【三】
しかし――すぐに顕著な変化が現れた。ユーグは、あからさまにワタルから距離を置くようになり、一緒に喫煙所であっても笑顔を浮かべることはなく、雑談を口にすることも無くなった。そんな時、今度は必死に、ワタルが話しかけるようになった。沈黙が辛くて、言葉が詰まっても、必死でワタルは話題を探した。しかしユーグはよくて「そうか」と聞き流し、それ以外は無表情で首を縦に動かすか、横に動かすかだけに変わった。何も話さず、煙草を吸い終えるとすぐに出て行く。それがワタルには辛くてたまらない。
異世界人の、ワタルが暮らす区画にも、喫煙以外では足を運ばなくなった。だから物理的に、そばに行く機会も無い。ユーグが円卓と、そのそばの黒塔の魔術師のみの執務机で仕事をしているのは知っている。そしてそのそばの建物に、住居があるのも聞いていた。
けれどワタルには、そちらに出向く理由が無い。鬱屈とした気持ちで、ワタルは今日も、ユーグが喫煙所に訪れるのを待ち、そしてやってきたユーグに対しては、必死で笑いながら、一人で話し続けた。
――胸が、痛い。きゅっと締め付けられるように痛む。時にワタルは、ユーグを笑顔で見送り、その笑顔のままで俯いて、涙が誰にも見えないように泣くようになった。ユーグに冷たく対応される度に、胸が苦しくなる。
「俺、嫌われちゃったんだな……」
己を嘲笑する言葉を吐きながら、ギュッとワタルは目を閉じる。涙が頬を伝っていった。
――クリスマスが訪れたのは、それから数日後のことだった。
ワタルは、苦しさも悲しさも見せずに、異世界人の友人達の輪の中心では明るく笑い、この世界に持ち込んだクリスマスというイベントの準備に追われていた。クリスマスには、恋人がいない者同士で、ケーキを食べようと企画していた。いいや、恋人がいても二人で参加する者もいるし、中には現地人も混じっている。
お祭り男と呼ぶのが相応しいような明るさで、ワタルは笑顔で様々な雑務をこなした。
だが――内心では、いつも苦しかった。ユーグのことが、頭から消えたことは、一度もない。けれどそれを、誰にも見せない。ワタルは、誰かに心配されるのが、得意ではなかったからだ。ユーグについて、誰かに相談することすら無かった。
だが、イブのこの日。
最終作業として、ワタルは荷物を会場に運んだ。その帰り道、不意に肩を叩かれた。なんだろうかと驚いて振り返ると、そこには金髪でおかっぱ頭をした少年が一人立っていた。目の色は緑だ。
「貴方が、ワタルですね?」
「ああ、そうだけど」
「今から二十三時五十九分までに、愛する相手に告白しなければ、貴方は眠りに就きます。すると悪夢を見続けます。褪めない眠りの中で、貴方を悪夢が苛みます。これは、私からのクリスマスプレゼントです。異世界では、贈り合うのでしょう?」
「え……?」
「呪いですよ、私からのプレゼントは。この呪いを解除する方法は、ただ一つです。それは、真に貴方を愛する相手が口づけをすること。そうすれば、呪いは解け、貴方は目を覚ましますが――悪夢を見ていた期間が長ければ長いほど、貴方は自分を取り戻すまでに時間を要するでしょう。ただあるいは、私は恋のキューピッドかもしれせん。憎きユーグを苛むことが、ああ、楽しみでたまらない」
「何を言って……?」
「さぁ、『イカサマピエロ』を発動させましょう」
再び、ポンと少年が、片手でワタルの肩を叩いた。
その瞬間だった。
「っ」
ワタルの視界が歪んだ。まるで黒く歪なフレームで覆われたかのように、ワタルの視界が狭くなる。そして二重にブレたかと思うと、直後視界の右下に赤い鼻をしたピエロが見え始め、甲高い耳鳴りが始まった。そこにピエロの金切り声のじみた笑い声が混じる。
『あと九時間♪ あと九時間♪ あと九時間で、期限だよぉ』
同時に、不協和音のようなカウントダウンが始まった。すると視界の中央の、唯一前が見える部分に、いくつもの文字が踊った。思わずワタルは両耳を手で塞ぎ、その場にうずくまる。何が起こっているのか分からず、目を見開いたが、視界の異変は変わらない。
「な、なんだよ、これ」
呟いてみたが、何も変わらない。
『早く愛する相手に告げるんだ。自分の気持ちを九時間以内に。それだけが、助かる術だと教えてあげたんだからねぇ』
ピエロの声がする。目を閉じても、瞼の奥の暗闇にすら、数字が踊る、ピエロが映る。
必死でワタルは考えた。
――愛する者?
