【5】




 母は、ほかの人間には自分で連絡するから、とにかく空音を連れてくるようにと私に言った。空音はごく普通の表情と態度で付いてきた。呼ばれた場所はオーウェンの家ではなく、父の実家の方で、そこには、母しかいなかった。精神疾患への偏見などない我が家族だが、なにか理由があるのかと考え(周囲の空音への対応に関して)、私は連れて行った。そして母と空音が出てこない間、一人で考えていた。何を苦にしたのだろう。……あの笑顔。まさか本当に、自分の外見と能力に自信がなかった? あの自信家が?

 待っていると、紺がやってきた。専門家は緑だから不思議だった。

「近くにいたの?」
「ああ、まぁたまたまフランスにいたから来やすかったというのはある。ただ、緑は何も知らないから、俺が来た。父さんもすぐに来る」
「知らないって、どうして?」
「一酸化炭素中毒の方も知らせてない。幸い報道規制がしかれていたしな」
「だからどうして!?」
「ちょっとな。それより、『あきた』とか『満足した』とか『面倒になった』というようなことを、空音は最近言っていなかったか?」
「!」
「言っていたんだな。その前後に、なにかなかったか?」

 私は紺に、空音がコンプレックスを抱いていている可能性について交え、ありのままに話した。すると紺は、何度か頷いた。

「安心しろ、佳奈のせいじゃない」
「そういうことじゃなくて、空音は死んでしまうところで――」
「父さんが十回、実奈が五回、俺が三回、青が二回止めてる」
「――え? じゃあずっとうつ病だったの? そんな素振り全く……薬だって……」
「うつ病じゃない。突発的に自殺を図る。これは、俺の母方の多くが持つ特徴で、俺の母も母方の祖父も、同様の過去がある」
「嘘でしょう? あの伯母様が!?」
「父と結婚してから収まったそうだ。あるいは俺達が生まれてから。祖父は母が生まれた時から。わかっている範囲で言うと、半年以上前から悩みを持っているが、本人はそれを自覚できない。気づいていない。抑圧とは違う。本当に気づいていないんだ。そして気づかないままある日突然、面倒になった、あるいは幸せだから満足したといった理由で死を決意し、三日以内に実行する。周囲に訴えることはなく、多くの場合自殺と気づかれないように事故死を装い、確実な方法で実行する。うつ病とは全く異なる、一つの傾向だ」

 そこで私は、紺からアレについて教えてもらった。
 全く知らなかった。

「――ということだから、感染症の研究に出て、そこで死にたくなった場合、おそらくためらうことなく罹患して、事故を装って死ぬ。それをされれば、俺達には、いいや、世界中の誰にも救命は無理だ。だから、行かせられない」
「感染症の研究自体をさせるべきではないわ」
「だが、それを取り上げたら、おそらくその時点で自殺する。事故死を装いすらしないだろうな。それに、空音がいなければ、あの病は現在のところ他の誰にも対応できそうにもなさそうだ」
「……それは、そうね」
「空音には確実に熱意も才能もある。感染症研究では世界的なレベルと言える。しかし本人はそれに気づいていないし、外見も、佳奈が言うとおりだ。ずっとあいつは劣等感を持っている。ネガティブすぎて自分に自信がない。だから、強がってああいう性格になっているんだろうな。これは自然な防衛機制だ。そして周囲は、実力を知っているから、ただの自覚ある自信家にしか思わない。それが現実だ。一番俺たち兄弟姉妹の中で、繊細でネガティブで気が弱いのは空音だ。外面的に誰も押さないが、押しにも本当は非常に弱い。それが本質だから、母や祖父よりも自殺リスクが高すぎる」

 その日、母と空音が出てきたあと、空音は紺と食事に出かけた。
 私は母を質問攻めにした。
 翌日、私は、一週間ほどとりあえず空音が休暇を取ると決まったため、空音と二人で研究室に、残処理に出かけた。ひと気のない時間だ。絶対に目を離さないように言われていた私は、もちろん同意した。そしてトイレに行きたくなったので、空音に念押しした。

「すぐに戻ってくるけど、絶対に妙な真似をしないでね」
「わかってる。ここで一体どんな妙な真似ができるというんだ? ビタミン剤を打って待ってるから、さっさと行ってこい」

 空音は度々ビタミン剤を使用しているので、頷き私はトイレに行こうとした。
 だが、ふと考えた。
 ――注射器は、自殺可能な代物だ。
 振り返ったとき、空音はビタミン剤の小瓶を机に置いていた。
 私は知らんぷりで、扉が閉まる音を聞いていた。
 蓋を緩めた空音は、しかしながら注射器をそこに入れることはなく、袖をまくって、直接注射器を当てた。空気注射をするつもりで、確定だ。

「心臓が停止するわね」
「!」

 私の声に、空音が注射器を取り落とした。
 この時、私の中で、ブツンと何かが途切れた。