【四】
「なぁ、師匠? 最近、あっちの異世界人集落に行かないけど、どうしたんだ?」
「別に」
気怠い眼差しで、ユーグが答えた。すると弟子のキースが腕を組む。不思議そうに首を傾げている弟子を一瞥し、ユーグは煙草の煙を吐く。この施設には、分煙魔術がかかっているから、どこででも喫煙可能だ。だから本来は、喫煙所に行く必要すら無い。
イブのあの日、ワタルは自分からここへ来た。
もし本当に大切な話があるのならば、またくるだろうと考えて、もう二ヶ月になる。不老不死に近しい暗黒魔導師にとって、二ヶ月など、瞬きをする程度の時間に他ならない。だが、ワタルが来ないことには、少なからずユーグは苛立っていた。
「ワタルくん、イブの日に来ていたよね」
ファルレが言った。あの日、立ち話をしていたのは、ファルレとだった。
「だから?」
「きみは追い返していたけど、彼がここへと来たのは初めてだし、何か重要な話があったんじゃないのかと思って」
「……」
ファルレの声に、ユーグが沈黙した。黒塔の丸い執務机の一角で、椅子に背を預けて煙草をふかしている。もう一方の手では、くるくると万年筆を回していた。
「ワタルって、師匠のことを好きみたいだったよな?」
「そうみたいだね」
「もしかして……会いに来ないってことは、普通の人間にとっては二ヶ月って凄く長いしな……師匠、嫌われちゃったんじゃ無いのか?」
――ボキリ。
そんな音がした。ユーグの左手の中で、万年筆が折れた音だ。
ファルレとキースが顔を見合わせる。それから二人はユーグに向き直った。
「なぁ、師匠? そんなに気になるなら、会いに行ってみたらどうだ?」
「僕もそれがいいと思うよ」
二人の言葉に、ユーグが重々しい息を吐く。それから、吸い終えた煙草の吸い殻を、ユーグは魔術で消失させた。万年筆の残骸も、ほぼ同時に消える。
「少し、外の空気を吸ってくる。少し、歩いてくる」
ユーグがそう言って立ち上がったのを、二人は頷きながら見送った。
勿論ユーグが向かった先は、ワタルが暮らす異世界人集落だった。そこで人の輪を見渡してみるが、いつも中央にいたワタルの姿は無い。それを不思議に思って、ユーグはそちらに歩み寄る。
「あれ? ユーグさん?」
するとサキホという異世界人が声をかけてきた。ユーグは、嘗てはワタルにも向けていたような、作り笑いを浮かべる。あくまでもこれは、作り笑いだ。上辺の笑みだ。元来のユーグは冷たい性格をしている。それこそ、ワタルの前で見せていたような顔は、キースやファレルを除けば、ワタルの前でしか見せていない。
「ワタルはどうしてます?」
「――なに?」
「え? ユーグさんのところにいるんでしょう?」
「なんの話だ?」
「へ? クリスマスイブの日に、ユーグさんに会いに行ったって聞いてますけど? 喋ってるのを、施設に入ろうとした五賢人のナカナくんが見たって」
「……確かに話はしたが、ワタルはすぐに帰ったぞ」
「ええ? 嘘……あの日から、一回も見てないけど」
その言葉に、気づくとユーグは、探索魔術を使っていた。そして安堵した。
「部屋にいるんじゃないか?」
反応は、確かにワタルの部屋を示している。気が抜けたユーグは、続けて言った。
「元々はあいつ、長い間、部屋にこもってただろ? 単にまたこもってるだけなんじゃないのか?」
「えー? 本当に一回も見てませんよ? そんな、バカな……」
怪訝そうなサキホの様子に、苛立ちすら覚えたが、ユーグは作り笑いを浮かべたままだ。
「まぁいい。じゃあな、俺は戻る」
「あ、はい。え? ここに何か用があったんじゃ……?」
「ちょっと散歩をしていただけだ。またな」
ユーグは穏やかな声でそう告げると、元来た道を引き返した。
