【十三】恋人宣言
「はぁ……」
本日は曇天だ。
白い雲が、都市を低く低く圧迫している。
そこに鴉が一筋の黒い線を描いていく。
窓枠の外のそんな景色を眺めながら、気がつくと羽染は溜息を漏らしていた。
「何かあったのかい、羽染」
珍しい羽染の姿に、朝倉が声をかける。普段の羽染は、物憂げな顔をする事も無く、怜悧な面持ちの事が多い。些細な変化ではあったが、それに気づける程度には、朝倉は羽染の上官になって時間が経ったと思っている。
「っ、いえ」
完全に無意識だった羽染は、慌てて振り返り首を振った。
溜息の理由は――明らかだろう。
有馬が唐突に、『好きだ』なんて言った事だ。
あの日以来顔を合わせてはいないが、きっとまだ酒が残っていたから、有馬はあんな事を言ったのだろうと羽染は考えている。恋人関係になるなどというのは、戯言に過ぎなかったはずだと、内心で片付けていた。
「僕で良ければいつでも相談に乗るからね」
朝倉の言葉に、羽染は曖昧に笑った。
「恐縮です」
「書類仕事も切りが良いし、そろそろ昼食にでも行こうか?」
「是非、ご一緒させて下さい」
羽染は答えながら、思考を切り替える事にした。
なお――朝倉の副官になってから、見事に陰湿なイジメは消えた。
その上朝倉には、日々優しく接してもらっている。
ただ非常に穏やかな性格をしている朝倉が、どこか刹那的というか、あまり自分の体を大事にしていない点などが、羽染は時に心配になる。うっかりすると朝倉は、昼食を忘れる事まであると、既に知っている。
どんな人間にも欠点があると羽染は思っている。しかしながらそれを踏まえても、朝倉は本当に理想の上司であり、憧憬を抱いていた。
「今日は、早いな」
二人で食堂へとやってきた朝倉と羽染に、山縣が声をかけた。
トレーを持った山縣の隣には、有馬が立っている。
その姿を視界に入れた瞬間、羽染は硬直した。
有馬はカツ丼をトレーにのせていて、何事も無かったかのような顔で笑っている。
有馬の家から帰ってからは、初めての遭遇だった。
「朝倉さん、一緒に食べましょう」
有馬が朗らかな声で、朝倉に声をかける。その声音を耳にしただけで、羽染は平常心を失いそうになったが、必死で内心を制した。
「そうだね、久しぶりだな。有馬と食べるのは」
「お前らが忙しすぎるのが悪いんだろ。朝倉も羽染も、ワーカーホリックって奴だろ」
揶揄するように山縣が言う。
「それに報告したい事もあるし。あ、山縣さんにも言わないと」
有馬がそう述べると、朝倉と山縣が顔を見合わせた。
――有馬は、山縣が諜報部に所属していることを知らない。
その諜報部からも、有馬から何か報告があるだろうなどと、山縣は聞いていなかった。何も知らないと瞳で応えた山縣に対し、朝倉が僅かに目を細める。ほんの微かな変化であり、周囲にはただ笑みを浮かべているだけに見えただろう。
羽染はと言えば、有馬の顔を直視するのが気恥ずかしすぎて、一歩遠い位置に移動していた。食券の券売機の前で、一人グリーンカレーにするか鯖の味噌煮定食にするか悩んでみる。意識して、有馬の声は、頭から締め出していた。聞いていなかった。
「羽染、僕は今日はハンバーグ定食にするから、頼んでおいてもらえる? 先に席を確保してくるから」
よく透る朝倉の声に、我に返り羽染は頷いた。
こうして、羽染だけを残して、三人が、四人がけのテーブル席へと向かう。
その後注文を終え、料理の乗るトレーを持って、羽染は席へと向かった。
空いているのは、山縣の正面、有馬の隣の席だ。
――ここは空気を読んで、席を外そう。三人が顔を合わせるのは、久しぶりらしいのだし。
そう考えていた羽染に向かい、有馬がその時顔を向けた。
「俺達、付き合う事になったんだよな」
「っ」
その言葉に、羽染は、トレーを落としそうになった。
慌てたように、隣で有馬がそれを支える。
一応食事は無事に、テーブルの上に載った。
「――……ハンバーグ定食です」
そう言いながら羽染が、朝倉にトレーを渡す。
すると朝倉が受け取りながら、笑顔を浮かべた。しかし目が笑っていなかった。
「否定しないんだね。とりあえず座ろうか」
「っ」
自分の分の鯖の味噌煮を眼前に置きながら、羽染は呼吸困難になった気がした。
「何々、一体どういう経緯で、何がどうなったんだよ?」
山縣が、笑みを浮かべつつも半眼で有馬を見ている。
「街でばったり会って、二人で飲みに行って、その後、俺が告りました」
有馬が笑顔でそう言いながら、カツ丼を食べ始めた。
居た堪れない気持ちで、羽染は俯く。
――本気で言っているのだろうか?
