【十九】夜会へ
――夜会には、正装姿ではいかない。いいや、一応塔規定のローブで行くのだが、あくまでベルス侯爵家の個人的な夜会という位置づけであるから、本格的な正装では行かないという意味だ。
「この服も師匠とお揃い……」
それだけで、なんとなく嬉しくなる。ただ同じ服を着ていても、師匠は良い匂いがするのに、俺は普通だ。本当に自分からも香りが漂っているのか、たまに悩む。
クローゼットの中を確認していると、ノックの音がした。
「はい」
振り返りながら声をかけると、静かに扉が開いた。そこに立っていたのはキルトお祖父様だった。俺よりも背が低い。
「どうかしたのか?」
「ルイスから伝言があった事を思い出したんだよ」
「伝言?」
「夜会当日、つまり明日、話がしたいみたいだった。内容に関しては、僕は関知していないけど」
「そうか。分かった」
帝国の皇帝陛下としての話では無いだろうと予測する。何せ場所が場所であるし、エルトの件があるとはいえ、元々の夜会の趣旨は、ルイスとゼリルのお見合いだ。ただゼリルの場合は、気になる事を話していた。エルトという人間からは百合の香りがするらしい……兄としては、ゼリルに相応しいかもきちんと確認したい所だ……。ルイスの話、もしかしたら、その件では無いだろうか?
そんな事を考えていると、じっとキルトお祖父様に見つめられている事に気がついた。
「どうかしたのか?」
「ライゼ。その指輪……」
「ああ。これか? これな! これはな! 聞いてくれ!」
「うん」
キルトお祖父様はそう言うと、これ見よがしに唇に左手を添えた。その薬指にも指輪が輝いている。前々皇帝陛下だった方のお祖父様に貰った品だと、昔聞いた事がある。なるほど、こうやってアピールしていけばいいのか!
「ラインハルト様が買ってくれたんだ」
「そう」
「嬉しくて……俺達、恋人同士って感じがする!」
「恋人――伴侶、そういった関係性は、永遠だと僕ですら思うよ」
いつもと同じ無表情ではあるが、キルトお祖父様は雑談に付き合ってくれるようだった。
「永遠というものに僕は懐疑的だけれど、忘れられない恋だ。忘れる気もないし、今も恋をしていると言えるよ。ライゼも、同じ?」
「うん。同じだ」
「ラインハルトは悪い子ではないけど、時々おかしな所で素直じゃないから、辛くなったら僕に言うと良いよ。叱っておくから」
「師匠もキルトお祖父様には、頭が上がらないからな」
俺が短く吹き出すと、キルトお祖父様も珍しく微笑した。
こうして、夜会の日が訪れた。俺は師匠と共に、会場であるベルス侯爵家に転移する事にした。会場に到着したのは、夜会が始まって少ししてからの事だった。人物指定遠距離瞬間転移という、師匠が復活させた古代魔術で、ユーゼ父上を指定して転移した。古代魔術の復古作業は本当に大変だから、俺はそういう部分でもラインハルト様をとても尊敬している。あまり俺は理論派ではないのだ。師匠の読書量は凄くて、天球儀の塔の書庫の事は熟知しているみたいだ。俺は最初、魔法陣無しの、遠距離移動なんて考えた事も無かった。それを実現するために、魔術を復活させるという師匠の発想が本当にずば抜けていると俺は思う。
「来たか」
ユーゼ父上は、俺達の姿を見ると、いつもよりも退屈そうな顔でぼそっと述べた。あんまり機嫌が良くは無さそうだなと俺は判断した。何かあったのだろうか? じっとユーゼ父上の様子を俺が見ていると、隣でラインハルト様が言った。
「ユーゼは元気そうだな」
確かに外見的にはそうだ。俺もそれには嬉しくなった。
「それよりルツは? あ、ルツー!」
ラインハルト様は会場に素早く視線を走らせて、声を上げる。さっとユーゼ父上からは視線を逸らしたのが分かった。師匠は都合が悪い時は、さらっと視線を流す癖があるのを俺は知っている。
多分師匠も、ユーゼ父上の機嫌が悪そうだと気づいたのだろう。空元気で、笑顔を浮かべている気配がする。こうして師匠がルツ父様の方へと歩き始めようとした時、ガシリとユーゼ父上がラインハルト様のローブを掴んだ。
口元に笑顔を貼り付けたユーゼ父上だが、やはりその瞳がいつもよりも怖い。
「ラインハルト。安心しろ。俺もルツも、お前とじっくり話がしたいしそうするべきだという見解で一致している。場合によっては、容赦しないから覚悟しておけ」
「……!!」
するとその言葉に、師匠の顔が強ばった。師匠のあからさまに引きつった笑顔を見て、俺はきょとんとした。師匠は、ユーゼ父上の機嫌が悪い理由を知っているのだろうか? 何か悪い事をしてしまった時のような、そんな表情の師匠は、体を硬くしている。
それはそうと、俺は思いだした。昨日、キルトお祖父様がやっていた仕草を。
俺はそれとなさを心がけながら、左手で唇を覆った。天井の灯りを指輪が反射している。みんなに見て欲しい。師匠からの愛の証を……! 目立つように指をピンと伸ばしてみる。それから何度も角度を変えて、口を覆った。するとユーゼ父上が目を据わらせてこちらを一瞥した。気づいてくれたのだろうか? 父上の表情からでは、ちょっとよく分からない。
しかし本当に機嫌が悪そうだ。この機嫌でラインハルト様と話すのだろうか? 師匠、大丈夫だろうか? そこで俺は思った。何も指輪で主張しなくても、口で主張すれば良いではないか!
