【三】ベランダ
――もう、こびりついてしまっている。
見栄、虚勢、空元気。
見上げた空は、暗い。
山縣は、煙草を銜えながら、空を横切る鴉を見上げた。
本日は快晴だ。なのに、何故、こんなにも世界は暗く見えるのだろう。
そんな風に、たまには感傷に浸る日もある。今も、なお。
特に分厚い雲に、地上が圧迫されている日は、その傾向が顕著だと、本人もよく自覚していた。そういう時、何をすべきか――それも今ではよく分かる。
「山縣、焼けたよ」
ベランダで煙草をふかしていた山縣に、窓を開けて朝倉が声をかけた。
都内にいくつもある朝倉のマンションの一つで、今日は鰻を焼いている。
自分の下らない思考を振り払ってくれる、空を明るくしてくれる人物が、単独で焼いているに過ぎないわけであるが、山縣は食べに来ないかと誘われたのだから良いだろうと考えている。
「今行く。吸ったらな」
「うん。冷めないうちに来な」
朝倉の明るい声を聴いていると、それだけで山縣の気分は少しだけ晴れる。
一人で泣いていた気分だった蒙昧とした心情が失せる。
――何も、朝倉が全てを受け止め、分かってくれると思っているわけではない。
室内に入ると、美味しそうな鰻の蒲焼が二人分並んでいた。
正面に座り、対面した席に居る朝倉を見る。柔らかそうな髪をしているなと、何とはなしに考えた。軍服ではなく、私服。山縣は、朝倉の服の趣味が嫌いではない。
「なぁ、朝倉」
「なんだい?」
「――鰻は精がつくらしいな」
「真っ昼間から、下ネタかい?」
「たまにはな」
「いつもだろ」
そんなくだらない、本当にくだらない、そういったやりとり。
けれどそれらは、先程までの更にくだらない思考を振り払ってくれる。
「それとも――」
「ん?」
「誘ってるの?」
「いや、それはない」
「――本当に? 微塵も? 欠片も?」
「なんだよ? お前こそ、そういう気分なのか?」
「こうも暑いとね。ひと汗かきたくなるやろ」
「空調ガンガンの室内で? クーラーという文明の利器が、さっきからフル稼働してるように俺には見えるぞ」
山縣はそう言ってニヤリと笑った。
実際それは事実で、朝倉の部屋は、いつだって空調の吐息が一定の温度を保っているから、夏であろうが冬であろうが快適だ。年中の室温を知る程度には、頻繁に訪れているし、親しいという自負が山縣にはある。その中には、過程として、体を重ねる事も、いつしか含まれるようになった。
「ご馳走様でした」
その後完食した後、山縣は煙草を銜えた。
食後の一服は美味い。決して鰻がメインで無かったわけではないが、食後の煙草は常だ。
「ねぇ、山縣」
「あ?」
「僕の事、好き?」
「なんだよ今更」
「最近、愛の比重が偏ってる気がしてさ」
「どういう意味だ?」
「僕の方が、山縣を好きすぎる」
朝倉が嘯いたものだから、山縣は吹き出した。
「率直に誘えよ。ヤりたいですぅって」
「うん。ヤりたい」
山縣が煙草をもみ消す。
それから重ねた唇からは、煙草の香りがした。
――ドサリと、そんな音がしたのは、寝室に移動するでもなく、リビングのソファの上での事だ。正面から抱きしめるようにして、朝倉は山縣を押し倒す。後頭部をクッションにぶつけた山縣が、些か引きつった笑みを浮かべた。
「がっつくな」
「無理や」
「なんで?」
「山縣が欲しい」
シャツのボタンを性急に外されながら、すっかり受身が定着してしまった事を、山縣は嘆いた。曖昧な関係から始まって、いつの間にか互いの距離が近づいて、友人――いいや、親友以上恋人未満の時期が長すぎたせいで、時折距離感が掴めなくなる。
「ッ……」
声を押し殺すように唇を噛んだ山縣は、右の乳首ばかり執拗に舐める朝倉を睨んだ。
そちらの方が感じる事を、知られたのはいつだったのだろう。
「……っ、ぁ」
「もっと」
「あ? 何が?」
「声出して」
「断る……ッ、ン……は、ッ」
山縣の吐息が上がる度、朝倉の瞳は獰猛になっていく。その後肌を舐められて、朝倉の舌が下腹部に到達した時、山縣は息を詰めた。ねっとりと咥えられ、唇で陰茎を扱かれる。次第に反応していき――気づけば先走りの液が漏れていた。ガチガチだ。
「ぁ……ッ、おい、出る」
「……」
「おい、って」
「……」
「朝倉、口を離せ」
「……」
