【二】過去@




 ――母国へ錦を飾れ。

 そんな台詞は、聞き飽きていた。
 だがそれが己に求められている事だと、山縣はよく自覚していた。

 まだ高等士官学校を卒業したばかりの十八歳。

 これから前途ある未来が待ちかまえているのだと周囲はもてはやす。
 けれど――本人がただ一つ抱えている、厳命は、『今上天皇』の暗殺だった。

 これは、そんな山縣の、入軍した頃の話だ。


 ◆◇◆


 最後に見た記憶は、群衆に紛れてみた父親の処刑場面だった。
 目を見開き手を伸ばそうとした山縣を、母は、笠を深く被り直して制止した。
 竹槍が、白い首を突く。紅い血が、吹き出した。

 山縣は基督教徒では無かったけれど、最後に見た父の姿と、磔刑に処された救世主を今でも重ねる事がある。父が処刑された理由は簡単だった。至極単純だった。藩主のパンを盗んだから、ただそれだけだった――無論それが事実では無いと知ったのは、大人になってからだったのだけれど。

 知る頃には、母も既に病で没していた。身を隠して生きてきた山縣母子には、保険証が無かったから、満足に病院にかかる事も出来なかった。

 父親の唯一の形見の品はと言えば、金色の懐中時計だった。幕末の頃から、山縣の生家に伝わっていたらしい異国の品だ。山縣の生家も、元々は土佐藩に仕える武家だった。しかしもうその名は途絶えている。

 それでも今なおその懐中時計を山縣は持っている。
 山縣が藩士として土佐に再び舞い戻ったのは、八歳になった時だ。

 ――『山縣家』の養子となった、その時の事である。

 養い親は、土佐藩の間諜をしていて、山縣が十五の時に死んだ。
 その頃にはとっくに山縣は、死臭に慣れていた。
 そして己が元々、さる『大命』のために生かされているのだとも自覚していた。

 ――当代の今上天皇陛下の暗殺。

 次代皇位継承者は皆、薩長土肥軍閥に心を開いてくれているが、当代天皇は違う。
 今年で百二十歳になろうという老人を殺す事――それが山縣に課された使命だった。

 山縣の人生には、助けてくれる人物が、誰もいなかった。
 誰も助けてくれる者は、いなかったのだ。

 よって、己を助ける者は、己である。

 それが山縣の信念だった。
 十八になると同時に、第二天空鎮守府の軍属となり、山縣は天皇陛下がいる帝都へと出てきた。

 ――殺せ、殺せ殺せ殺せ。

 騒ぎ立てる胸中を押し殺しながら、山縣は陸軍で生きてきた。
 焦る事は無い、焦る必要は無い。焦れば、それは己の死を招く。

 山縣にとって、その時既に、故郷はおろか、国、他者、世界、全てが、よそよそしかった。


「次は何処の激戦地に行くんだい?」

 食堂で顔を合わせた青年に声をかけられ、山縣は視線を向けた。
 すぐに人好きのする笑みを取り繕う。
 山縣は己の持つ世界に対する絶望を、誰にも悟られたくはなかったからだ。

「まだ第三次世界大戦が始まったばかりだからな。朝倉は?」

 薩長土肥軍閥という大きなくくりで見れば、定められたグループの中に、その時の山縣と朝倉はいた。山縣は一見簡単に見える――も、全て天皇陛下に近い業務を回され、時にどうしても人手が足りなくなると激戦地へとまわされるといった仕事の体制だった。

 朝倉は逆で、激戦地に空きがない時だけ、平和な国内まわりだ。だからこうして二人が顔を合わせるのも、それなりに珍しい事態ではある。

「ファルージャに行ってくるよ」
「朝倉少佐のご帰還を楽しみにしてるぞ」
「まだ私は大尉だ。不敬だよ」
「勝てば官軍、ま、死んでも、中佐か」
「本当に不謹慎だな、山縣は」

 第二天空鎮守府に入ってから何かと声をかけてくる朝倉の事を、正直山縣は鬱陶しいと思っていた。同じ軍閥で仲が良い奴を欲しているならば、適任なんていくらでもいるだろうに、何故自分に構うのか。山縣にはそれが理解出来なかったし、しようとも思わなかった。

「それで山縣は?」
「国内警備だ」

 簡潔に応えながら、そうでなければ困ると考えていた。
 何せ国外には、暗殺対象は滅多に行かないのだから。
 先進医療の恩恵で、人間の寿命は大分延びた。

 変わりに高齢者と若年層の二極化が問題視され始めた年代の事である。
 山縣達の上の世代から、還暦を迎えた人々の間の層が、ぞくぞくと死んでいく。戦地で命を落とすからだ。第三次世界大戦は、人々の命を相応に奪っていた。

