【4】空梅雨と菖蒲の宴、打掛






 ――もう晴れて二日目だ。
 たった二日顔を見ていないだけなのに、雨宮様に会いたくなった。
 どうして梅雨なのに晴れるんだ……! その分夏に晴れるがいい!

 僕は逆さまのてるてる坊主の前で両手の指を組んでお祈りした。その時だった。

「紫陽、ちょっと」

 まだ見世にでる時間ではないというのに、楼主様に名前を呼ばれた。
 恐ろしい。僕は何かしただろうか……?

 おっかなびっくり一階へと下りると――? そこには機嫌良く笑っている楼主様がいた。

「なにかあったんですか?」
「お呼びですかだろう?」
「お呼びでしょうか……?」
「よくやったねぇ!」
「え?」

 なんの話か分からずにいると、バシバシと肩を楼主様に叩かれた。

「立派な仕掛を贈ってもらうなんて、鼻が高いね」
「え?」

 仕掛というのは、第三吉原では打掛のことを言う。着物だ。東屋では着物の上にはおる着物、といった感じだ。楼主様の言葉に視線を向けると、そこには三つの打掛があった。どれにも紫陽花の意匠が施されている。

「これは……ええと?」
「雨宮様が紫陽によこしてくださったんだよ。感謝するんだね」
「え」

 僕はポカンとするしかなかった。



 そのまま打掛は僕の部屋へと運ばれて、うち二つは立てかけられた。そして一つを早速本日着ることになった。黒い打掛だ。僕は普段は、見習いだった頃に作ってもらった緑色の打掛か、見世が買ってくれた赤い打掛のどちらかだから、着ているだけでビクビクしてしまった。黒いのに地味じゃないのだ。

 かといって下品な模様というわけでもない。高そうに見えないのに、高級感にあふれているという矛盾だ。模様が兎に角詰め込まれている、と言う訳じゃなく、むしろ紫陽花は適所適所で咲き誇っていると思う。

 僕も紫陽花柄の打掛なら菖蒲などが一緒に描いてあることが多い事くらいは習って知っていたのだが、それもない。紫陽花の大降りの花と花びらと葉っぱだけなのに、一つ一つが端正に縫われていて目を奪われる。黒と薄い紫や青だ。金や銀の糸がたまに入っている。打掛に負けてしまいそうだ。そして多分負けている。

 着物のせいなのか、今日は立ち止まって僕を見物していくお客様が多い(勿論みんな口々に打掛を賛美している)。ただ正直嬉しかった。

 僕は打掛を――というよりも、プレゼントをもらったことはこれまでに二度しかなかったのだ。一度は庄野様がお守りをくれた。交通安全と書いてあった。お正月に神社にお返しした。二度目も庄野様で、この時は簪をくれた。ただその簪は、「秋桜太夫にあげるから返して欲しい」と頼まれたので返した。「馬鹿!」と思った思い出がある。

 なので僕のモノになった(?)プレゼントは初めてだ。だからなのか未だ実感がわかない。似合っていないから返してと言われたらどうしようか。

 その時見慣れた靴が格子の前で止まった。
 顔を上げるとそこには、雨宮様が立っていた。いつもの通りニコニコと笑っている。
 この顔を見るだけで嬉しくなってしまう。

 楼主様に呼ばれたので中に戻ると、背の高い三枚下駄を指で示された。

「え?」
「今日は『菖蒲の宴』で、第三吉原でも一際観光客が多いから気をつけるんだよ」
「気をつける?」
「雨宮様と見に行くと聞いているけど?」
「そうなんですか!?」
「……紫陽から誘ったんじゃないのかい? ま、まさか……こ、断るかい?」
「行ってきます!」

 僕の言葉に、楼主様が脱力したような顔をした。
 しかし僕は嬉しかったので、その理由などはあまり気にならなかった。

 一度で良いから、菖蒲を見に行きたいと僕も思っていたのだ。
 第三吉原では、菖蒲が見頃になると、『菖蒲の宴』といって、菖蒲が大公開されるのだ。

 僕はいつも格子の中に入っているので見には行けなかった。

 そして本来、東屋では、屋外に出かけることはたとえ第三吉原内であっても禁止されている。だけど、『宴』の時だけは別なのだ。似たようなお店も多い。花と美しさを競うという名目で、観賞会が許されるのだ。

 玄関まで若衆の人に先導してもらっていくと、雨宮様が立っていた。
 下駄が高くてふらふらするので、高く差し出してもらった手をしっかりと握った。

「お借りしますよ」

 雨宮様に、見世の皆は満面の笑みを返していた。
 雨宮様よりも視線が高いというのが新鮮だったが、僕は一応練習済みではあるものの三枚下駄になかなか慣れない。どうしても歩くのがゆっくりになってしまう。

 それにしても三枚下駄に高級打掛なんて、まるで僕は、花魁さんになったようではないか。傾城か!