そして円卓に戻ると、いつものような気怠い無表情に戻った。この姿こそが通常だと、そこにいた二人はよく知っている。だが同時に、人当たりという意味では、作っている性格の方が無難であることや、本来の性格は他者に冷酷に映ることも知っている。ワタルには偽りない姿を見せていた様子だが、ワタルからすれば、急に冷たくなったように見えたのではないかと、キースは推測し、時にワタルを哀れんだものである。
「師匠、どうだった?」
「部屋にいるらしい」
「そうか。会えたのか?」
「いいや。探索魔術で確認して、帰ってきた」
「へ、へぇ……それで、いいのか?」
「なにが?」
「だから、嫌われちゃったかもしれないから、見に行ったんだろ?」
「……」
キースの声に、ユーグは何も言わない。するとファルレが、パチンと指を鳴らした。するとその場に魔術ウィンドウが展開し、ワタルの部屋を映しだした。
「ほんとだ。部屋にいるね」
「――すやすやと眠ってるな」
「しばらく魔術ウィンドウはこのままにしておくから、様子を見てみよう」
ファルレの提案に、小さくユーグは頷いた。
それから丸い机のそばには、ずっとファルレが出現させた魔術ウィンドウが展開してあった。時折ユーグはちらりとそちらを見るものの、表情だけ見れば無関心に見えた。
それが三日ほど続いたある時、キースが眉を顰めて、ユーグの腕の袖を引っ張った。
「師匠、変だ」
「なにが?」
「この三日間、ワタルは一度も目を覚ましてないぞ? 普通の人間は、そんなに眠れるはずがない。もしかしたらこれは、意識を失ってるんじゃないのか?」
「っ」
「この集落全体には、栄養フィールドがはられているから、食料がなくなっても大丈夫になっているし、清浄化魔術で、万が一トイレに行けない場合は、自動処理されるようになってるだろ? 入浴も極論だと不要だけど、それはまぁ娯楽みたいなものだ」
キースの声に、ユーグが息を飲む。
「ユーグ、直接見に行ってきた方がいいんじゃないの?」
ファレルがそう述べた瞬間には、ユーグは転移魔術を用いていた。ユーグが転移したのは、ワタルの部屋の扉の前だ。それからノックをし、声をかけてみるが、返答は無い。ユーグはドアノブを握り、解錠魔術を展開した。するとくるりと鍵が回った。ユーグが鍵を開けて中へと入る姿は、ファルレが展開している魔術ウィンドウにもしっかりと映し出されているから、二人もそれを確認していた。
静かに歩いて中へと入ったユーグは、寝台に歩み寄り、寝息を立てているワタルを見下ろす。
「ワタル」
「……」
「おい、ワタル」
何度かユーグは名前を呼んだが、ワタルはピクリとも動かない。眉を顰めたユーグが、ワタルの脈を取る。そして異常が無いことを確認し、首を傾げた。それからユーグは部屋を見渡す。そして机の上に、一枚の白い紙があることに気がついた。ユーグはそちらに歩み寄り、息を飲む。
『金庫の中のものは、役に立つようなら使って下さい』
『それともし、俺が目を覚まさなかったら、殺して下さい』
驚愕したユーグは、咄嗟に片手で唇を覆った。背筋に嫌な汗が浮かんでくる。
視線を彷徨わせ、再度ワタルを見てから、ユーグは金庫へと歩み寄る。鍵は机の上にあった。それを用いて金庫を開けると、中には紙の束と万年筆が入っていた。取り出して捲ってみれば、そこには膨大な量の小説が綴られていた。
――異世界人の魔力は、綴った文字数で決定される。
そして異世界人の魔術を現地人が使うには、異世界人が書いた作品を使わせてもらうしかない。異世界人の魔術は、だからこそ、異世界人にしか使えないと言われている。めったに今では、小説を書く者がいないからだ。皆そもそも生きることに必死であるし、小説を綴っていた『ぱそこん』や『すまほ』といったカガクの産物が無い状況下では、大半の異世界人は、小説を生み出さない。過去に生み出した者は、本人の魔力に変換されている状態だ。
それを、自分に?