 そうでなければ人々は――もしくは逃げていく。

 それが今の軍部だった。

「生きて帰ったら、今度は白ワインや」

 朝倉がそう言って笑い、歩いていく。朝倉は、山縣を誘う時は、何かとワインのコルクを抜きたがる。なお、山縣は赤の方が好きだ。だからなのか、山縣が勝利して帰還すると、朝倉は赤ワインを振る舞ってくれる事が多い。それもまた鬱陶しい。ちなみに朝倉本人は麦酒党だが、ワインであれば白が好きであるそうだった。そんな個人情報もどうでも良い。そうは考えつつも、山縣は笑みだけ返して、後は何も言わないままでいた。


 今回の国内警備は、外務大臣臨時代理として諸国を回っているのだという羽染晴親の護衛および、天皇陛下への面会時のもてなし――。

 ああ、このような大戦中に、国家元首が死ねばどうなるのだろうかと、山縣は考えながら、軍服の下で銃把を握っていた。

 天皇陛下の元まで近寄る契機――大事な餌の到着を、山縣はエアポートで待っていた。
 降りてきた外務大臣臨時代理に歩み寄ろうとすると、一歩速く走り出す影があった。

「羽染!」
「――成彬様? あれ、今って議会はお休み中なんじゃ?」
「馬鹿者、お主が暗号文としか思えない絵はがきしか送ってこないから、わし自らこうして――……」

 そういえば外務大臣臨時代理は、会津藩の出身だったなと山縣は思い出した。
 出迎えた会津藩主の姿を見て吐息する。
 薩長土肥軍閥から見れば、暗殺しておいた方が良い二人だ。

 藩主は、元老院の議員定数にも響くから兎も角、外務大臣臨時代理を務めるほどの会津の人間など殺しておいた方が、今後の利になる。

 ――天皇陛下を殺して責任を被って消える未来と、そんな事など知らんぷりをして生きていく未来を、最近の山縣は考えつつあった。後者は、戦地で散るという夢想だ。それでも、東北方面軍閥の人間は、目に見える敵である。

「すごく嬉しいですけど、私にはお迎えが来ているんです。また後で、食事でも」

 羽染晴親外務大臣臨時代理はそう告げると、山縣を一瞥した。

「迎え?」

 すると先ほどまで子供のようだった、保科成彬の瞳が氷のように冷たくなった。

「はい。だから、また後で」

 ひらひらと手を振ってから、晴親が山縣の隣に立った。
 晴親の方が、背が高い。
 屈み込まれて顔を覗き込まれる。

「初めまして、山縣大尉。私は、羽染晴親です」
「――失礼いたしました。山縣寛晃大尉であります」

 ビシッと敬礼して見せた山縣の前で、朗らかに晴親は微笑んでいる。
 二人の後ろを、憮然とした様子で保科成彬が通り過ぎていく。
 それを見送った頃、急に晴親が近くのソファに深々と座った。

「山縣大尉。君さ、誰を暗殺する気なのかは知らないけど、成彬様は止めてもらえる?」
「な」
「その隠し方だと、左胸に軍の標準セット以外の銃があるのが丸わかり。されなれてるっていうのも変だけど、何度も同じ目に遭ってる人間も気づくと思うよ」
「この銃に他意はありません。位置はここ以外に思いつかなかっただけであります」
「へぇ」
「――羽染外務大臣臨時代理は、暗殺されそうになった事があるのですか?」
「どうかな。ただ私なら、その銃は鞄に入れておくね。相手の前でおもむろに開けて、二発。この方が確実だよ」

 喉で笑ってから晴親が立ち上がった。
 こうして二人は、急ではあったが天皇陛下に謁見する事になった。


「羽染か……」

 嗄れた声が響いてくるのを、防弾効果のある御簾越しに山縣は聞いていた。
 己が暗殺すべき者がすぐ側にいる。もう少しで手が届く。
 実際、ここまで近寄る事が出来たのは、初めてだった。

 てっきり、他の面会同様、軽い打ち合わせをお付きの者と羽染晴親がするのだろうと思って着いてきたら、あろう事か、直接声をかけられた。

 瞬間、ゾクリと体が震えた。

 何度も映像越しに、あるいはマイク越しに、聴いた事のある声だというのに、名伏しがたい畏敬の念が浮かんでくる。山縣は、天皇陛下を現人神だとは思っていない。だが軍部において叩き込まれた行動規範が、自然と体を硬くさせたのかも知れない。

