【一】
異世界人集落に来て、早一ヶ月。ワタルは、この日も喫煙所にいた。異世界にも煙草はあって、それを幸いに、喫煙所に入り浸っている。快活なワタルは、転移に戸惑っていた周囲の中心で明るく笑い、すぐにみんなに顔を覚えられた。
そんなワタルが静かになるのは、それこそ喫煙所に一人きりでいる時か、部屋にこもっている時だけだ。ワタルはちょくちょく部屋にこもるのだが、何をしているのかは誰も知らない。
本日もワタルは、喫煙所で煙草を銜えた。現地の煙草は、シガーレットケースに入れて売られていると、もう覚えた。天井を見上げて口から煙を吐くと、白い煙が宙に溶けていく。
透明なガラス板が四方で壁を構築していて、その小さな喫煙所の中には、煙が外に出ないよう、分煙魔術がかけられているのだという。しかし魔術にはてんで疎く、転移してきてからも、まだ一度も使ったことのないワタルには、よく分からない。魔術はおろか、武力もワタルは持たない。
黒い髪に黒い瞳をしていて、異世界人であるから、現地人から見れば綺麗だと評されがちだが、この集落にあっては、ワタルは己を平凡だと考えている。自分より綺麗だったり、可愛い者は、大勢いる。
――実際には、ワタルの顔の造形は一際目を惹くものなのだが、ワタルには、その自覚は無い。
その時、ガラス板の一角、戸が自動で開いた。まるで科学のようであるが、これらは全て魔術か魔導具で実現されているのだという。ワタルが視線を向けると、そこには屈んで扉をくぐって入ってきた、ユーグの姿があった。
「ユーグさん」
「おう。ワタルだったか?」
「うん。俺はワタル」
思えば話すのは初めてだったなとワタルは考えた。それでもユーグのことは知っていた。それは何度か喫煙所で一緒になったからではなく、ユーグが有名人だからだ。
異世界人集落を築いた黒塔の、現主席である。トップだ。つまり、一番偉い人である。三十代半ばくらいに見えるユーグは、膨大な魔力を持っているのだという。その魔力で、この集落に結界を構築し、運用しているのだと、ワタルは聞いていた。
だが、異世界人にも気さくに話す姿も見かけたことが多く、異世界人の間でもユーグは人気の存在だ。
「煙草の味はどうだ?」
「美味しいよ」
「異世界――ゲンダイニホンだったか。そちらとは、やはり味は違うのか?」
「うん。それはある。でも、俺はこっちの煙草も好きだよ」
ワタルが頬を持ち上げて笑うと、ユーグもまた笑みを浮かべて頷いた。それからユーグが煙草を銜えて火を点ける。
「お前は、いつも輪の中心にいるな。よく見かけるぞ」
「そ、そうかな? まぁ、俺、話すのが好きだからさ」
「明るい人気者だと評判だ、ワタルは。それで俺も、名前を覚えていたんだ」
ユーグの優しげな声に、ワタルは気恥ずかしくなって、煙草を大きく吸い込み沈黙を挟んだ。そうして改めてユーグの目を見る。ユーグの瞳も夜のように黒く、短めの髪も同色だ。黒塔の魔術師の正装は、黒を用いた服だという。黒であれば決まりはないそうで、本日のユーグは下衣は細い黒色のスキニーデニムで、上は首を覆うコートを着ていた。そちらは黒に近い紫色だ。
「ここに、不自由は無いか?」
「うん、俺は無いよ。自分の部屋があって、こうして喫煙所もあって。満足してる」
「そうか。皆がお前と同じならいいんだが」
苦笑するようにユーグが述べた。ユーグは悩みを相談される姿を見かけることも多いから、何かと大変なのだろうとワタルは考える。
「そ、その! 俺でよければ、異世界人になら、その……話を聞いてみたりできるか、なにか出来ることがあったら言ってくれよな?」
「――助かる。その気持ちだけでも本当に嬉しい」
ユーグが再び柔らかな笑顔を浮かべてそう言った。
その日を境に、ワタルが煙草を吸っているとユーグが訪れたり、ユーグが喫煙所にいるのを見かけると、ワタルもまた煙草を吸いに行くようになった。いつも、ユーグは優しい。穏やかな目をして、ワタルと雑談に興じる。
喫煙所でしか接点が無いのだが、ワタルは次第にユーグに好感を抱くようになっていった。ただこの頃はまだ、ユーグのことを、それ以上に考えることは無かった。