【二】
転機が訪れたのは、初霜が降りた日のことだった。
その朝はとても寒く、窓を拭く当番だったワタルは、早朝から水の入ったバケツに手を入れていた。先ほどまで凍っていた水面が、なんとか溶けたのを確認しながら、ぞうきんの水を絞る。異世界人が暮らす建物は、一応清掃魔術がかかっているとはいうのだが、細部の埃やガラスの曇りまでは綺麗にしてくれない。だから異世界人同士で話し合って、みんなで代わる代わる掃除をすると決めていた。あまり、現地の人々に迷惑をかけないようにしようというのは、異世界人から選ばれた五賢人の決定でもある。選んだのは、ここにワタル達を転移させた神様で、そのお告げだった。
「うわぁ冷たい。っていうか、寒い。上着、欲しいなぁ。でも俺、この服が一番厚いんだよな……」
衣類は基本的に、現地人が用意してくれた品だ。だがまだ夏の終わりの頃のままで、このように寒い日には、薄着と評するほかは無い。かじかむ手で、ワタルは震えながら窓を拭く。その時だった。
「――ワタル?」
既に聞き慣れている声がした。振り返ると、そこにはユーグが立っていた。
「こんなに寒い中、そんな薄着で何をしているんだ?」
「あ……っと、へ、平気だよ。窓拭き当番でさ」
心配をかけたくないと感じて、ワタルは空元気でそう述べ笑った。するとユーグの表情が険しいものに変わる。それはワタルが初めて見る表情だった。ユーグは顎に手を添え、少しの間考え込むように瞳を揺らした後、己が羽織っていた外套を脱いだ。
「これを着ていろ。無いよりはマシだろう」
「えっ、でも、それじゃあユーグが寒いんじゃ?」
ユーグを呼び捨てで呼ぶようになってからは、もう二週間ほどは経過している。
「俺は魔術で、自分の周囲の気温を調整可能だ」
歩み寄ってきたユーグが、外套をワタルの肩にかけた。ワタルは外套の前を右手で握って引き寄せてから、微苦笑する。心から嬉しかったが。
「ありがとう」
外套からは、ユーグが好む、甘い煙草の匂いがする。まるでユーグ自身に抱きしめられているようだと感じて、ワタルは自分の思考にハッとした。正面にいるユーグを見上げると、急にその顔が、いつもより整っているように見えて、惹き付けられる。元々ユーグは異世界人に引けを取らないくらい整った容姿をしていたが、今はこれまでよりも端正に感じられた。ドクンと、ワタルの胸が啼く。
その時、ユーグがパチンと指を鳴らした。すると――窓が一瞬で、ピカピカになった。
「こ、これ……」
「本来の清掃魔術だ。この一角に魔術をかけた魔術師は、力量が低かったんだろうな。ワタル、これでもう、拭く必要は無いだろう?」
「う、うん」
「早く中に戻って、体を温めろ」
そう言って、ニッとユーグが笑った。その姿は、ワタルでなくとも格好良いと思っただろう。
「この外套は……」
ワタルがおずおずと聞く。
「次に会った時にでも返してくれればいい。俺は一日に何度も喫煙所に行くだろう?」
「分かった」
コクコクとワタルは頷いた。それを見て微笑すると、ユーグは歩いて行った。
その背を見送ってから、ワタルは言われたとおりに屋内へと戻った。
これが、きっかけだった。
この日から、ワタルは気づくとユーグを目で追っていた。
今までは、ユーグと喫煙所で普通に笑顔で会話が出来たのに、今では一言一句が気になるように変わってしまい、ユーグを見ると、いちいち頬が熱くなって、朱くなるように変わってしまった。その上、上手く言葉も出てこず、どうしてもぎこちなくなってしまう。
「ワタル?」
「あ、いや……そ、そうだな。俺もリンゴは好きだよ」
「そうか。昨日食べたアップルパイはな――」
ユーグの方は、変わらず雑談を重ねるのだが、ワタルは二人でいる事だけでも嬉しくなって舞い上がってしまい、今度アップルパイを焼いたら食べてくれるだろうかと考えるほどだった。
ワタルの変化には、すぐに異世界人の友人達は気がついた。なにせ輪の中心で話していても、ユーグが姿を現すと、それが喫煙所でなくともワタルは歩み寄るようになったからだ。その嬉しそうな表情も、キラキラと輝く黒い瞳も、誰が見ても、ワタルがユーグに恋をしているのは明らかだった。なによりワタルは部屋にこもらなくなり、いつもユーグの仕事場に通じる路の方を見ているようになった。終始そわそわとしていて、輪の中心にいても、ユーグが姿を現したときにそばに行けない場合は、心ここにあらずといった状態で、チラチラとユーグのことばかり見ている。
だからある日、異世界人の友人であるサキホが言った。
「ワタルって、ユーグさんのことが好きなんでしょ?」
「えっ」
するとワタルの顔が、真っ赤に染まった。
「な、な? なっ、なんで?」
「……誰が見ても分かるよ」
サキホが呆れた声を出す。結果、両手でワタルが顔を覆った。そして指を僅かに開くと、そこからチラリとサキホを見た。
「まさかユーグにはバレてないよな?」
「さぁ? ユーグさんがよっぽど鈍くないかぎりは、僕はバレてると思うけどね?」
「そんな……嘘だろ……?」
「直接聞いてみればいいじゃん」
「簡単に言うけど、そんなこと、そんな、恥ずかしくて聞けるわけがないだろ!」
思わずワタルが声を上げた。
「へぇ」
その時、愛しい相手の声がしたモノだから、ワタルは目を見開いた。そしてぎこちない仕草でまさかと思いながら振り返る。するとそこには、やはり愛しい声の持ち主であるユーグが、気配なく立っていた。いつの間にそこに来たのか、いつからそこにいたのか、ワタルにはまるで分からない。
「あ……僕はもう行くね」
「ま、待って」
ワタルは制止したが、サキホはそのまま歩き去った。
二人で残されたワタルは気まずさを覚えながらも、きちんと振り返ってユーグを見る。
「その……聞こえてた、か?」
「ああ。お前が俺を好きで、それを俺が知っているかどうかと言う話の辺りから、しっかりと聞こえたな」
「っ」
ワタルは朱くなり、それから青褪めた。羞恥と恋心が綯い交ぜになる。恐る恐るユーグを見上げ、ワタルは言葉を探した。
「結論から言って、お前が俺を好きだというのは、俺だって気づいていた。悪いが、俺はそれほど鈍くは無いんだ」
「……、……そ、そうか。そっか」
「さて、仕事がある。俺はもう行く」
ユーグはそういうと踵を返して歩き始めた。その背中を、何か言おうと唇を震わせつつ、結局言葉が見つからないままで、ワタルは見送る。ユーグは、ワタルの気持ちに対して、この日何も言わなかった。