【3】
さすがに四日目、帰ろうとした礼に、春香が代表して聞いた。
「ねぇ、どこへ行っているの?」
「ん? ああ、紺くんのおうちのほうだよ!」
それを聞いて僕らは心底安堵した。なるほど、そういうことか。
なので五日目も普通に見送った。
六日目からは、春香たちより少し遅く帰るようになった。
ただし僕が強制的に鍵をかけていた十時までには帰る。
朝はいつも、春香たちが来る十分前だ。
そんなある日、僕は気がついた。日に日に、礼の指に絆創膏が増えていく。
しかも……本日は、あきらかに血がにじんでいる。
春香たちが帰ったあと、僕は思わず聞いてしまった。
「礼、その指、痛そうだけど、どうしたの?」
すると礼が不思議そうな顔で、僕をしばしの間じっと見た。
そしていつもどおりの笑顔を浮かべた。
「柾仁さんには、もう迷惑をかけないから大丈夫!」
「え?」
「今日はもう帰ります! また明日! 心配してくれてありがとうございます!」
僕は、ズキリと胸が覚えた痛みに唾を飲み込みながら、彼女を呆然と見送った。
引き止める暇もなかった。
――迷惑?
いいや、『もう』……?
つまりそれは、以前は迷惑をかけていたという意味だろうか?
別に僕は、そうは思っていなかった……のだと、個人的には思う。
しかし、紺とアシェッドの見解は違った。
ならば、両者のどちらかから、その見解が伝わったのだろうか?
アシェッドだったら、もっと早く伝わるだろう。
なにより、紺とミレイユの家にいっているという話で……っ。
僕は思わず冷や汗をかいた。礼は、『家の方に行く』と、口にしていたのではなかったか。アシェッド名義の礼の家は、聞いた限りだと紺の家と方角が同じだ。まさか。そう思いながら、気づくとほぼ無意識に、僕は電話をかけていた。
「もしもし」
『なんだ柾仁? 研究、完成したにしては早いな』
「あのさぁ、礼に最近会った?」
『いいや。連絡もとってない。飲んだ日以来話してないな。どうして?』
「従兄の家に遊びに行ったりとかしないのかなと思ってね」
『ああ、一回ミレイユと春香と三人で食事に行ったみたいだな。家に来たことはないから俺は会ってないけど』
「紺はミレイユと、礼が迷惑だって話をした?」
『してない。して、間接的に伝えろっていう話か?』
「まさか。ちょっと聞いてみただけだよ。世話案悪くないかなとも思っただけ」
『やっと迷惑だと気づいたのか?』
「んー、どうかなぁ。もうちょっと考えてみるよ」
『ああ。本当に迷惑になったら言ってくれ。公務とかも大変だろうし』
「ありがとう。日本に来てくれて良かったよ。じゃあね」
気づくとそういい、電話を切っていた。
そして、自分が珍しく無表情になっていることに気づいた。
我ながら冷酷な目をしていたかもしれない。
「……」
その後帰宅すると、皆、お辞儀などはしてくれたが、一切僕に話しかけてこなかった。多分、相当怖かったと思う。自分でもわかっていたが、止められないくらい、なぜなのか苛立っていたのだ。しかも胸がズキズキと痛む。最悪の気分だ。
いつもどおり、僕は六時に研究室に出かけた。
結局、礼が来ようが来まいが、この時間に来ているし、帰宅時間も同じだ。
最初は心地いいと思ったはずのひとりきりの研究室が、今は無性に頭に来る。
ふと簡易キッチンを見た。
僕の我ながら美味しいけど、決して上手と褒めたたえられるほどではない、皇室での食事に比べたら、まずいお味噌汁を、美味しい美味しいと喜んで飲んでくれた礼の顔が脳裏をよぎった。あの指の怪我は、おそらく料理時のものだ。そして紺の家にいないのだから、自宅に帰ってお料理をしているのだろう。なぜか?
考えられる理由は二つだ。
ひとつは、僕に迷惑をかけないためだ。
研究室に紺たちが来た日、引き取るようにといった僕の声から、彼女もまた、紺やアシェッドと同様に、僕に迷惑をかけていたと判断したのだろう。タイミング的には濃厚な説だが、可能性として捨てきれないのは、もうひとつある。
ほかの男の家にいる可能性だ。
紺とミレイユの家の方角に住む人間は大勢いる。そして、中身を知らない人間から、礼は非常にモテる。本人が気づいていなさそうなだけで、死ぬほどモテる。これが事実だ。僕たち三人は、何度か礼の危険を回避した経験を皆持っている。だから礼に恋人ができることは、不自然ではなく、むしろいない方が不自然なくらいなのは間違いない。その彼氏が手料理好きで、やらせているもしくは、自発的にやっている可能性は?
――そっかぁ。彼氏ができたなんて幸せだ。ようやく礼にも春が来たのか。今後は少なくとも別れるまでの間、彼女の健康管理をしてくれるのだろう。
そう考えて僕は笑ったはずなのだが、気が付くと、そばにあった新聞を握りつぶしていた。音で気づいて呆然とした。今までの人生で、こんなことをしたのは始めてだ。読み終わっていたからいいけど。これは毎朝、朝食後に渡されるものだ。
ひとつめならば、健気でいじましいし、料理以外は上手くやれているようだから、料理をそれとなく教えてあげればいい。そう思うのに、どうしてこんなに寂しくて辛くて胸がズキズキするんだろう。
ふたつめもこれ以上ないくらい喜ばしいのに、そのはずなのに、どうして僕は、こんなに激怒しているんだろう。いらだちが止まらない理由は?
どちらの感情も、僕は経験したことがなかった。
僕はIQが高いと言われて生きてきたし、作り笑いも得意だが、それ以外は一般的な人間だから、一通りの感情は経験してきたと思う。そんな僕が、経験していない感情?
――そんなもの、恋愛感情しかない。
つまり二つ目は嫉妬だ。なるほど。一つ目は一つ目で寂しいとは言えまっとうな仮説であるにも関わらず、二つ目の可能性が頭から消えない理由が、やっとよくわかった。そう結論づけた時、研究室の扉が開いた。
「おはようございます!」
時計を見れば予想通りの時間、礼が入ってきた。