そんなものは決まっている。己はユーグを愛している。
ワタルは目を開け、右手で唇を覆った。考えてみれば、ユーグにきちんと告白したことはない。それが悔やまれてたまらない。こんなきっかけで告白するというのも、何か違う。だが――気が狂いそうだった。
必死でワタルは立ち上がり、唾液を飲み込んでから、元々進もうとしていた道を歩く。だが、T字路で、本当は右に曲がって帰るつもりだったのだが、左に続く道を見た。この先には、円卓がある施設がある。そこに、ユーグはいる。
そちらに向かって、ワタルは坂道をのぼりはじめた。目眩がする中、三十分ほど歩き、吐き気すら催しながらも、必死でワタルは施設のそばまできた。するとそばの路で、誰かと話しているユーグが見えた。ふらふらとしながら、ワタルは立ち止まる。その時、ユーグがワタルに気づいた。そして驚いた顔をした後、最近いつもワタルを見て浮かべる険しい表情をした。それはワタルの胸を痛ませる眼差しだ。
つかつかとユーグが歩み寄ってくる。
「ワタル、何をしているんだ?」
ユーグの声は、冷ややかだ。
「そ、その……ユーグ、少し話せないか?」
「悪いがこれからすぐ会議なんだ。用件があるならここで端的に話してくれ」
「……っ」
ユーグと話していた誰かは、興味深そうにこちらを見ている。施設に向かって入っていく人間も多い。そんな人気のある場所で、ワタルは告白する勇気が出ない。ここで振られたら? きっと、立ち直れない。それに、告白したとして、結果は見えている。ユーグは、己のことが嫌いなのだから。
「ワタル?」
「た、頼む。少しだけでいいから、二人っきりで話がしたいんだ」
「――無理だ。特に今日は、夜まで会議なんだ。明日もな」
「……っ」
無理に笑顔を浮かべていたワタルの表情が、さらに引きつる。大きくゆっくりと瞬きをしたら、黒い歪みが大きくなった。
「ちょっとでいいんだ。日付が変わる前に、ちょっとだけ。仕事が終わったら、その……俺、待ってるから。だから、俺の部屋に来てくれないか?」
部屋番号は話していたし、過去に部屋の前まで送ってもらったこともある。まだ親しかった頃の話だが。
「無理だと伝えているだろ。なんなんだ? 今までそんな無理なこと、言わなかっただろうが――……ああ、そうか。今日はイブだったな」
納得したような顔で、ユーグは頷いてから、半眼になった。
「とにかく今日も明日も無理だ。お前の部屋には行かない。イベントごとは他の異世界人と楽しんでくれ。俺は暇じゃ無いんだ」
きっぱりと言い放ったユーグを見て、誤解されていると気がついたワタルは、諦観した。だから、また必死に笑顔を浮かべた。
「……そう、だな。そうだよな、いきなり悪かった! ごめんな、俺は帰るよ! じゃあな!」
ワタルは明るく元気にそう告げた。いつも異世界人の友人達の前で振る舞っているような声音で述べた。あちらにいる時、決して楽しくないわけでは無いが、正直ワタルは無理をしていることも多かった。最近のユーグに話しかける時ほどではないが、人の輪に疲れることもあった。
もう、いいではないか。ユーグには嫌われ、皆と話すのは疲れ――そんな自分は、もう眠ってしまっても、いいではないか。
踵を返して、ワタルは走り出す。
「あ、おい――」
ユーグが驚いたように声を出したが、ワタルが振り返らなかった。
そのまままっすぐに坂道を下り、異世界人集落の一角にある、自分の部屋へと戻る。そしてへたりこんだ。どんどん視界の黒い歪みが、目に映る風景を侵食していく。
ギュッと目を閉じてから、ワタルは立ち上がった。
そして、窓の前にある机の一番上を開けて、二つの鍵を取り出す。その内の一つで二段目の抽斗の鍵を開けた。そこには、紙の束と万年筆が入っている。これは、ワタルが望んだチートだ。無くならない紙とペン、どんなに小説を書いても紙もインクもつきることは無い。ワタルが望んだのは、『いつまでも小説を書き続けられる道具』だった。取り出したその紙とペンを手に、ワタルは扉から向かって右手にある金庫へと向かう。そして授けられた紙とペンを金庫に入れてから、もう一つの鍵でしっかりと施錠した。
それから机の前に戻り、二つの鍵を置いてから、ワタルは普通の紙と、ペン立てに差してあった鉛筆を手に取った。
『金庫の中のものは、役に立つようなら使って下さい』
『それともし、俺が目を覚まさなかったら、殺して下さい』
ずっと悪夢を見続けるくらいならば、死んだ方がマシだろう。眠るのも、眠っている間に死ぬのも、ワタルには大差ないことに思えた。そのまま椅子に座り、ワタルは響いてくるカウントダウンを聞きたくなくて、耳を両手で押さえて目を伏せて耐えていた。
――あと七時間。
――あと五時間。
――あと三時間。
カウントダウンは続く。
『あと三十分だよぉ』
二十三時三十分に、ピエロが嗤いながら言った。
勿論、ユーグがくる気配は微塵もない。ワタルは小さく笑った。吐息に笑みがのる。視界はもう、ほとんど暗闇に飲み込まれている。
「もう、いいよな」
ぽつりと笑いながら呟いて、ワタルは椅子から立ち上がった。そして寝台の上にのぼる。それから横になって、毛布を掛けた。何度か瞬きをして天井を見上げてから、今度はゆっくりと長く瞼を閉じる。
『あと二分、あと一分五十秒――あと五十九秒……あと五秒、四、三、二、一』
カウントダウンが終了した直後、ワタルの意識は完全に闇に飲み込まれたのだった。