【二十二】兄としての責任
「所で、ゼリルの事は、どう思っているんだ?」
率直に俺が切り出すと、エルトが押し黙った。それから腕を伸ばしてシャンパングラスを手に取ると、一口飲み込んだ。その瞳が僅かに暗くなったように見えた。
長い沈黙を挟んでから、エルトが顔を上げた。
「好きだ」
簡潔な回答だったが、俺は目を細めた。
「即答できないんじゃ――」
「即答する事が許される立場に俺は無い」
俺の言葉を遮ってそう言うと、エルトがシャンパンを飲み干した。俺は指を鳴らして、新しいシャンパンでグラスを満たす。エルトは天井を見上げると、二度咳払いをした。
「ゼリルには、幸せになって欲しい。だが、俺にはそれが出来ない。いつか俺は国に戻る。必ず魔王を討伐して」
それを聞いた俺は指を組み、膝と膝の間に置いた。確かに俺は、例えばゼリルがエルトについて行くなんて言い出したら、止める自信しかない。だが――もし、エルトがラインハルト様だったならば? きっと俺はついて行く。
「なぁ、エルト。今後の事は、その時に考えれば良い。今の気持ちを大切にしたって良いんじゃないか?」
「――俺は時折、自制出来なくなりそうになる。それほどにゼリルを求めているのは、紛れもない事実だ」
「それが、好きって事だろ? 俺も恋をしているからよく分かる」
そっと俺は、左手の指輪に触れた。その冷たい銀色の温度だけでも、俺はラインハルト様がそばにいる感覚がこみ上げてくるから幸せになれる。
「ゼリルを欲する気持ちと、ゼリルに幸せになって欲しい気持ちが、せめぎ合っているんだ」
「だったらエルトが幸せにしてやれば、解決だろう? 後の事は考えるな。天球儀の塔の教えにこうある――『なるようになる。ならない事など存在しない』」
俺が告げると、エルトが短く息を呑んだ。それから苦笑するように、両頬を持ち上げた。
「同じ言葉が、俺の国にも残っていた」
「そっか」
「ああ、そうだな。俺が、この手でゼリルを幸せにする未来を、その選択肢を、俺は捨てるべきではないな。気づかされた気持ちだ」
「恋をする者同士、俺達は良い友人になれると思う」
「ライゼ、有難う。その言葉が嬉しい」
優しい瞳をしているエルトに対し、俺も笑顔を浮かべた。それからふと思い出す。
「そうだ。天球儀の塔で、翻訳魔術だけでは正確性が無いからと、翻訳辞書を読んだんだ。いくつかその言葉を試しても良いか?」
「何? 辞書が存在するのか?」
「ああ。これだ」
俺は指を鳴らして、亜空間倉庫に保持していた辞典のいくつかを取り出した。受け取ったエルトは、真剣な眼差しに変わり、頁を捲り始める。集中しているようだったが、俺が簡単な挨拶――「おはよう」や「こんにちは」を確認すれば、確かに俺が覚えた通りの挨拶が返ってきた。
「ライゼ。これらの書物を借り受けても良いか? 転移魔術の魔法陣の確認に使いたい」
「ああ。それらは写本だから、本物は天球儀の塔が保持しているし、特別に貸し出せる。俺の権限で」
「感謝する」
そんなやりとりをしてから、俺は時計を見た。時刻は八時を過ぎている。
「そろそろ戻るか?」
「ああ」
こうして俺達は、部屋を出た。すると――ゼリルが大勢の貴族や魔術師らに囲まれていた。思わず眉を顰めた俺の隣から、一瞬冷気が漏れた気がして視線を向けると、エルトが冷たい顔をしていた。嫉妬、独占欲、それらが瞳に滲んでいる。もうエルトの気持ちは疑いようが無いだろう。
「ゼリルの救出に行こう」
「だが、ゼリルは……あの内の誰かを受け入れるかもしれない」
「無い無い。俺の末の弟は、純情なんだ。一人と決めたら、浮気なんかしない」