「父上、『俺の』『恋人の』『恋人の』『恋人のラインハルト様』に、酷い事を言わないでくれ」
俺は『恋人』という語に、兎に角力を込めた。俺の恋人だとなったら、ユーゼ父上だってきっと酷い事を言わないだろう! そう考えながら、俺は立ち止まっている師匠の腕の服をギュッと掴んだ。ラインハルト様が俺のものなのだとアピールする事に決めたのである。みんなにそれを教えられると思うだけで、自然と笑みがこみ上げてきた。師匠が大好きすぎる。
「うん。ま、まぁ、そういう事だ。なんか悪い……」
すると師匠が、静かに述べた。何が悪いんだろうか? 最高だと思うんだけどな?
「全くだ。最悪だ。謝罪してくれ」
しかしユーゼ父上が大きく頷いた。吐き捨てるようにそんな事を言う。
「ただ後悔は無い。ずっとそばにいすぎて香りに麻痺していたが、考えてみれば伴侶香もある」
続いて響いたラインハルト様の声に、俺は胸が温かくなった。師匠が後悔していないというのが嬉しいし、俺との関係を否定しないというのも凄く嬉しい。が、そう考えていたら、ラインハルト様に手を振り払われた。俺は手の位置を戻しながら、じっと師匠を見る。思わずその感覚にしょんぼりして俺は俯いた。そうしていたら、師匠が降ろした俺の手をギュッと握ってくれた。ドキリとして、俺は顔を上げる。頬が熱い。
師匠はチラリと俺を見ると、目の下を僅かに朱色に染めた。照れているみたいだ。俺なんて、真っ赤になってしまったのだが。師匠は言葉にはせず、唇を動かす。
『愛してる』
そう解読して、いよいよ俺は赤面した。そこへ咳払いが聞こえた。慌ててユーゼ父上に視線を戻す。すると父上は、怖い顔で笑っていた。
「いつからだ?」
ユーゼ父上が低い声音を放った。不機嫌だったみたいだが、ラインハルト様にぶつけないで欲しい。何だろう、本当に何があったんだろう?
「いつって、何が?」
師匠は素知らぬフリで聞き返している。ただ、俺の手を握る指に、ギュッと力がこもった。俺も握り返す。
「香りがするようになったのは?」
「弟子としての教育時に支障が出ないように、俺はライゼの師匠になった段階から、香りは全て遮断していたから分からないが、産まれた時から良い匂いだとは思ってた。が、俺も乳幼児に欲情するスキルは無いから、赤ちゃんとは可愛いんだと考えていたぞ」
師匠の答えに、ユーゼ父上が沈黙してしまった。それを俺がぼんやりと見ていると、駆け寄ってくる気配がした。二方向からだ。見れば、ルツ父様とルイスが、それぞれこちらへとやってきた。
「ライゼ兄上、少しお話が」
「ラインハルトは、僕とユーゼ様と少し話そう」
二人はほぼ同時にそう言った。俺に声をかけたルイスは、本日は軽装だ。視線を向けて、俺は両頬を持ち上げる。ルイスも元気そうで安心した。何より、まだ声をかけていないが、会場に入った段階で確認したゼリルが無事そうである事に、心底安堵している俺がいる。そう考えていたら、ルイスに服を引かれた。
「ん?」
顔を上げて、俺は意識をそちらに戻す。
「ああ、そうだな。ルイスじゃあ少し話そう」
そう答えてから、俺はそっと師匠から手を離した。指先の温度が離れたのが少し寂しい。
「師匠、俺行ってくるよ」
「俺は何処にも行きたくないし、今非常にライゼにそばにいて欲しい」
その言葉に、俺の胸がキュンとした。師匠、俺にそばにいて欲しいのか……!
「けどお前、そういうの理解出来ないよな。たまに思いっきり空気読めないよな。俺は弟子教育を何処で間違ったんだろうな……」
しかし続いた声に、俺は思わず眉を顰めた。それに俺にだってやる事がある。大切なゼリルのために!
「は? 俺がルイスと行くのは、この会場一、空気が読めた行動となる。全てはゼリルのためだ。兄としてやらなければならない時が存在するんだ」
「麗しき兄弟愛は分かった。でもほら、さ? 俺、ユーゼとルツに詰め寄られてるんだけどな?」
「いつもの事だろう。師匠なら乗り切れると俺は信じているからな」
実際、師匠はルツ父様とユーゼ父上には、度々詰め寄られているが、いつも丸く収まっている。三人は、仲良しだと俺は思っている。確かに本日のユーゼ父上は機嫌が悪そうではあるが、大丈夫だろう。何せ俺の恋人である事もきちんと伝えたし。
そんなやりとりをしていた時――不意に、これまでには感じた事の無い魔力気配がした。俺は天球儀の塔で育ったから、他者の魔力を視認出来る。普段は用いない力であるが、異質な魔力には特に敏感だ。さりげなく俺は入り口を見た。すると、見た事の無い青年が立っていた。俺は……直感的に、この人物がエルトなのではないかと考えた。だからチラリとユーゼ父上を見ると、視線で頷かれた。
「招待客は以上だな。乾杯をしたら、少し俺とルツは席を外すから、皆あまり羽目を外しすぎない程度に楽しんでくれ」
その後、大きくユーゼ父上は頷いて、そう宣言した。