【後】終わらない雨
――二人のチェスは続いている。二本目、三本目の麦酒を空けながら。
しとしとと降り始めた雨の音が、静かな室内へと響いてくる。昔ながらの家屋の風情を残すように、敢えて防音耐性を薄くしている。雪では無かった事に山縣が安堵している事を知らないまま、朝倉は勢いよく缶を傾けた。
朝倉は、華族だ。山縣は、武家の出であるらしいというのが、朝倉の持つ知識の一つである。本来ならば、交わらない二人である。
仮に軍属で無かったならば、同期で無かったならば、二人は話をする事も無かったはずなのである。それが、階級制度の残滓があるこの大日本帝国における実情だ。士農工商制度は消えたが、明確に、華族という立ち位置、存在は残存している。そして公家の血筋の地位は、天皇制の現在、明確に武家よりも高い。
朝倉は、華族とは言っても……母が、華族である父の妾だったというだけだと、時に己を振り返る。
男子が産まれなかったから入った、朝倉籍。そのせいなのか、当初、朝倉は自分が華族である実感が沸かなかった。
だが――それにも朝倉は慣れた。
最近では都内に広い家を何軒も所持し、遊び歩いている。ここもそんな中の、一軒だ。お気に入りの日本家屋である。朝倉の趣味は酒。特に麦酒を好んでいて、冷蔵庫に入っているのは、酒の缶ばかりだ。酒の肴は、特に欲しいとは感じない。
好きな事をして生きたいと、朝倉は考えている。軍人であるから、いつ生きるとも死ぬとも分からないからだ。危険だと家族は述べるが、朝倉は死に対してあまり恐怖していない。いつか訪れるならば、それで良いと思っている。いいや、そもそも、だ。朝倉籍になった時に、人生何があるか分からないと思ったものだ。
だから朝倉は、いつだって、生死をかけたゲームをしている。人生がゲームだと思うほど子供でも幼稚でも無かったが、歪みだす心を正常に保とうとするほどには大人になりきれない。
男なんてみんないつまで経っても子供だという名言は正しいと常々思う。朝倉は、そんな考えの持ち主である。
さて――朝倉がチェックメイトまでの道筋を脳裏で考えていた時、不意に山縣が顔を上げた。
「朝倉、お前また新しいマンション買っただろ」
「ああ山縣にはまだ、話していなかったっけ?」
「盗聴する身にもなれ」
山縣に理不尽な事を言われて、朝倉は笑ってしまった。
何故盗聴される事が分かっていて、マンションの場所を伝えなければならないというのか。だが、山縣の声からは、悪意を感じない。そもそもどうせ――朝倉も新居については、山縣には話すつもりだった。尤も、話さずともこの家と同じように、山縣が特定して訪ねてきてくれるだろう事を期待してもいたが。
「で? これまでとは随分違った可愛らしいマンションみたいだが、ついに結婚でもすんのか?」
「まぁ――正直迷ってはいるんだ。条件が良い娘さんがいる」
先日朝倉家から送られてきた見合い写真について、朝倉は思い出した。
「条件ねぇ。好みなのか?」
「どうかな」
自分の好みは、強いて言うならば……山縣とは対角に位置する部類の純粋な人間であるはずで、見合い相手の一人に決まっている女性は、箱入りのお嬢様でそれを体現しているような可憐な人だと、朝倉は考える。しかしその時点で、比較対象に山縣が浮かんでしまっている事に、当人も気づいていた。
だからなのか……なのに――なんでもない世間話として、あるいは仕事として山縣に訊かれると、嫌な動悸に体が支配される。その理由は知りたくないし、理解してはならないとも思っている。
華族籍に迎え入れられてから、己は、子供を作るために存在している、という側面もあると、朝倉は正しく理解していた。華族は何よりも血筋を重要視するからだ。
だからこそ、今後も、華族の、朝倉の血筋を継いでいかなければならない。
それは旧来のお家制度など打ち砕こうとしている者達から見れば、滑稽に映るのかも知れない。そう思えば怖くもある。山縣が、そちらの考えの持ち主だからだ。だが、自分の最低限の責務は守らなければならない。朝倉は常日頃から、度々その事を考えている。
「山縣は結婚はしないのかい?」
「するだろうなァ」
朝倉の胸が、山縣のその簡単な一言にざわついた。男同士の友人同士。当然出る事もある話題だ。
この世界、適齢期になれば見合いの話の一つや二つは出る。二人はもう二十七歳だ。
激動の時代にあって、結婚に早すぎるという事は無い。
「偽装結婚も大変だ」
「え?」
「仕事で結婚する事もあるんだよ。ま、たまには毎日勝手に飯が出てくる生活も悪くはないか」
女性が家事をするという価値観が、現在この国では根強い。あるいはそれは、使用人の仕事となる。
「それは……一生続くのかい?」
「まさか。仕事が終わればそこで終了。愛し合えば別だけどな」
嘘だなと朝倉は思った。山縣は、仮に相手側が山縣に対し情を持っていたら、絆されてきっと絶対に別れを選んだりはしない。山縣を盗られる感覚に、身を焼かれそうになる。どうあがいても山縣を手に入れるのは無理なのだろうが。