「っぅ、ぁ、あ、うあ……ま、待て、出るって言って……――ン!」
朝倉にそのまま口で果てさせられて、山縣は荒く吐息した。何度も肩で息をする。山縣が吐精したものを、朝倉が飲み込む。ゴクリと喉仏が動くのを見て、山縣は何とも言えない気分になった。
「不味いだろ」
「――けど、飲むと恥ずかしそうな顔をする山縣が見られて気分が良いよ」
「趣味最悪だな」
山縣が溜息を吐いた時、朝倉がローションのボトルとゴムを手繰り寄せた。ソファ脇のテーブルに置いてあったのだから、計画的だ。
「――なんで俺のを舐めるだけで、勃つんだよ?」
「君の痴態に反応してる」
「……ほう」
パッケージを破り、ゴムを装着する朝倉を、山縣は眺めた。今から、これが挿いるのか――そう思うと感慨深い。朝倉は自身の陰茎にはめたゴムの上にローションを塗した後、二本の指にもタラタラと液体を垂らした。
「っ」
その二本の指を容赦なく山縣の中に挿入する。既に受け入れる事には慣れていたが、それでもこのヌメる感触と最初の冷たい温度には、どうしても山縣は慣れる事が出来ない。進んでくる朝倉の指の形を露骨に感じた時――声が堪えられなくなった。
「ぁ、ぁあッ……あ」
「ここ、好き?」
「ひッ……あ、ああっ」
「好きだって知ってる」
それから暫く解されて、そうして、朝倉の肉茎が中へと挿いってきた。山縣は体を震わせて、その衝撃に耐える。熱い。もう体温と同化しているローションは、最初とは比べ物にならない温かさだった。
「――ッ、うあ」
「動くよ」
根元まで挿入した後、朝倉が腰を揺すった。山縣の体も揺れる。中が全て暴かれたような感覚がしている。山縣の肉壁が、朝倉の陰茎を締め付ける。男同士だと言うのに、征服されていく。
「あああっ、あぁ――ッ、ン、あ……ああっ、うあ、ああ、あ、ああ」
「もっと乱れてくれ」
「無理だ、もう、あ、ああっ、出る」
「じゃあ焦らす」
「なっ……や、やめろ、頼むから」
意地悪く動きを緩慢にした朝倉を、生理的な涙が浮かんだ瞳で山縣が睨めつけた。
「ぁ、ぁああっ、ン、ん」
「どうして欲しい?」
「分かってんだろ、あ、ああっ、早く、早く動け」
「どうしようかなぁ」
「巫山戯るな、ン――っく、ハ」
ゆるゆると抽挿されて、山縣が体を反らせる。限界だった。全身が熱くて、朝倉のものしか感じる事が出来ない。朝倉の体だけが全てだ。もたらされる快楽が強すぎる。けれどそれは、酷く優しい。
「ぁ、ぁ、ぁ」
「――いいよ、出しな」
「うああああああ」
思いっきり前立腺を突き上げられて、山縣は白液を放った。全身を脱力感が襲う。
「!」
その時、急に激しく朝倉が動き始めた。
「ま、待て、待って、待ってくれ、まだ無理だ、あ、あああああああ」
「僕も限界や」
「あああああああああああああ」
そのまま何度も感じる場所を突き上げられて、山縣の思考が真っ白に染まる。
声を堪えるという概念が消え失せた時、気づくと三度目を放っていた。
同時に、中に飛沫を感じながら、山縣はソファに重い体を預ける。
「……」
山縣は言葉が出ない。それは喉が掠れているからでもあったし、三回も果てた事で体が重くて何も言えないという現実もあったし、朝倉が意外と自分勝手だから何も言葉が見つからないという思いもあった。けれど。
「気持ち良かったかい?」
朝倉が微苦笑しながら言った。その通りだった。
山縣の目元に溢れた涙を、朝倉が指で拭う。ぐったりとしている山縣は扇情的だから、まだ足りないと朝倉は思っていたが、それを山縣が知ったら呆れただろう。もう本気で無理だった。
「まぁまぁだな」
「ふぅん」
「今度は、俺のテクニックを披露してやる」
そして――山縣は、結局、見栄を張り、虚勢を張り、空元気で明るく笑った。
だがそれは、ベランダで思案していた暗い世界とは異なる、幸せな恋愛の一風景である。
――このようにして、二人の景色は続いていく。どこまでも。
二人で過ごす朝が、自然なものへと変わっていく。春夏秋冬、季節が巡る度、気持ちが交わっていく。世界に絶望していた山縣と、世界を厭っていた朝倉は、互いに救われたのだろう。時流の変化はその後もあったが、二人の関係は強固で、変化しなかった。
それは酷く自然で、そして二人にとっては唯一だった。
【完】