【一】諜報部の現在
――それは、まだ蝉が鳴き始める、少し前の季節だった。
世界は第三次世界大戦終結後、落ち着きを見せ始めた。既に五年が経過している。
和装が主流のこの日本において、洋服が主要になる場所――それが軍事基地だ。
ここは第二天空鎮守府。
羽染晴親が、水鉄砲を片手に窓辺に立っていた。
そのすぐ側の壁際にある水槽の前では、木戸秋鷹中将が熱帯魚に餌をあげている。
角にある観葉植物を左右に侍らせた横長のソファには、表向きは大企業社長の坂本靖眞中将が膝を組んで座っていた。議員で公家の西園寺穂積は、似つかぬ缶コーヒーを持って立っている。他の面々は出かけている(と言うよりも寄りつかない)。すぐ扉の外には、『諜報部』のオフィスがある。表向きは、総務部の七課のオフィスだ。この室内は、管理職のための一室だ。
――俺以外の、この四名が揃うだけでも、かなりの奇跡だ。
普段は完全管理職風の山縣寛晃少将が、中間管理職だとはたと思い出すひと時である。二重軍籍で得た『少将』階級である。総務部の人間としての表向きの階級は、『大佐』のままだ。
アイスティのストローを噛みながら、山縣は、この顔ぶれがそろうと落ち着くなと思っていた。総務部七課は、『諜報部』と呼ばれる諜報機関の表の部署だ。偽装機関である。
「で、羽染さん。息子が士官学校を来年の春卒業するんだって?」
気怠い瞳で問いかけた副官の木戸に、視線だけで晴親が振り返る。
「うん、そうなんだ。仙台にいくつもりのようだよ」
「晴親、こちらへ呼び寄せないの?」
西園寺が首を傾げながら、プルタブを開けた。すると晴親が猫のような目を眇める。
「今更どの面を下げて会えば良いのか分からないよ」
「弱気な君も珍しいやんな」
クスクスと坂本が笑う。すると晴親が睨め付けた。
「好きな相手の手を離して部下に見に行かせている坂本君にだけは言われたくないよ」
「あーあー聞こえん」
「山縣君も、先輩の命令だからと言って必ずしも見に行く必要は無いんだよ」
「仕事もありますから」
無難に返した山縣は、腕を組んだ。
会津藩の動向は常に監視させている。その中にあっても、羽染晴親の長子――羽染良親の優秀さは何度も耳にした。親の七光りなど目に見える形では全くないのだから、実力なのだろうと言うしかない。文武両道。全国の統一試験では、関東方面学閥の小中高一貫教育の学術面エリート集団さえ抑えての堂々たるトップだった。剣道の腕前も聞く。
山縣自身は、帯刀しないため、剣道の方は言われてもあまりピンと来ない。
山縣が扱うのはもっぱら銃だ。
「だけど羽染さん。会津の人間は本当に陰湿だな。息子さんも、危ない事をさせられるんじゃないのか」
「木戸くん、あのね。会津でひとくくりにしないでもらえるかな? どこの土地にだって、陰湿な人間はいるものだよ。密偵、暗殺者、それはこの諜報部全体の人員数を見れば分かるだろう? 何らかの形で関わっていた人間の多さを見ればね」
晴親の言う通り、元々この情報部は、各藩の密偵や暗殺者上がりの人間が多い。
藩政が復活して久しい。それは諜報部に籍を置いたからと言って、簡単に忘れられるようなくくりではない。それを斬り捨てる羽染晴親の方が、『変わっている』のだ。
「それよりも保科の若君の事を放っておいて良いの?」
西園寺の声に、晴親が腕を組んだ。もうすぐ中学生になる会津藩の現在の藩主、保科秋嗣は、現在『犬』のように扱われているのである。
いや、自身で犬のように振る舞っているというのが正解なのかも知れない。その父である前代藩主は、今、晴親と共に暮らしている。晴親にしろ、保科成彬にしろ、既に公的には没した事になっている。互いに息子にさえ生存を知らせてはいない。
「それが日本の命運に関わるような事があれば、当然放置はしないよ」
晴親はそう言うと、水鉄砲の引き金を引いた。
見ているだけで涼しくなってくる。観葉植物の土を濡らすその水を一瞥してから、山縣は考えた。皆、何かしら抱えているのだなと。
日本。ああ、この大日本帝国は、これからどうなっていくのだろう?
それは山縣が考えてやまない問いだった。