歪な友情のこの形を続ける事は、ただそれでも苦しい事だと朝倉は思う。
朝倉にとっては既にこの時、明確に山縣は、『親友以上』の存在だと言えた。
「山縣の中には、恋人と一生を過ごすという選択は無いのかい?」
余程この問いに『YES』と返ってきた時の方がダメージは大きいだろうと思いながらも、朝倉は問わずにはいられなかった。
「お前にだって無いだろ」
「僕には恋人がいない」
「じゃ、作れば良いだろ。適当に遊んでる相手から選べば良いだろ? 一人くらいいるだろう、お気に入り」
「……そうだな」
ここの所、仕事が忙しくて、と言い訳しそうになった。最近は山縣を待っている日ばかりだから、あまり出かけていないとは言わなかった。そんな事を言ったら、二度と山縣は、己の目の前に、足を運んでくれなくなる気がした。
それに、遊んでいないと言えば嘘だ。
――ただその相手が、少しだけ山縣に似ているという事実は、決して公にしたくはない事柄だった。山縣ならば、自分の『相手』の事など調査済みかもしれないが、まさか山縣本人が似ていると思う事は無いだろう。似ているのは、表情と内面だ。そうだ、恋人にするならば、あるいは山縣に似ている、あの――……しかし相手は、一般人だ。華族の家には迎えられない。
「ま、俺はお前がいるから、暫く恋人はいらないけどなァ」
「え?」
「空き時間はお前の家にいるしな」
朝倉は頭痛を覚えた。
――どうして山縣は、こんなにも欲しい言葉をくれるのだろう。
それが悔しくて、朝倉は唇を噛みそうになった。けれど必死で抑えて、笑顔を浮かべる。
「お互い寂しい独り身だね」
「別に寂しくないぞ? お前がいるし」
「僕の事を口説いて楽しいかい?」
「それなりだな。お前は引っかからないだろ」
ニヤリと笑って断言されて、息苦しくなった。とうにその笑みに引っかかっているかもしれないだなんて認めたくはないし、知られたくはなかった。
山縣には買いかぶられている事が、朝倉には分かっていた。
そして――ずっと、買いかぶられていたかった。
それがとても幸せな事だと思うからだ。
いつまでも変わらない友情、それで満足しなければならない現実。
けれどこの山縣との友情といった『関係』――それが、繋がっただけでも奇跡だろう。仮に同期じゃなかったならば、仮に同軍閥じゃなかったならば、決して生まれなかった縁だと朝倉は考える。
「――僕が本気で君を愛したら、僕の事をどうする?」
「さぁな、殺すかもな」
「ふぅん」
「ま、人間の考えなんて流動的で、俺は柔軟でありたいと思ってるから、その限りでもないかもしれないが」
「じゃあ、殺す意外ならば、どうするんだい?」
「ドロドロのどん底まで愛させて捨ててやるよ」
その回答を耳にし、山縣らしいなと朝倉は思った。だからクスリと笑って見せたのだった。
「チェックメイト」
朝倉が述べると、山縣が息を呑んだ。それから片目だけを細くして苦笑する。
「あーあー。そう来たか」
「僕の勝ちだ。もう一回やる?」
「いや、良い。もう時間も時間だ。帰る」
「この雨の中をかい?」
既に空は暗い。雨は激しさを増している。山縣はその声に、窓の外を一瞥した。
「確かに酷いな。が、んー……明日も早いんだよなァ」
「ここから直接出れば良いじゃないか」
「何か食いものはあるのか? 俺、昼も食ってねぇんだよ」
そう言われると、朝倉は言葉に詰まってしまう。しかしそんな時の、秘技がある。お取り寄せ、出前だ。朝倉は、ソファの端に置いてあったタブレットを手に取る。
「鍋でもしないかい?」
「おう。悪くねぇなァ」
こうしてその日は、そういう事となった。
――山縣と共にいられる。なのだから、雨など終わらなければ良い。朝倉は漠然とそんな事を考えながら、店を選ぶ。操作しながら、朝倉は山縣を見ずに言う。
「僕の事、遊んでるって言うけど、山縣は最近はどうなの?」
「定期的に第三吉原に行くくらいだな」
「ふぅん」
「東屋に行く事が多い」
「男娼を買うのかい?」
現在は、江戸回顧思想運動の影響で、衆道関係も珍しくなく、また男ばかりの軍部にあっては同性愛者も珍しくはない。そもそも第三次世界大戦中に使用された兵器の影響で、女性の数が減少している。だが多くの性的嗜好は、異性愛がまだまだ一般的だ。
「いいや。ちょっと野暮用があってな。見世では、基本的には裏は返さないで酒だけ飲んで帰ってきてる」
「本当かい? 勃たないの?」
「そうじゃねぇよ」
山縣が咳き込みながら吹き出した。それから顔を上げた山縣は、猫のような瞳をした。
「俺は玄人より素人の方が好きなだけだ」
「なるほどね。僕は後腐れが無い相手の方が良いけどな」
それからは猥談をして過ごしていた。鍋の具材が届いたのは、二十分ほどしてからの事である。この日は、二人で牡丹鍋を味わった。
朝倉にとっては残念な事に、翌朝には雨が止む。