度視線を下げてから、ゼリルを視線に捉え直す。
「とはいっても、調査で最果ての闇森に行く以外は、天球儀の塔からは、実家に帰省する以外では動けないからな……ちょっとラインハルト様やユーゼ父上とも話をしてみる」
『有難う』
そんなやりとりをしてから、俺は通信を遮断した。そして今のやりとりを何度か胸中で咀嚼してから、途中だった調査結果のとりまとめ作業を再開する。
……不審者が、ゼリルの番いかもしれない?
いいや、ゼリルの番いならば、それは俺にとっても家族という事になるのだろうか?
兎も角キルトお祖父様からのはっきりとした報告待ちである事は、間違いないが……ラインハルト様には相談するべきだ。
「……」
そう考えて、俺は師匠の顔を思い出した。師匠は、朝起きて、朝のキスをする時と、眠る前におやすみのキスをする時は、とても優しい。だが、それ以外の場面において、なんだか最近素っ気ないのだ。俺に、エルトの話をしたくないのだろうかと考えているのだが、その限りではないような気もする。中々目を合わせてくれなくなったのだ。時に同じ空間に行くと、するりと俺を避けるように出て行く事もある。
何か俺は、嫌われるような事をしてしまったのだろうか?
そんな不安に、俺はここ数日、苛まれていた。
「だけどこの話は、『仕事』の一環だ。伝えないとな」
本心を言えば、ただ単純に師匠と話がしたいだけなのかもしれなかったが、俺は、師匠の元へと向かう事にした。