【十一】惹きつけられる艶
花見から二週間ほどが経過した。既に桜は散り始め、新緑が鮮やかな季節となっている。有馬が二階の有料食堂の窓から木々を見たのは、昼食時の事だった。券売機の前に立った有馬は食堂を見渡し、奥の一角にトレーを置く羽染と、それを席で待っていたらしい朝倉を視界に捉えた。最近二人と食事の時間が合う事が少なかった為、自然と注視してしまう。
朝倉のそばに羽染が立っている姿を見るのが、自然な風景になっていく。
有馬は気づけば舌打ちしていた。
正直――悔しいという思いがあるのだ。有馬はずっと、朝倉の副官になる事を夢見てきたからだ。有馬にとって朝倉は、それだけ偉大な先達であり、尊敬している軍人である。
それも、朝倉の副官になったのは、羽染だ。好敵手だと一方的に考えている相手なのだ。
羨望。
憧れていた場所を、羽染に奪い去られた感覚。
――始めは、それらに襲われていただけだったはずだった。
だが……それ以上に、最近、羽染を目で追いかけている自分自身に、有馬は気がついていた。羽染の洗練された物腰も、早い仕事ぶりも、嫌でも視界に入ってくる。観察しているのだから当然なのだろうが。
――だが、ただ観察しているだけじゃなくなったのはいつからだ?
色白の肌に落ちている、羽染の黒い髪。
ドクンドクンと心臓の音が高鳴るのを、有馬は止められないでいた。
――何なんだよ、あの色気は。
花見の後からは、羽染の艶は特に酷い。
あの公園でのように、顔を合わせて声を聞きたくなって仕方がないのだ。
有馬はそんな内心に戸惑っていた。
「何、見てるんだよ?」
不意に背後から、山縣に声をかけられて、有馬は背筋を伸ばした。気づけば、券売機の前でぼんやりと羽染を眺めていたから、ハッとしてしまう。
「あ、え」
「羽染か?」
「あ……」
「最近のアイツ、色っぽいな。なんだ、気になるのか?」
「ち、違います!」
「気になってんなら、早めに手に入れとけよ。じゃねぇと、いつ誰に、盗られるか分からん」
精一杯有馬は否定したのだが、山縣はニヤニヤと笑っている。
それを見て、有馬は慌てて首を振り、再度否定する事にした。
「別に。気になってませんから!」
「……――要するに、それは今でも朝倉が好きって事か?」
「は、い……え……?」
頷こうとして、有馬は困惑した。
元々有馬は、朝倉の事を慕っていた。
それがあるいは恋心なのではないかと、有馬自身考えた事もある。
だが、羽染に対しては、これまでそんな事を思った事が無いのだ。
気になって気になってどうしようもない相手だが、あくまでも『同期』であり『好敵手』であるとしか、考えてこなかったからだ。
「今、一緒に朝食取ってる朝倉と羽染、どっちに嫉妬してるんだよ、お前?」
山縣の言葉に、有馬はわけが分からなくなって、息を呑む。
「な、何言ってるんですか、朝倉さんには、山縣さんがいるでしょ?」
そんな声に、なんて言う勘違いだろうと思いながら、山縣は肩を竦めた。
自分も朝倉も、『羽染狙い』だと分かっていたからだ。尤もそれは恋では無いかもしれないが、朝倉と山縣は、現在までにはただの『親友同士』でしかない。
「確かに俺は、朝倉さんが大切だとは思ってますけど……」
有馬が戸惑った顔をしている。
――ライバルは少ない方が良い。
恐らく自覚しないながらも、有馬は羽染の事を好きなのだろうと山縣は踏んでいる。だから苦笑した。
「有馬さぁ……そこまで言うんなら、朝倉の事を堕とせよ」
山縣のその言葉に、有馬が息を呑んだ。
視線を合わせながら、山縣の言葉の真意を、有馬は読み取れないでいた。
ただそのように言われると、やはり周りには、自分が朝倉を好いていると見えるのだろうと、有馬は判断した。
しかし有馬は、どうしようもない違和を、その瞬間に感じた。
――朝倉さんを堕とす? そんな事は、全く考えられない。
「有馬が本気なら、俺は応援してやる」
「……山縣さん」
「あ?」
「俺は確かに朝倉さんの事が好きだけど、別に朝倉さんに俺の事を好きになってもらいたいって訳じゃないんです」
強いて言うのであれば、頼りにされたいのだと、有馬は分かった。
「……」
「そりゃ、嫌われたい訳じゃないけど……」
有馬のそんな言葉に、山縣が腕を組む。
「じゃあ羽染に盗られても良いってことか?」
「なんていうか……」
もしそれで朝倉の仕事が楽になるのであれば、副官の地位に羽染がいても拘る必要は無いと気が付く。確かに羨ましいが、それとは別の問題だった。
有馬は、ただ朝倉の力になりたいと考えている。それは間違いがない。だがその先にあるのは、それこそ、朝倉のようになりたいと、実力を身につけたいという、そんな思いだった。
「逆に言う。羽染を朝倉に盗られても良いってことか?」
だが、続いた山縣の言葉に、気がつくと有馬は息を呑んでいた。
「っ、それは――」
「嫌なんだろ」
「――はい」
そんなやりとりをしている内に、昼食の時間は流れていった。
◇◆◇
花見の直後から。
どんな顔をして、朝倉や山縣に会えば良いのか分からなかった羽染は、二人の態度がいつも通りである事に安心しながら、生活していた。
その以後も、羽染の横顔はどんどん色っぽくなっていった。
気がつくと有馬は、その横顔を眺めていた。朝や昼に食堂で見かける度に、仕事で同席する度に、廊下ですれ違う度に、どんどん目が離せなくなっていく。
――何をやっているんだろう?
