【前】曇天と鴉と黒猫



 白一色の曇空を、夜色の鴉が横切り、斜めに黒い線を引いた。

 何気なく空を見上げていた山縣寛晃は、視線を正面へと戻し、続いて黒猫が道を横切るのを見た。己は、黒に近い紺色の軍服姿であり、遠目にはやはり黒という印象を与える自覚が有る。ブーツもまた黒に近い茶色だ。尤も、これらの品は、軍の支給品であるから、自分のセンスで選んだ訳では無いのだが。

 ――『軍』。大日本帝国軍、だ。

 第二次世界大戦のおり、新型爆弾の投下を回避し、先の第三次世界大戦にて戦勝国となった大日本帝国において、山縣は軍人をしている。巻き起こった江戸回顧思想運動の結果、和装が主流となったこの国においては、洋装の軍人の姿は非常に目立つ。

「ま、鴉や猫と同程度には、日常風景か」

 己の服を一瞥し、山縣は呟いた。胸元には階級章が輝いている。大佐だ。現在は第二天空鎮守府と呼ばれる、陸・海・空の統括本部で勤務をしてきた帰りである。准佐階級以上の者は、望めば寮以外で暮らす事が出来る。山縣の住まいも第二天空鎮守府の近くのマンションであるが、行き先は別だ。

 まだ寒さの残る路を歩き、雪が降らない事を祈る。暦の上ではもう春だというのに、この関東のはずれの一帯は、まだ肌寒い。アスファルトをブーツで踏みながら進み、新型モノレールの駅へと向かう。高い空を走る無人の車両に揺られて数分。高級住宅街へと足を運んだ。それからまた少し歩くと、一際高い丘の上に、昔ながらの日本家屋が見て取れた。瓦屋根だ。

 表札には、『朝倉』とある。
 見た目は古風なインターフォンを押すと、すぐに門が開いた。指紋認証設備は最先端だ。

「早かったね、山縣」

 勝手に中へと入ると、山縣の友人の朝倉継通が、まだ昼下がりだというのに、高級な麦酒の缶を開けていた。朝倉宅の冷蔵庫には麦酒しか入っていないという噂は、半ば事実である。外観とは異なり、洋風のリビングで、高級そうなソファに座していた朝倉は、片手で丸く黒い灰皿を正面へと押しながら、視線で座るように山縣を促す。

 朝倉は煙草を吸わない。これは、朝倉の所持する邸宅に、山縣のために存在している灰皿だ。なお、表札こそ出ているが、この家に朝倉本人が住んでいる事を、そもそも知る人間が、山縣の他にはいない。朝倉は関東一帯、特に帝都内に、いくつもの家を所有している。華族だ。

「遅番が終わって真っ直ぐ来たからな」
「残業上がりって事になる時間だね。総務部の勤務体制は不可思議だな」
「その通り。俺にも麦酒」
「自分で取りに行きなよ――珍しいね、ワインを持参しないのは」
「真っ直ぐ来たって言っただろうが」

 山縣が冗談めかして笑いながら、座る前に冷蔵庫の前へと向かった。そして一缶拝借すると、改めて席に着く。そして胸ポケットから煙草のボックスと四角いオイルライターを取り出した。プルタブを開けたのは、一本銜えて火を点けてからだ。

「乾杯」
「うん。あー、山縣と飲むのも、久しぶりだなぁ」
「そうかァ?」
「来る時は、毎日のように来るじゃないか」
「俺もたまには忙しい」
「僕は毎日忙しいけどね」

 朝倉はそう言うと、クスクスと喉で笑ってから、缶を呷った。二人は同期である。気心のしれた親友――それが双方の共通理解であるし、軍部の者達も同様に考えている。

 ただし二人の立場は全く異なるため、何故二人の仲が良いのか疑問に思う者もいる。多くの軍人は、山縣が土佐だった高知、朝倉が長州のあった山口の出自であるから、今も現存する薩長土肥軍閥の関係で親しいのだろうと噂している。