ユーグは戸惑いながら、紙の束と万年筆を手に持ち、一度机の上に置いた。
そして改めて、最初からあった紙を見る。
『――もし、俺が目を覚まさなかったら、殺して下さい』
殺せという語が、ユーグの脳裏をグルグルと回る。一体、何故? 何が起きている? 答えを探しながら、ユーグはもう一度ワタルの瞼を伏せている顔を見てから、その場から瞬間転移魔術で、元いた場所へと戻った。
「ファルレ、十二月二十四日の午後十四時頃から、ワタルの視覚情報を魔術再生してくれ」
「うん」
ファルレが頷くと、魔術ウィンドウの風景が切り替わった。
そこには歩いているワタルが映っている。異常は無い。だが――すぐに、ワタルが、肩を叩かれて立ち止まったのが確認できた。その肩を叩いた存在の姿に、三人は息を飲んで目を見開く。
「あれは……」
ユーグが険しい顔で口を開く。
そこに映っていたのは、魔術師を、その筆頭である黒塔を、さらにはその首席で代表であるユーグを敵視しているルルーナ教の教主であるエッガルドが映し出されていた。少年の外見をしているが、齢九十に近い、エルフとのクォーターだ。
彼らは、秘術を使う。ユーグ達から見れば、ただの魔術の亜種に他ならないが。
それらが強い力を持っているのは本当だ。普通の人間相手ならば、簡単に精神異常をひきおこすことが可能だ。彼らの秘術は、主に精神を操る、ある種の呪いだ。
エッガルドとワタルが話しているのを、目を見開き、指先を震わせながらユーグが凝視する。もしその場にいたならば、と、これから何が起こるのかと恐れた。
「っ」
呪いだと告げたエッガルドの言葉。それからまた、ワタルは肩を叩かれた。その瞬間に、『イカサマピエロ』と呼ばれる呪いが発動した。ユーグが奥歯を噛みしめる。ワタルの視界が浸食されているのを見て取り、けたたましい声が不協和音を奏でる度に、守れなかった後悔が、ユーグの全身を冷たくしていった。
「だから、か。だから、普段は足を踏み入れなかったのに、ワタルくんはユーグ、きみに会いに来たんだね。告白するために」
「ッ」
「でも、きみは彼の家にいくことはなかった」
ファレルの声に、ユーグが顔を歪める。悔やんでも悔やみきれない。それ、は。紛れもなくワタルが大切だからにほかならない。
直後、ユーグが再び転移した。
そして眼前にワタルを捉える。絨毯の上に膝をつき、ユーグはワタルの柔らかな黒髪を撫でた。それから顔を近づけ、目を伏せているワタルに口づけた。真に愛する己からのキス、ワタルの目覚めをユーグは祈る。きつく目を閉じたユーグは、暫くの間、ワタルの唇に己の唇を当てていた。
「ん」
するとピクリとワタルの肩が動いた。顔を話してユーグが視線を向けると、ゆっくりとワタルが目を開けた。そして上半身を起こす。
「ワタル!」
ユーグが強い声で名前を呼んだ。しかしワタルの目の焦点は合わない。それはそうだ、二ヶ月もの間、悪夢に苛まれていたのだから――自分を取り戻すには、時間を要すると、エッガルドも嗤っていたではないか。苦しくなって、ユーグは思わずワタルを抱きしめた。
「ワタル……早く、戻ってこい」
「……」
「ワタル、俺は魔力なんていらない。必要なのは、お前だ。だから……殺してくれなんて、言うな」
切実さが滲む声で、ユーグは語り、ワタルの肩に顎を預ける。そして両腕で力強く抱きしめた。そうしながら、回復魔術を展開する。精神にも効果がある、穏やかな心地にさせる効果のある魔術で、花の香りがする。暫くの間そうしていると、ワタルの肩がまた、ピクリと動いた。
「ん――……えっ!?」
その時、ワタルが驚いたように声を上げた。
「ユ、ユーグ?」
「ワタル、っ」
「え? な、なに? なんで? え? どうして……? なんで俺を抱きしめて……え? 夢か? 夢……あれ? そうだ俺は悪夢を……どんな夢を見ていたんだっけ? ううん、ユーグが俺を抱きしめるはずが無いんだから、今が夢の中なんだ。きっと夢の中で夢から覚めるって言う、最高に辛い境遇に堕とされたんだな、俺」
「違う、夢じゃない」
ユーグが両腕に力を込める。そしてワタルの体温を確かめるようにしている。
「え? じゃあなんで、ユーグは俺を抱きしめてるんだ? 俺のこと、嫌いなのに……」
純粋に疑問だという声音が、言葉が終わるにつれ、悲しそうに変化した。
ユーグは顔をワタルの肩から持ち上げて、じっとワタルを覗き込む。その眼差しは、恐ろしいほどまでに真剣だった。
「俺は、とっくにお前のことが、好きになっていた。いいや、お前より先に、俺の方が好きになったのかもしれない」
「え?」
「お前が俺を見て、照れる度に、俺は内心では幸せを噛みしめていたんだぞ?」
「そんな……そんな風には見えなかった……本当に?」
「ああ、事実だ」
「でも、全然喋ってくれなくなって……」
「それは――……それが俺の普通だからだ。お前には、そのままの俺を好きになって欲しかったんだ。上辺の作り笑いをしている俺ではなく。だから俺が自然体でも話しかけてくれるお前を見た時は、その必死さに心を打たれてもいた。ああ、悪かった。俺がもっと早く、気持ちを伝えるべきだった。異世界人の中で、お前だけをひいきしてしまうことになりそうだという思いもあって、余計なことを考えて、俺はお前を手放すところだった。もういい。俺は、お前を愛してる。ワタルが好きだ」
再びギュッとワタルを抱きしめ、片方の手ではワタルの後頭部に触れ、ユーグが己の胸板に、ワタルの額を押しつけてた。
「……信じられない」
「信じて欲しい。ワタル、俺はお前が欲しい」
ユーグはそう言うと、静かにワタルを押し倒した。