「その打掛、気に入ってもらえた?」
「はい!」

 気に入らないはずがない。それよりも、それよりもだ。

「あの、どうして打掛を僕に?」
「紫陽は、俺から打掛をもらうのは嫌だったかな?」
「まさか! すごく嬉しいです」
「じゃあそれでいいじゃないか。お返しに、菖蒲と争ってもらうからね。勝敗は見えてるけど」
「え?」
「かごの外にいる君も、きっと綺麗に咲き誇るんだろうなと思ってね」
「あ……その、え……頑張ります」

 僕の言葉に、雨宮様が吹き出した。

 もしかして――本物のお花の菖蒲と、打掛の紫陽花の絵を勝負させるつもりなのだろうか。それは、僕に着せない方が良かったのではないだろうか。それに絵というか柄は本当に綺麗だが、本物のお花に勝てるものだろうか?



 不安になりつつ歩いていくと、なんと場所まで雨宮様は用意していてくれた。 この人混みの中どうやったのか、最もよく見える静かな場所に感じられる神社の側に、畳まで用意しておいてくれたのである。転ばないでそこまでたどり着くことが出来た安堵も半分あった。

 それからお酌をしながら、二人きりで菖蒲を眺めた。

 菖蒲は、縁が白くて中に行くにつれ濃い菫色になっていく。そして小さい黄色にたどり着くのだ。白い菖蒲もあった。紫色、青、白、斑。どれも瑞々しくて、目が惹きつけられる。

「本物の菖蒲をこんな風にじっくり見たのは初めてです」
「それは本当?」
「はい。すごく綺麗ですね」
「うん、綺麗だね――帯が前にあるってあんまり良くないね、ほどきたくなる」
「え?」
「ううん。なんでもないよ。どの菖蒲が一番好き?」
「ええと、あの角の所の少し細いのが好きです。ちょっと背が高い奴」
「紫陽みたいに咲いている花だね」
「え?」
「紫陽みたいだって言ったんだよ。今度はちゃんと聞いて」

 僕は花にたとえられたので、なんだか照れて頬が熱くなってきてしまった。

 確かに僕は紫陽花という名前が付いている。だからといって、あんまり男娼を花にたとえる人はいないような気がする。勿論今日は、その花と美を競うなんて言う日ではあるのだけれど。だが僕だって、プロだ……! 照れているばかりでは行けない!

「あの菖蒲と僕、どちらが綺麗ですか?」
「菖蒲の方が綺麗だね」
「そ、うですよね!」

 それはそうである。僕の馬鹿! この日のために全国から菖蒲を見に沢山のお客様が訪れているのだから、競ったら負けるに決まっていた!

「紫陽はね、俺の腕の中でだけ、一番綺麗なところを見せてくれれば良いんだよ」
「そうですよね! そうで……?」
「うん、そうだよ」

 雨宮様はニコニコと笑っている。不覚にもまた僕は照れてしまった。
 それからしばらくの間二人で菖蒲について、あれが綺麗だこれが綺麗だと言い合ってから、見世へと戻った。

 僕の部屋で寝転がりながら、ゆっくりと瞬きをすれば、まだ瞼の裏には菖蒲が焼き付いているようだった。

「んァ……雨宮様……ッ!」

 押し倒されるとすぐに、帯をほどかれた。

 いつもより性急に首筋へと薄い唇が降ってくる。外に出ていたせいなのか、いつもよりも肌が、別の温度に敏感になっている気がした。

「痕、つけても良い?」

 本当は駄目だった。いくらお客様が雨宮様しか来ないであろう僕でもそれは駄目だ。

「ごめん、つけちゃったんだよね」
「っ、あ、」
「嫌だった?」
「……」

 規則ではまずいのだが、残念なことに嫌ではないのだ……なんて言ったって、僕は雨宮様のことが好きになってしまったのだから。

「内緒です、絶対内緒です」
「うん」

 僕の言葉に、雨宮様がニコニコと笑った。ただいつもよりも、どこか色っぽい(?)ような気がした。一言で言うと、獲物を捕るのを楽しむような顔に見えた。ただしちょっと焦りも見えるような、不思議な感じだ。

「紫陽は俺のことが好き?」
「好きです」
「信じて良いの?」
「勿論です!」
「思ったよりも人目を惹きすぎて、ちょっと焦ってしまったんだよね」
「打掛ですか?」
「うんまぁ紫陽花」
「この打掛本当に綺麗ですよね」
「綺麗だけど、紫陽が着てこそかな」

 雨宮様はそう言うと、僕の頬に手で触れて、僅かに首を傾げた。

「俺の気持ちは伝わってる?」
「気持ち?」
「どんなに紫陽を綺麗だと思ってるか」
「っあ……!!」

 そのまま陰茎へと手が降りてきて、擦られた。雨宮様の手で、その日もおかしくなりそうなほど感じさせられたのだった。

 ――以来僕は毎日、雨宮様にもらった打掛を身につけるようになった。