 立場の違いというのは、職務内容だ。
 どちらかといえば、朝倉は『日本国の英雄』と呼ばれ、国内外の戦禍が及ぶ場所で功績を立てている。一方の山縣は、総務部を隠れ蓑に――最近新設された『諜報部』において、国内外の情報収集活動に従事している。軍に入隊した当初は、山縣もまた部隊の指揮をしていたが、今では異なる。

「朝倉は、次の戦地に行くまでは書類仕事だろうが。こっちは別の意味で常に体をはってんだよ」
「知ってるよ」

 気を悪くする様子も無く、二人は笑いながら言い合う。これからも、こんな毎日が続くのだと信じて疑わない――わけでも、無い。第三次世界大戦の終結後、各地では内乱とテロリストによる被害が頻発している。国内であっても、東京震災以降は、火種が燻っている場所もある。第二天空鎮守府があるこの帝都のこの一帯と、第三吉原と呼ばれる歓楽街がある旧東京府多摩市から旧日野市に限ってのみが、特別に平和だと言えるのが実情だ。

 江戸回顧運動が契機になり、各都道府県に藩制が復活した現在、それに反対する者が、国内ではテロを起こす。国外では、先の大戦で敗戦国となった小さな国々が、不平等を訴えて戦争を仕掛けようとする事が多い。それらは、第一次世界大戦レベルの旧世代的な武力活動が主流だ。

 逆に、最先端の戦いもある。戦勝国同士や先進国同士であっても、無人兵器を用いて、海洋上などで戦争を行っている。これらは、貿易戦争の代わりだ。海洋上での無人戦闘機やドローン同士の戦い、南極を舞台にしたドローン兵士による戦い。操作手法はゲームに似ている。勝利すると、関税が緩和されるなどの条件を事前に用意し、双方合意の上で『戦争ごっこ』をするのだ。それらはサッカーの世界大会と変わらない、民衆の娯楽と化している。

 朝倉の場合は、旧世代的な戦いにも、最先端の戦いにも参加している。時には、同郷の軍閥の者に、激戦地へと派遣される事もある。身内の軍閥にも、逆に敵対的な東北――旧奥羽列軍閥にも、朝倉に嫉妬する者や敵対する者は多い。そうした足を引っ張る者をそれとなく摘発するのも、山縣の仕事である。

「ゲームをしようか」

 そう言うと朝倉が、テーブルの上に、傍らの戸棚の上から引き寄せて、チェス盤を置いた。続いて駒の入った箱を置く。頷きながら山縣が、深く煙草を吸い込んだ。二人が揃うとゲームをするのは、常の事である。本日はチェスに決まりだ。

 朝倉宅には、いくつかのチェス盤が存在する。本日選ばれたのは、木製のレトロな盤面だった。ポーンを掌で弄びながら、山縣は朝倉を見る。ソファに座して、テーブルとチェス盤を挟み向かい合っている二人の間の空気は、穏やかだ。

 同じ歳、同じ軍閥、それ以上の――親友関係。それが如実に表れているような空気感が、二人の間には横たわっている。昼から互いに酒を呷りつつ、適度に雑談し、時に沈黙が訪れても気まずくなる事も無い。

「最近は、東アフリカが危ういみたいだね」

 黒のポーンを山縣が置いた時、何気ない調子で朝倉が言った。それからグイと缶を傾けると、即座に白のクイーンを朝倉は進めた。そこに迷いは見えない。朝倉の言葉は探りでも不安でもなく、単なる世間話だと、山縣には分かる。

「派兵があるとすれば、来年あるいは再来年といった所か」
「そうだね。東北方面軍閥からの派遣となるのかな」
「ま、基本はそうだろうなァ」

 激戦地へと派兵されるのは、東北方面軍閥の人間と決まっている。旧奥羽列と会津の人間が多い。激戦地というのは、それこそ旧世代的な戦闘が行われる場だ。

「東北方面軍閥といえば、珍しく次の入軍者の――高等士官学校統一試験の首席は、会津の学生だったみたいだな。最初は仙台に行くはずだったらしいんだが、寸前で、第二天空鎮守府に所属が決まった」

