とりあえず俺が、船を見て思った感想は――……船? である。そこにあるのは船と呼ぶのが本当にふさわしいのか。まぁ船なのだろうけれどもな、ホテル……いいや、一個の街がそこにはあったのだ。俺の一番近いイメージは天空の城だ。ラピュタだ。ジブリの方のな。プールやカジノが内部にあるのは想像通りだったのだが、温室の域を超え専属庭師が多数いる大庭園がいくつも中にあるとは考えてもいなかった。海を楽しむためにきたような気もするが、いいや、もはや何も言うまい。

 事前に大した荷物は必要ない、和服だけ持ってきてくれと念押しされた理由がよくわかった。全て売っているのだ。

 俺と存沼の部屋は七階にあった。個人的に船室とは地下にある印象にあったのだが、それはただの印象に過ぎなかった。この階は、シュガール(偽名)家が買い上げているのだという。ここで集合し、あすの朝食時に皆と顔を合わせる予定になっている。

 部屋の中に入り、スーツケースを壁のそばに寄せながら、俺はカーテンが空いている窓を見た。扉の閉まる音を静かに聞き、存沼に振り返ろうとした。が、後ろから抱きしめられてそれはできなかった。

「ずっとこうしたかった」

 力強い腕とそのぬくもりに、思わず頬が熱くなりそうになる。もう三ヶ月も経つというのに、まだ慣れない。こうされるのが久しぶりだからなのかも知れない。ただどちらでもいい。やはり存沼の温度が俺は好きだ。しかしゆったりと立って抱き合っている場合ではない。荷物の整理もしなければならないし、一応各部屋の中も見ておきたい。おそらく一生に二度と見ることはないだろうからな。念のため酔い止めは飲んできたが、今のところは一切揺れを感じない。だがこれからはわからない。

 見たところ扉は五つだ。一つ目は今入ってきたエントランスで、このリビングに通じている。英語で書いてあったので、浴室とトイレも直ぐにわかった。残りの二つの扉は、俺と存沼のそれぞれにあてがわれた私室だろうな。そう考えながら、今度こそ振り返ることにした。

「マキ君、荷物を整理しよう」
「ああ」

 あっさりと存沼が腕を離してくれた。安堵しつつも少しだけ名残惜しい。存沼が右側の部屋のドアノブを握ったので、俺は左を握った。そして目を見開き硬直した。

 笑みがひきつるというのは、こういう事を言うのだろう。菩薩よ、海外でも頼んだからな!

「入らないのか? 誉」

 すると耳元で、囁くように存沼が言った。片腕を俺の首の下に回している。意地悪そうな笑み混じりの吐息をついている。瞬時に真っ赤になりそうになりながら一歩後ずさろうとして、存沼の体のせいで失敗に終わった。そこには――SMルームとしか形容のしようがない部屋が広がっていたのだ。天井からぶら下がっている銀色の鎖、革の首輪。不穏な椅子。壁際の木馬……机の上に、開いた状態で置いてあるトランクの中には大小さまざまな大人の玩具。用途不明なものも多い。なんだこれは!

「なんなら使ってみるか?」
「……遠慮しておくよ」

 俺は悟りを開こうと試みた。片手で存沼の手に触れ、もう一方の手が築こうとする印相は震えつつこらえ、静かに笑うことにしたのである。

「西園寺が試作品室と寝室があるといっていたから、ここは試作品室だな」

 なんの試作をしているんだよ! 未成年だぞ、まだな! どんどん破廉恥な会社になっていくようで俺は末恐ろしい。確かに設定にはベンチャーとしかなかったが、だからといって大人の玩具専門で行く必要はないのだからな。せめて掃除機のままに、そう、家電のままにしておいてくれ。あのふたりが作り出す芸術的な玩具など恐ろしすぎる。

「ベッドはひとつでいいかと言われたから、ひとつにしておいた。すべて手配してやったからな。感謝しろ」

 存沼はそういうと俺から離れて、さっさと隣の部屋へと入っていった。

 ――え? ま、まぁ感謝しないことはない。俺は二人部屋だと聞いた直後あたりから、稽古で忙しくなり、放課後はほとんどサロンにも顔を出さないで家にこもっていたのだ。家庭教師の先生と弟とな。だから存沼にまかせきりだったのは本当だ。ただベッドはひとつじゃダメだろう。俺たちは二人いるんだぞ?