会場にエルトが入った時、蕩けるような笑顔をしていたゼリルの事を、俺は思い出していた。それに、明らかに現在は困惑している様子だ。
「そもそも、エルトこそどうなんだ? ゼリルが囲まれているのが、許せるのか?」
「――許せない。正直に言うのであればな」
「正直に生きよう。俺は、そうして幸せを掴んだ。経験者だぞ」
「参考にさせてもらう」
エルトはそう言いながらも、ずっとゼリルを見ていた。そして俺よりも速く歩き始めたから、慌てて俺は横に並ぶ。
そうして俺達はゼリルに歩み寄った。
「ゼリル」
エルトが声をかけた瞬間、ゼリルが花のような笑顔を浮かべた。歩み寄りながら、人々の話に聞き耳を立てていた俺はルシアを見る。
「ルシア、聞き捨てならないぞ。どうしてお前に、俺の弟のそばにいる権利があるんだ?」
ルシアは、俺達が歩み寄る直前で、『俺にはここにいる権利がある』と述べたのだ。
俺の言葉に、ルシアが俺に向き直った。
「久しいなライゼ様。簡単だ。コミュ障の貴方の弟君が、草食動物のように狙われていたから、善意で護衛をしていた」
それを聞いて、俺は思わず引きつった笑みを浮かべた。脱力しそうになる。
「全力で有難うルシア。だけどな、お兄ちゃんとして、俺が今からその役目は代わるからもういなくて良い」
「酷い言いようだな。所でそちらは? 紹介してくれ」
ルシアがエルトへと視線を向けた。
「ああ、彼はエルトだ。家族のようなものだな」
ゼリルの番いなのだから、そう表しても良いだろうと、俺は何気なく呟いた。それから、冷ややかな表情でゼリルを見ているエルトの様子を窺いながら、俺はルシアと少し話をした。その後、俺は会場に視線を走らせて、ルイスの姿を探した。笑顔である。俺は頭痛がしてきた。ゼリルが囲まれるという危機的状況だったのに、何という事だ。長兄として、俺が責任を持って、人々を追い払わなければ!
「それよりも! どうしてゼリルを囲んでいるんだ! 俺のゼリルを! 囲むなら俺ごと頼む。全くルイスは何をしていたんだ。こんなに愛らしいゼリルを一人きりにしておくなんて! 無能皇帝の烙印を今押した!」
俺がよく通る声でそう述べると、ルイスが大きな声を出した。
「聞こえていますよライゼ兄上。僕もそろそろ助けに入ろうと思っていました」
俺は唇を尖らせる。
「思っているだけではダメだ。行動に移すんだ。実行力! 俺はそれが必要だとラインハルト様から教わってきた」
それからラインハルト様の姿も視線で探したが、どこにもいない。まだユーゼ父上とルツ父様と話をしているのだろう。
俺はそうして、エルトとゼリルの様子を観察しながら、ルイスと言葉を交わしていた。再びエルトから冷気が漏れたのは、ゼリルが満面の笑みを浮かべてエルトを見た時の事だった。
「随分と楽しそうだな?」
「うん? だってエルトが目の前にいるからね?」
「は?」
不機嫌そうなエルトの声が響いた。
「え?」
エルトは分かっていない様子だ。エルトは、囲まれて談笑していたゼリルについて言ったのだろうが、ゼリルの笑顔はエルトを見たからだという確信が俺にはあった。
「兄として解説しよう。エルト、誤解だ」
「聞こうか」
「ゼリルは、お前を見たから笑顔になったんだ。俺もラインハルト様を見ると無駄に笑顔になる」
「弁解はそれだけか?」
俺は顔を引きつらせた。エルトからは、独占欲がだだ漏れだ。これで立場や身分などと言っているのだから馬鹿げている。溢れる執着心が視覚化出来そうなほどだった。
その後、俺はやりとりする二人を静かに見守っていた。すると暫くしてから、エルトが俺を見た。
「ライゼ。俺は部屋に戻るとする」
「エルト。お前な、俺の弟をいじめないでくれないか?」