 そう告げてから、山縣が煙草を深々と吸い込んだ。肺を満たす煙が心地良い。

「羽染良親というらしいぞ」
「ふぅん。有馬は結局、次席で終わったんだったね」

 有馬というのは、朝倉に懐いている、薩摩藩出身の後輩だ。有馬宗一郎もまた、来年から、山縣と朝倉同様、第二天空鎮守府に所属する事が決まっている。軍閥の関係で、何度か顔を合わせた事のある山縣は静かに頷いた。現在、旧薩摩と旧長州、旧土佐、旧肥後の結びつきは非常に強い。幼年志士学校時代から、軍人になるともくされる者は、先輩軍人と顔を合わせる機会が多い。藩というよりも軍閥内での結びつきが何よりも強固だ。

「それにしても、羽染と聞くと、亡くなった外務大臣代理を思い出すね。会津には多い名字なの?」
「いいや。ご子息のようだぞ」
「……へぇ」

 朝倉が僅かに目を細くした。端正な双眸が、僅かに不機嫌そうに変わったように見えて、山縣は不思議に思う。

「亡くなったのは、六年前だから、七光りなんぞも何も無いだろうに、凄いと思う。尤も存命していても、会津藩というだけで、マイナス要素となるから首席を貫き通すのは、並大抵の実力では無理だろうがなァ」
「随分と買ってるね、山縣は。君は、羽染外務大臣代理と親しかったみたいだもんね」
「そうか? 晴親さんは、逆に親しくない人間が少ないタイプだったと思うけどな」
「山縣の口から、仕事関連じゃなく出てくる他者の名前は、羽染外務大臣代理ばっかりだったじゃないか」

 どこか拗ねたようにそう言うと、目を伏せ小首を傾げた朝倉は、そのままの仕草でルークを動かした。山縣はその言葉に、『少々迂闊だったかもしれないな』と、内心で考える。

 六年前――朝倉と山縣が入軍してすぐの事だ。当時は、第三次世界大戦の真っ最中であり、今のように高等士官学校卒業者は中尉として入隊するという体制でも無かった為、二人はすぐに戦地へ赴いていて、既に大尉階級にあった。

 その頃、山縣は、羽染晴親という、当時、外務大臣代理をしていた人物を、護衛するという任務に就いた事がある。それを契機に、様々な事があったのだが、詳細は朝倉には伝えていない。だがあの一件から、山縣と朝倉の親しさが増したのは事実だ。

 それからすぐに、羽染晴親は、当時の会津藩主、保科斉彬を庇って没した――これが、公的な記録である。しかしその仔細もまた、『諜報部』の関知する所ではあれど、朝倉に伝えられる事では無いため、迂闊だった己を山縣は振り返った。

 二人は紛れもない親友ではあるが、特に山縣の側に秘密が多い。朝倉はそれが職務であるとわきまえているから、特に踏み込む事はしないが、時に不機嫌そうな顔をする事がある――と、山縣は考えていたが、実際にはそれは誤りだ。朝倉は単純に、純粋に、己の知らない事柄があるという点に、子供のように苛立つだけである。

 朝倉の表面は柔和であるが、欲しいものを欲しいと願う時、朝倉はどこか幼稚になるのである。そしてその朝倉が欲しいものを、山縣が知らないのが敗因だ。

「前から思ってたけど、朝倉は、晴親さんが嫌いそうだよな」
「死者を冒涜する気は無いさ」
「否定はしないんだな」
「……ある意味、山縣を僕から奪ったんだからね。当然だ」

 沈黙を置いてから朝倉が述べた時、窓の外で雨が降り始めた。