有馬自身がそう考えるようになった頃には、既に梅雨の季節が訪れようとしていた。羽染と有馬が二十歳になる年の事である。
そんなある日の土曜日。
有馬は気分転換に外へと出た。その日は梅雨の合間の晴天で、外の空気が吸いたい気分だったのだ。本当に、ただそれだけが理由だった。
だから寮の近所の茶屋で、三食団子を食べている羽染を有馬が見つけたのは、本当に偶然の事だった。
「何やってるんだよ?」
有馬は思わず声をかけた。すると羽染が顔を上げた。
ベンチに座る羽染に、有馬が歩み寄る。
そのまま隣に腰を下ろした有馬を見てから、羽染が湯飲みの中へと視線を向けた。
「今日は……寮の掃除で、部屋を追い出されたから」
「月に一度掃除されるんだよな? そっちの寮も」
「ああ」
「……それで、団子? 団子が好きなのか?」
「……別にそう言う訳じゃない」
唐突に話しかけられた羽染は、どのように対応すれば良いのか分からず、困っていた。答える言葉を探しながら、羽染が俯く。二人は現在、顔見知りと言えたが、世間話をするような仲というわけではなかった。
だが有馬は、もっともっと羽染のことを知りたいと考えていた。
羽染の事が、気になって気になって仕方がなくなってから、もう一ヶ月以上が経過していた。有馬は店員に声をかけて、お汁粉を注文する。
「お前って、基本的に休みの日何やってんの?」
「寝てる」
「一人で? 二人で?」
「一人でだ」
「寂しくねぇの?」
「別に」
そんなやりとりをしていると、有馬が頼んだお汁粉がすぐに運ばれてきた。
「食え食え」
有馬に促されて、羽染がお椀を手に取る。お椀は二つあった。有馬が二つと頼んだ時は、羽染はそれが己の分だとは考えていなかったから、少しばかり驚いた。団子を食べたらすぐに店を出るつもりだったが、有馬が座ってお汁粉を持つのを見て、もう少し滞在しようと考える。
「甘い」
ご馳走になる事に決めた羽染は、お汁粉の甘さに微笑する。
その様にして、休日の午後、二人の時間が生まれた。
「なぁ羽染」
「なんだ?」
「その――この後、暇か?」
「ああ。特にする事も無くて」
「だったら、飲みに行かないか?」
有馬は何気なくそう口にしていた。すると羽染が驚いたように目を丸くする。同期とはいえ軍閥が違う者同士が、親睦を深めるように飲みに行くというのは、実に珍しい事である。だが――羽染も、もっと有馬と話がしてみたかった。だから静かに頷く。
「ああ、行くか」
こうして二人は、飲みに行く事になった。
向かった先は、第二天空鎮守府の裏手の大通りから一本外れた場所にある繁華街の、小さな割烹だった。有馬が選んだその店は、赤提灯が外に出ていた。まだ早い時刻であるので、開店している店が少ないのだが、ここは昼間から営業している。夜勤の軍人の姿が多い。有馬は夜勤訓練の頃に、先輩軍人に連れられて訪れた事があった。
一方の羽染は、着任してから酒場に来た事は一度も無い。
小さな店内で、二人はカウンター席に並んで座った。
「何を飲む? 俺は焼酎」
「僕は日本酒にする」
メニューを眺めた二人は、それぞれ銘柄を選んでから、本日のオススメ料理をいくつか注文した。とはいえ、茶屋に寄ってきたばかりであったしお通しも出てきたから、枝豆や冷奴等、簡単なものばかりを頼んだ。まず先に運ばれてきた酒をそれぞれ手にしながら、何気なく二人は顔を見合わせる。
やはり羽染には艶があるように感じる、そう有馬は思っていた。
羽染はといえば、有馬は酒が好きなのだろうかと、漠然と考えていた。
「朝倉さんの副官、どうだ? やってみて」
「やりがいはある」