「俺がいじめられた気分だが?」
つい俺が抗議すると、エルトは不機嫌そうなままでそう述べた。
「ゼリルも、ほら、勇気を出して」
俺は相思相愛の二人のすれ違いを見たくはなかったので、ゼリルの事を励ました。
その時、ぼそっとルシアが言った。
「話を総括すると、そちらはゼリル様の本命のお見合い相手という事で良いのか?」
「いいや」
しかし間髪入れずに、エルトが否定した。
「俺はライゼの新しい友人の一人だ。それ以上でも以下でもない。だから邪魔をするつもりもないし、気にせず話してくれて良い。俺が会場に入ったすぐ後から、ずっと終始、楽しそうに二人で話していたように、会話を続けてくれ」
「言葉にトゲしか感じないが……ええと……一応、礼儀として名乗るが、俺は帝国のエリクス侯爵家子息でルシアと言う。貴方は?」
「エルトという」
「ゼリル様が泣きそうになっているから親切心で証言するが、八名は勝手にゼリル様を取り囲んだと考えられるし、俺個人はゼリル様と楽しく話していたつもりで、口説き落とそうと試みていたが、ゼリル様に気づいた様子は無く、特別楽しそうでも無かったぞ?」
二人のそんなやりとりを聞き、俺は腕を組んだ。すると少しして、ルシアが言った。
「俺はゼリル様を口説くつもりだ。貴方に渡すつもりは無い」
「あのそれ本気で言ってます? 僕、ルシアのものじゃないけど?」
俺はその言葉に目を丸くした。ルシアが、ゼリルを好き? 意外すぎて息を呑む。するとエルトが一歩前に出た。恐らくもう体を制御する事が出来ないのだろう。それほどの激情に囚われているに違いない。
「では、誰のものなんだ? 俺だろ? ゼリル」
「! うん。僕はエルトのものだよ!」
エルトの言葉はストレートだった。同意したゼリルと、その手首を掴んでいるエルトを、俺は交互に見た。するとルシアが呆れたように吐息してから、短く吹き出した後、一人頷いた。
「良かったな。では、俺は失恋したし帰る事にする」
「え、あ」
「安心してくれ。完全には、本気で無かったから、そこまで衝撃は無い。それに特に、俺はゼリル様から番いらしい香りを感じた事も無い」
ここに来て俺は、ルシアがエルトをたきつけてくれたのだと理解した。
「ルシアって思ったより良い奴だったんだな。エルトを煽って、本音を引き出すなんて……」
思わず俺が呟くと、エルトが両目を閉じた。どこか苦い顔をしている。
「悪かった。煽られた」
俺の新しい友人は、思いのほか感情的な一面もあるようだった。理知的な風に語っていたから、そんな一面が面白い。恋は、人の理性を狂わせるし、行動も変化させるのかもしれないが。
「まぁ、上手くいく事を祈る」
「ライゼ。先ほども話した通りだから、俺は上手く行かないべきだと理性では判断している。それは変わらないが――……いつまで自制出来るか自信が無くなってきた。俺は元来、沸点は低くない方なんだが……」
「恋ってそんなもんだって」
「そうだな」
エルトは俺の言葉に、微苦笑した。ただその瞳は、優しい色を宿している。
その後エルトが部屋に帰ると言い出し、ゼリルも戻ると述べた。
そこで俺は、今後について思案した。恐らくもう、エルトはゼリルを離さないだろうという確信があったのだ。だから、ゼリルを見据える。
「ルイスが前に指導してくれた言質を取るという話を、ゼリルは覚えているか?」
「ん? うん。そういえば、無事に取れたみたいで良かったね」
「お、おう……俺の事は良いんだ」
「?」
「ゼリルもその教えを忘れないようにな」
「うん?」
兄としては複雑でもあるが、俺は二人を応援する事に決めた。
「二人とも元気でな」
出て行く二人に、俺はそう声をかけ、笑顔で見送った。