【十六】近づきたいという願い。






 師匠は、師匠の研究の間にいた。邪魔をしないように、扉を静かに開けて、中を覗き込むと、手袋をはめた師匠が、古文書に触れている所だった。私室でなければ、ノックはしないで欲しいと頼まれていた。

 真剣な顔をしている師匠は、俺に気づいた様子は無い。集中しているようだ。こういう顔をしている時の師匠は、声を掛けられても、『あとで』と返してくる事が多い。

 ゼリルからの連絡は俺にとっては重要だが、師匠の邪魔をするわけにも行かないだろう。そう考えて、俺は踵を返す。もうすぐ夕食の時間だが、この分だと、本日も俺は一人で食べる事になるだろう。

 そう考えながら立ち去ろうとした時だった。

「ライゼ、どうかしたのか?」
「!」

 気づかれていた。それに驚き、唾液を嚥下する。

「あ、その……今、大丈夫なのか?」
「そうだな――火急の用件ならば、聞く。今は、どんな情報も欲しい」
「そうか。ゼリルから連絡があって――」

 俺はその場に立って、ゼリルからの連絡内容を端的に伝えた。すると師匠は視線をあげないままで、小さく頷いた。

「分かった。ユーゼとは俺が調整しておく」
「有難う、師匠」
「悪いがこちらの作業に集中する。今夜は先に眠っていてくれ」
「あ、ああ」

 頷き、俺は研究の間を出た。時間が合わないようだが、それでも寝室が同じとなった現在、一日に必ず一度は顔を合わせられるから幸せだ。

 食後、俺は入浴を終えてから、師匠の寝室へと向かった。最近師匠は、私室に鍵を掛けない。いつでも、俺に入って良いと言ってくれる。俺は一人で寝台へと進み、爽やかな匂いがするシーツにくるまる。師匠はいないが、師匠に包まれているような気持ちになる。

 そうして俺は、瞼を伏せて、微睡んだ。


「ン」

 次に気づいたのは、指で髪を梳くようにされた時だった。薄らと目を開くと、そこには師匠の姿があった。

「悪い、起こしたか」
「いや……平気だ」

 ギシリと寝台が軋む音がする。師匠は横に寝そべり、俺の頭を撫でていた。その形の良い瞳を、まだ眠気の残る瞳で俺は見る。すると師匠が片頬を持ち上げて、唇で弧を描いた。

「好きだ」
「俺も、師匠が好きだ」

 そう述べてから、俺は眠気に飲まれて、再び微睡んだ。
 次に目を覚ました時には、白い陽光が差し込んできていて、既に師匠の姿はどこにも無かった。今日は、おはようのキスはしていったのだろうか? 一人で上半身を起こしながら、俺はそんな事を考えていた。

 一人きりの食事は味気なく思えるが、師匠が同じ塔という空間にいてくれるだけでも、幸せだなと最近の俺は思う。ただ――どんどん、それでは足りなくなりそうで、怖い。もっと師匠に俺の気持ちを伝えたいし、師匠の言葉を俺は聞きたい。


 ――それにしても、エルトという人間。
 俺は、言語辞書を紐解きながら、思案する。他にも文化などが分かる百科事典等、キルトお祖父様が渡してくれた文献群を渉猟しながら考えていた。違う大陸、環境、それらで価値観は酷く変わるようだ。仮にゼリルの番いだとするならば、ゼリルは苦労するかもしれない。

「……」

 俺は師匠とどうやら番いらしいと判明したが、それは恋をした後だ。番いだと分かってから生まれる恋とは、どのような形なのだろう。ルツ父様達も、そちらに該当するのかもしれないが。

「ライゼ」

 考え事をしながら言語習得をしていた時、師匠が俺のいた研究の間のそばにある共有スペースに顔を出した。一瞥すると、俺の正面に座りながら、師匠がテーブルの上にティースタンドとティーポットを出現させた。美味しそうなスコーンがのっている。

「調子はどうだ?」
「指示された言語は覚え終えた。今は文化と合わせて考えているけどな、これらの文献群が、現状をどこまで反映しているのか疑問だ。何せ出典が古い。世相は生き物のように流動的なんだろう?」
「そうだな。こちらの大陸ですら、俺が生きている内の交流だけ見ても、大分変化しているからな」

 ラインハルト様は頷くと、何処か遠くを見るような瞳をした。それから瞬きをして、俺を見据え直した。

「キルト師匠から、一通りの連絡を貰った。そこで、俺とライゼは、最果ての闇森で、エルトの思考・記憶が正しかった痕跡を、塔独自の調査をして得たい。よって明日にでも、現地へと向かおう。位置的に、他の魔術師にはきつい任務でもあるからな」
「そうか。キルトお祖父様は、なんて?」
「それは――時が来たら話す。俺達が調査すべき事柄に、直結して必要な情報は伝えるが、全容は後日とする」
「分かった」

 頷いた俺は、辞書をパタンと閉じた。ラインハルト様とキルトお祖父様は、俺には伝えない話をする事が珍しくない。気にならないと言えば嘘だが、詮索してはならないと、俺は教えられている。

「師匠」
「ん?」
「今夜は、一緒に食事、出来るか? そ、その、ほら! 明日の打ち合わせも兼ねて」
「……おー。そうだなぁ」

 どこか師匠は乗り気では無さそうだ。それにしょんぼりしつつも、一応の同意を取り付けたので、俺は必死に笑顔を浮かべる。そんな俺をまじまじと見た師匠は、それから顔を背けて嘆息した。

「明日は出たら、王国で一泊する。宿は既に取った」
「そうなのか?」

 普段であれば、真っ直ぐ転移魔法陣で戻ってくるから、意外だった。

「王国への情報共有の関係もある。そちらは俺が行う。ライゼも……たまには、塔以外を知った方が良い。最果ての闇森と帝国くらいだろう? 今じゃ」
「うん。そうだな。別大陸の文化を学ぶ上では、比較対象は多い方が良いな」

 俺が頷くと、師匠は考えるような瞳をしながら、頷いた。何を考えているのか、正直知りたい。しかしラインハルト様の考えは深淵で、たまに俺には、分からない。俺は、そんな師匠に近づきたい。

 その後俺達は、二人で食堂へと降りて、翌日の打ち合わせを兼ねて食事をした。
 そんな一時が、俺にとっては幸福でならない。
 師匠が本当に好きだ。俺は師匠が、大好きだ。