「はい、陛下。ご無沙汰いたしております」

 だが羽染は、膝こそついて頭を下げてはいるものの、先ほどまで山縣に話しかけていた時と全く変わらぬ声音を放った。

「此度はどうだったね?」
「大変有意義な毎日でした」
「発つ前に話していた件はどうなった?」
「予想通りでした。こちらにも対抗策が必要かと」
「よきに取り計らえ」
「御意」

 羽染はそれだけ言うと、山縣へと振り返った。

「行こうか」
「は、はい」

 慌てて立ち上がった山縣が先導すると、羽染が静かに歩いてきた。
 そして出口間際で不意に立ち止まった。

「あ、変わった猫を拾うかも知れません」
「寂しいのであれば、私が毛並みの良い犬でも贈ろうか」
「畏れ多いので結構です。では、陛下、また後日」
「私の息があるうちに頼むぞ」
「じゃあ後五十年くらい大丈夫ですね」

 陛下相手に何て畏れ多い発言をするのだろうと、山縣は思わず半眼になりそうになった。
 しかもいきなり猫とは何だ。
 犬にしても、貰っておけば、一生の栄誉だろうに。

 訳が分からない外務大臣臨時代理だなと考えながら、山縣は羽染晴親と共に外へと出た。
そうして気づけば、暗殺する機会どころか手順を練る機会すら逃していた。

 無論焦って本日行動を起こそうなどと考えていた訳ではなかったが、何一つ出来ないまま時を過ごした己に、山縣自身驚いていた。


「今日は有難うございます、山縣大尉」

 敷地から外へと出て暫く歩き、人気のない駐車場へと辿り着いた時、改めてそう言われた。

「いえ。任務ですので」
「この後お食事でもどうですか?」
「折角ですが、寮の門限がありますので」

 作り笑いこそ浮かべていたが、淡々と山縣が答えると、それまでの礼儀正しさが、またも一瞬で崩れ去り、晴親が溜息をついた。

「つれないなぁ。今から予約するから一緒に行こうよ」

 腕を組んだ晴親は、小首を傾げて唇を尖らせる。いい歳をした大の男がやっても可愛くも何ともないと言おうと思ったが、不思議と似合っていた。

 片手で鞄を抱いた晴親は、もう一方の手で中の携帯電話を探している様子だ。
 そうしながら今度は楽しそうに晴親が笑う。

「あ、そういえば私、山縣君が誰を暗殺しようとしているのか分かったよ。陛下だろ?」

 体が硬直しそうになるのを必死で制し、山縣は無表情を取り繕った。

「……そのような大それた事を、俺が考えるはずがありません」
「そうだね。あれ、携帯どこ行っちゃったんだろ」
「では取り消して下さ――」
「旧薩長土肥だろう? 陛下が私に良くしてくれてるから、会津贔屓だと思われてるんだ。私のせいで、陛下には迷惑をおかけしてばかりだな」

 雑談するように核心をつかれ、今度こそ山縣は眉を顰めた。

 まだ軍服の左胸には、銃をしまったままである。他意が無いと述べた以上場所を変更するのも不自然に思えて、ずっとそのままにしておいたのだ。皇居に出向いたと言っても、軍人は基本的に銃の所持も帯刀も許可されていて、それは個人所有でも構わないので、見とがめられる事は無かった。無論SP達は気づいていたのかも知れないが。

 ――羽染晴親は、確信している様子だ。

 旧薩長土肥の名前まで出してきたのだ、山縣が軍閥など名乗っていないにも関わらず。その上、相手は軍の人間ではない上、国外にいる事が圧倒的に多いのだから、山縣の名前から判断したとは考えにくい。軍人ならば兎も角、羽染晴親は『一般人』のはずだ。

 ――初めから、暗殺計画について、知っていたのかもしれない。

 晴親の視線は、鞄の中へと向けられている。

 ――殺るならば、今だ。不安要素は、出来る限り排除しなければならない。

 空港からこのままここに来たから、報告していない羽染晴親の外交成果が無駄に消え、日本にとって何かが不利に動く可能性もあるが、それは山縣には関係が無かった。

 首元のネクタイを直す振りをして、自然に右手を持ち上げて、そのまま銃を取り出し構える。安全装置を外したのと同時に、カチリという音が谺した。殺意を押し殺さず、眉間に皺を寄せ、山縣は鋭い目をした。