 慌てて隣の部屋へと行くと、そこにはそれは見事なダブルベッドがあった。シーツひとつとってもその高級感と言ったら、やはりその辺のホテルとは比較すらできないだろう。それにこの規模ならば、二人どころか八人くらい眠れそうだ。だがそういう問題ではないのだ。存沼と同じベッドで眠る……! 二人きりで……! 意識するなという方が無理である。俺と存沼は、今はもうそういう関係なのだから。

 赤面しそうになりながら、俺は黙々と荷物を整理した。存沼は物憂げな顔で時折窓の外を一瞥しながら、堂々と窓側に位置どっている。俺だって窓側が良かったんだからな。まぁ同じベッドだし、いつも同じ側に寝なければならないということもないだろうから、海を眺めながら眠るチャンスはあるだろう。

 その後俺たちは、まだ夕食までにも時間があるし、船内を見てまわろうという話になった。

 客室はさすがに飛ばしたが、途中からはエレベーターではなくあえてエスカレーターで進む。続々とこの港から乗り込む人々が上階へと向かっていた。俺たちが行くのはその逆方向で下側。デッキにでも行ってみようかという話になったのである。

 楽しみだ。純粋にそんなふうに思いながら、俺は途中でお手洗いに立ち寄り、そして戻ってダ・ヴィンチ先生に手渡さなければならないだろう絵筆の準備に取り掛かった。ただトイレの帰りを待っているだけだというのに、存沼は囲まれていたのだ。それはもう大勢の美女にな! その上、どこの国かはわからないが、いろいろな国の言葉で何か話している。

「Да ли имате ?убавника ?」
「добро」

 どこの国の言葉だろう。なんて言っているんだろう。それよりも和泉みたいな色の髪をした美人や、あきらかにアジア人だと分かるお姉さまなどなど、四・五人に囲まれている存沼よ……美とは世界各国の共通認識ではないと俺は習った覚えがあるぞ。おい、どういうことだ。羨ましいんだからな! もちろん、俺だって囲まれてみたいのだからな! 断じて存沼を囲んでいる女性たちに嫉妬などしていないんだからな! そこまでいったら末期だと思うから俺は必死で自制した。見えぬ絵筆を握り締める心地で、指をギュッと握る。とりあえず俺の帰還を知らせよう。存沼にはこちらに気付いた様子が全くないのだからな。完全に会話に夢中になっている。酷い奴だよな、本当!

 必死で俺が平常心を心がけながら歩み寄ろうとした、その時のことだった。

「??????」
「っ」

 俺は角から走ってきた人と激突した。思わず床に座り込んだ。驚いて顔を上げると、あちらは尻餅までついていた。怪我はなかっただろうか?

「え、あの――Do not have your injury ?」
「???? ?????……」

 呆然としたように、相手が俺を見ている。俺は菩薩を召喚した。
 ダメだ、英語が通じない。どこの国の人なんだろう。こういう時こその存沼だろうが! 早く助けに来い! そう念じつつ、しかしながらまじまじと見られているため、視線が外せない。存沼の姿が確認できない。仕方がないので、俺は頭を深々と下げてから、手を差し出した。ボディ・ランゲージに打って出たのだ。

 そうしながら相手を観察する。ひと目で見れば、アラブ人だ。それも大富豪と呼ばれる人々のうちのひとりだろう(そうじゃなければ乗船自体できないのだが)。白い服に、豪奢な意匠の服を着ている。カンドゥーラだっけ、トーブだっけ、どちらにしろ、アラブだろう。忘れてしまったが、UAE方面だ。そして見まごうばかりの金髪をしている。神々しい。転んだせいで帽子が落っこちたため、さらさらの長い髪が見える。瞳は黒い。そして彫りはそんなに深くない。服装が違えば、とてもアラブ感が無い。ただとにかく綺麗な顔をしているということはわかった。周囲で言うならば、三葉君や和泉に匹敵するくらいに綺麗だろう。

「……――日本の方ですか?」
「え」
「お辞儀とは大変素敵な文化ですね」
「ありがとうございます」

 その時実に流暢な日本語が帰ってきたものだから、一気に肩から力が抜けた。

 相手は俺の手を取ると、柔和な微笑を浮かべた。心が温かくなる。この手の柔らかな表情をする人間は、俺の周囲にはいない。

「母国で日本語を専攻していました」
「そうですか。お怪我はありませんか? ぶつかってしまい申し訳ありませんでした」
「そちらこそ。ああ、だけど本当に――……」

 うっとりするような顔でつぶやいたその綺麗な人は、なぜなのか両手で俺の手を握ると詰め寄ってきた。笑顔を浮かべたまま首をかしげるのだが、どんどん詰め寄ってくる。近い! そう言いたくなったが、いきなり他国の人にそんなことを言ったらなんだか悪い。そういう文化なのかもしれないしな。そう考えていると、ついに耳のすぐ下側に唇が近づいてきた。――え?