「羨ましい。俺も朝倉さんの所で働きたかった。けどな、羽染なら許せる」
有馬はそう述べると、ロックで焼酎を煽る。微苦笑した羽染は、ゆっくりと日本酒を味わった。その内に料理が届き、それらをつまみに、最初は仕事の話をしていた。有馬の飲むペースは早く、二杯・三杯と陶器のコップが空になる。酒に弱いわけではなさそうだが、相応に酔っている様子の有馬の横で、羽染はゆっくりと二合目を頼んだ。
完全に有馬が酔ったのは、それから一時間ほどしてからの事である。有馬は羽染を見ると、目を据わらせた。
「なぁ羽染。大体お前、何であんな奴の下でペコペコしてんだよ」
焼酎を飲みつつ有馬が言う。明らかに不機嫌そうな声音だった。
「あんな奴?」
熱燗を飲みながら、羽染が無表情で首を傾げた。
頬が少しだけ朱い。羽染も羽染で酔いが回ってきている様子だ。
「会津藩主だよ。普通、あんな目に遭わされてたら、キレるのが男だろ。少なくとも薩摩男子はそうだ」
「……」
羽染は、目をきつく伏せる。
保科には、保科の考えがあるのだと、羽染は思っている。
そして目に見える行動が、決してあの幼君主の、望んだ行動だとは思わない。
「お前は実力も才能もあるんだから、朝倉さんについてけよ。困ったら山縣さんだっているし」
「実力か……そんなものは……無い」
羽染は呟きながら、猪口の中身を飲み干した。
もし己に実力や才能があるのならば、今頃とうに会津藩を掌握しているだろうと考える。
――そうなれば、最早朝倉の暗殺方法を考える必要も無い。
同時に、保科の負担も少しは減らせるかもしれない。
しかしながら、羽染には現実的にそうする事など出来てはいないのだ。
「嫌味な奴」
「有馬……」
「俺はな、お前みたいなやつ大っ嫌いなんだよ。いっつも澄ましているしな」
「……」
低い有馬の声に、羽染は沈黙した。
「だったら、それならそれで、その姿勢を貫き通せば良いのに、階級が下の奴らに殴られるわ、会津の藩主は庇うわ、本当に信じられねぇんだよ」
「……」
「俺は、郷の先人を誇りに思ってる。羽染、お前だってそうなんじゃねぇのか?」
有馬が酔いの勢いそのままにそう問いかけた時、羽染が猪口を卓に置いた。コツンと音が響く。
「――そうだ。誇りに思ってる」
羽染の声はとても小さかったが、その言葉はしっかりと有馬には聞こえた。
今のご時世、表だって会津の偉人を尊敬出来ない事は、本当は有馬だって理解していた。だが、どこか辛そうな顔をして、徳利から片手で酒を注いでいく羽染を見据えながら、有馬は眉を顰める。気持ちを押し殺している羽染を見ているのが、辛かった。
もっと、羽染の本心が聞きたい。それには、この場所が相応しいとは思えない。
「お前、明日も休みだよな? 二休が基本だし」
「まぁ」
羽染が頷く。本日は土曜日であるから、明日の日曜日も羽染は休みである。
それを確認すると、険しい顔をしたまま、有馬が立ち上がった。
「出るぞ」
「は?」
まだ酒を飲み途中だった羽染が首を傾げるが、有馬は強引にその手を取った。
「行くぞ」
札を卓の上に置いた有馬は、羽染の腕を掴んで、外へと出る。
「お、おい、有馬」
羽染が慌てたように財布を取り出す。だが有馬には気にした様子が無い。
暫く歩いてから有馬は、羽染を一瞥して告げた。
「誘った方が、払う。それで良いだろ」
「けど……」
「次は、羽染が俺におごれよ」
次があるのかと、何度か羽染は瞬きをしながら驚いた。
「分かったな? それより、飲み足りねぇ。俺の家に行くぞ」
「有馬……飲み過ぎなんじゃ」
「あ? うるせぇよ」
そのまま強引に、羽染は、有馬に腕を引かれ、有馬の家へと連れて行かれた。