「!」

 だが羽染を見て、山縣は硬直した。

 山縣が安全装置を外した瞬間には既に、羽染が笑顔で山縣に己の銃を向け、引き金を引いていたからだ。銃声は、空気の抜けるような音が、二つ。サイレイサー付きなのだろう。

「っ」

 左胸の少し下に、二度衝撃を感じた。

 しかし唇を噛みしめて、己の持つ銃を握り直し、引き金を引いた。自分が死んでも、ここで羽染晴親を――今後の土佐にとっての危険因子を排除できるのであれば、それが今己に出来る最善の手だと思っていた。どうせ、腹部を撃たれて、援軍を期待できない状況では、じきに死ぬのだ。それならば、天皇暗殺について知る羽染晴親だけでも……そんな考えだった。

 が――己の放った弾丸が、晴親の左腕に命中したのを見て、舌打ちする。
 確かに胴体部分を狙ったはずで、たかが文官に躱されるとは思わなかった。

 銃の腕だけは、山縣が純粋に誇っているものだったのに、今際の際でこうなるとはと、苦笑しながら銃を取り落とす。

 そのまま崩れ落ちるようにしながら、胸元へと両手を当てて、静かに目を伏せる。
 そして気がついた。

「――っ」

 慌てて目を見開き、夕暮れの中、何度も自身の体を見る。
 傷があるはずの場所に触れた手を見ても血はついておらず、痛みも無い。
 服すら破れてはいなかった。

「いやぁ山縣君って演技派なんだな。私はてっきり間違えて本物の銃を撃ってしまったのかと思って焦ったよ」
「……これは……」
「ん? いやさぁ、左胸より絶対鞄に入れておく方が暗殺しやすいよって、具体的に見せてあげようかと思って。さっきの銃は、玩具だよ。神聖プロイセンの新商品。お土産に買ったんだ」

 相変わらず朗らかに羽染は笑っている。
 右手で左腕を握っている晴親の手やシャツを、真っ赤な血が染め上げていく。

「!」

 山縣は考える前に、反射的に自身の銃を拾おうとしていた。
 しかし寸前で、それを晴親に蹴り飛ばされる。

 舌打ちしてから山縣は、軍服に装備しているナイフを抜き取って斬りかかろうとした。
動きやすさ――殺しやすさを重視して、山縣は外出時は帯刀していない。けれど短剣の扱いには慣れている。だから他の軍人よりは早く、その上鍛え上げられた動きだった。

 だがその手首を、きつく晴親が握って制する。血のついた晴親の骨張った指先が、ギリギリと山縣の手首を捻り上げる。

 動かなくなった己の手首を、驚いて山縣が見た。力を込めても震えるだけだ。

「……まさか力押しで軍人の俺が……」
「外交官だけど、一応私だって侍だからね」
「……俺を殺しに来たのか?」

 最早それ以外考えられないと状況から判断して、山縣は眉を顰めたまま呟いた。
 羽染晴親は、ただの文民だとは思えない。

 暗殺の件に関係しての問題なのかは分からないが、考えてもみれば元々羽染晴親は会津の人間なのだから、あちらから山縣を屠るという指令が出ていてもおかしい事はない。

「まさか。今はちょっと正当防衛してるけど、私はただ山縣君をお食事に誘っているだけなんだけどな」
「……食事……」
「ゆっくり話をしよう。私、結構君の事が気に入ったんだ。直感が大部分だから、これからもう少し話してみないと分からないけどね」
「この状況で食事なんて――」
「出来ない事は無い。確かに食べる時はちょっと腕痛いかも知れないけど、ほら、私は両手利きだから。さ、そろそろ遊ぶのは終わりだ。ナイフをしまって。行くよ」
「――……警察にですか?」
「だから、食事」
「……」

 山縣は続ける言葉を見失って、ただ何となく、ああ詰んだなとそんな気がして、言われたとおりにナイフを下ろした。しまってから、今度は、軍服から簡易応急セットを取り出す。

「腕を出して下さい」
「え、ああ」

 驚いたような顔をした羽染が、それから柔和に笑った。

「有難う、山縣君」
「……」
「元々私が悪ふざけをしたから、驚いて撃っちゃったって事だろ? 気にしないで」

 腕の少し上部の位置を圧迫して止血していると、晴親が言う。
 その言葉こそ冗談だろうと山縣は溜息を漏らす。

 静かに傷口へと、銃弾の破片などが残っていても溶かす消毒液をかけ、簡易縫い止めテープを貼り付けた。その上から包帯を巻いて、短時間ながら完璧に処置をする。そして痛み止めの錠剤を晴親に手渡した。

「山縣君、手慣れてるね」
「……」

 幼い頃、母と共に各地を転々としていた時に身につけた技術だった。