それが一番の疑問だった。
「それで羽染は、OKしたのかい?」
朝倉が、指を組んで肘をテーブルについた。その上に顎をのせながら、笑顔で羽染を見る。
「……え、あ、の、その……」
思い返してみれば、有馬に惹かれていなかったと言えば嘘になると、羽染は再び考えた。
だが、有馬が勝手に話を進めただけであり、OKした覚えはない。
その上、有馬が本気なのかどうかも、羽染には分からなかった。
「……」
「あ?」
すると隣から有馬に睨まれ、足を踏まれた。
――そもそもこんな話を、上官に報告する必要ってあるのだろうか?
羽染は困惑したまま、用意されていたお茶を手に取り、それを飲む事で内心の動揺を鎮めようと試みた。
「どーせ、有馬が強引に話を進めたんだろ」
何かを察した様子で、山縣が腹を抱えて笑い始めた。
「何もう最後までヤったの?」
山縣が続けた露骨な言葉に、羽染は思わず赤面した。
「まだですけど」
有馬が不機嫌そうな顔で目を細める。すると、朝倉と山縣が顔を見合わせた。
「じゃあまだ、俺らにもチャンスあるよな」
「そうだね、山縣。有馬に羽染はもったいないよ」
「ちょ、二人とも何言ってるんすか」
「有馬。羽染は僕の副官だし、僕のだからね」
「な」
「有馬、羽染は俺が、朝倉の副官のポジから引き抜くつもりでいるから、俺のだから」
「山縣さんまで……」
にこやかに言う先輩二人を見ながら、有馬は思った。
――この二人、本気だ。
「……からかわないで下さい」
ただ一人、この流れに、ああ、かつがれているんだなと判断した羽染は視線を下げて、嘆息した。そもそも第二天空鎮守府において人望ある三人が、自分に好意を抱くなどという事実が、あり得るとは羽染には思えなかった。からかわれているに違いない。
「午後には演習がありますし、早急に食事を済ませて、打ち合わせを」
羽染が冷静に言う。
すると三人が虚を突かれたような顔をしてから、羽染を見た。
「羽染……って、好きな人いる?」
朝倉が少し驚いたような声で、羽染に問いかけた。
「おりません」
きっぱりと答えた羽染は、有馬のことを一瞥してから、割り切ろうと考えた。
有馬の事が気になっていないと言えば嘘だが、からかわれて嘲笑されるよりは、割り切った方が幸せだと思ったのだ。あるいは、それは、『楽だ』という事かもしれなかったが、率先して傷つきたいとは思わない。
「おい待てふざけんな、お前は俺の事が好きだろ?」
しかし隣に座っている有馬が、眉間に皺を刻み、そう言い放った。
「……」
「好きだよな?」
「……」
「俺達は恋人だろ?」
「……」
実際――……そうなれたら、それは楽しいかも知れないと羽染は思った。
だが冷静に考える限り、朝倉を今後暗殺しなければならない自分と、有馬とでは、何もかもが釣り合わない。寧ろ少しでもそう言う関係にあった事が露見すれば、有馬に迷惑をかける事は目に見えていた。
「羽染」
短く有馬が羽染の名を呼んだ。その声で、羽染は我に返り、顔を上げる。
「!」
そのまま横から強引に顎を取られ、有馬にキスをされ、羽染は驚いて目を見開いた。
酸素を求めて唇を僅かに空けると、有馬の舌が入り込んでくる。
公衆の面前で口付けをしているなどという事態が、羽染にとっては羞恥を煽りすぎて、頭が真っ白になった。ただ、絡み合う舌が心地良くて、吸われる度にゾクリとおかしな感覚が背筋を這い上がる。
「っ、ん……」
性的な事柄に疎い羽染には、有馬の熱烈なキスが、強烈に思えた。刺激が強すぎて、息も苦しくなってくる。
「……ぁ……」
漸く有馬の唇が離れた時、羽染の双眸には生理的な涙が浮かんでいた。
少しだけ有馬の唇の感触が名残惜しい。
朦朧とした思考のまま、羽染は有馬を見る。
「そんな顔すんなよ……俺、我慢出来なくなりそうだ」
「……?」
とろんとした瞳で首を傾げた羽染を見て、有馬が、右の掌で顔を覆った。
訳が分からずぼんやりとしていた羽染は、その直後我に返って、有馬を睨め付けた。
「! な、何を考えて……!」
「羽染の事しか考えてねぇよ」
「っ」
当然の事だというように有馬に言われ、羽染は言葉に詰まった。
怒りも羞恥も、何処にもやり場が無い。
有馬の瞳が純粋すぎて、羽染は思わず赤面して、唇を震わせた。
「……山縣、どうしよう惚気られてるのかな、僕達」
「……有馬が素直すぎて若いとしか思えないわ、俺」
朝倉と山縣が、声を挟んだ。二人はどこか遠い目をしている。
「だけどまだ羽染の気持ちは分からないわけだし、僕達にもチャンスはあるよね」
「それはそうだろ。朝倉」
「は? 二人とも煩いっす。分かりきってるじゃないっすか、そんなの」
不機嫌そうに有馬が、目を細めた。
羽染はと言えば事態が飲み込めず、何も言わないまま固まっていた。
それを食堂中の皆がひっそりと注視していたことを、幸か不幸か羽染は気がつかなかった。