 ……キスされそうになっている? そんなまさかな。硬直しそうになった瞬間、後ろから強く抱き寄せられて、俺はのけぞった。

「誉、何をしているんだ?」

 存沼のその声に、全身から力が抜けて、俺は大きく息を吐きそうになった。本当、存沼という言語チートがいてくれないと、海外では不安すぎる。その存沼の腕に手をかけて、俺は立ち上がった。

「ありがとうマキ君、ちょっとぶつかって――……」

 顔だけで振り返った俺は、再び菩薩を召喚しなければならなくなった。存沼が百獣の王の顔をしていたからだ。末恐ろしい。背筋を悪寒が這い上がる。存沼がたった俺の体に未だ片腕を回している。恥ずかしいので離して欲しいのだが、鬼気迫るその緊張感ある表情に、俺は何も言えなくなってしまった。鋭い眼光を放ちながら、目を細めて、存沼は、俺がぶつかった相手を見据えている。

「「「???? ????? !!」」」

 その時、複数の黒服集団が走ってくるのが見えた。するとはっとしたかのように、綺麗な人(以外になんと呼べばいいのだろうか)は立ち上がり、微笑して俺たちをみた。

「後でゆっくりと会いに行きますね」

 そして走り去っていった。その姿が消えたところで、珍しく深々とため息をついてから、存沼が俺を離してくれた。だが未だ獅子の顔をしている。

「会う約束をしたのか?」

 冷たい声に俺は泣きそうになりながら、小さく首を振った。なぜ俺が悪いみたいになっているというのだ。

「国名を名乗ったか?」
「え、うん……」
「日本人客は俺たちしかいないと西園寺が言っていたから直ぐに特定されるだろうな。誉、俺がいないところで勝手に動くな」
「……僕はなにかまずいことをしてしまったかな?」
「あいつは王子と呼ばれて、探されていたぞ」
「え」
「ただでさえ誉は目をひくんだから気をつけてくれ」
「僕、何かおかしい? 日本人ってそんなに目立つ?」
「違う。綺麗だからだ。これ以上心配させないでくれ。行くぞ」

 さらりとそう言われて、俺はしばしの間歩き出した存沼をポカンと見ていることしかできなかった。え? なんだって? 心配……は、大変申し訳ない、が、若干嬉しい。違う、その前だ。なに? なんだと? 綺麗? 俺が? その言葉を認識した瞬間に、頬が火照りだした。存沼よ……口説く手法まで磨かなくていいのだからな! そしてそれは男相手に使うべき言葉ではないのだからな!


 そうして夕食は部屋に運ばれてきたものを食べた後、本格的に夜がやってきた。

 同じベッドに入った俺たち――ではあるが、存沼は窓の側を見て寝ている。俺の方を見ているわけではない。癪なので俺もドアのほうを向いて眠ることにした。胸がドキドキしているのは気のせいだということにする。この状態がもう三時間以上続いているのだ。存沼はピクリともしない。やつの寝相はいい。それはどうでもいいのだが……ああ、これでは俺だけが意識しているみたいではないか……。なんだかそれも嫌なものである。

 そんなことを考えながら体の向きを変え、俺は存沼の大きな背中を見た。昔は俺とそれほど変わらなかったのに(誇張)、今では全然違う。気づくと俺は、存沼の背中の服をギュッと掴んでいた。

「――眠れないのか?」

 すると一拍おいてから、存沼の声が帰ってきた。耳障りの良い低い声だ。

「ごめん。起こしちゃった?」

 俺がそう言うと、存沼もまた俺の方に向き直った。そして――ぎゅっと俺を抱き寄せた。

「っ」
「お前が隣にいて、まともに眠れるはずがないだろう」
「……」
「ただ誉は疲れているだろう? ゆっくり眠れ。ずっと俺がついているから」

 その声に、胸がドクンと鳴いた。存沼の気遣いが嬉しくて、思わずその腕に体を預ける。
 そのまま眠気がようやく訪れたので、俺は熟睡した。