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帰り道、存沼の一歩後ろを歩きながら、俺は完全に油断していた。
ここが船だということを俺は忘れていたのだ。
だから突然揺れた瞬間息をのんだ。
「誉!」
存沼が振り返った瞬間、俺は最悪にも真横にあった階段側へと体勢を崩した。無駄に階段は広いため、手すりに手が届かない。ああ、落ちる。そう覚悟し目を伏せた時だった。
俺は誰かに抱きとめられた。柔らかな衝撃に安堵の息をつきつつ、ゆっくりと顔を向ける。
すると手すりをつかみながら俺の腰を抱いた、ひと目でアジア人だと分かる青年が立っていたのだ。黒い髪に少々釣り目の鋭い瞳。なによりも、チャイナ服を着ていた。
「大丈夫か?」
「は、はい」
「日本人か――……そこにいるのは確か、存沼財閥の……」
俺を助けてくれた人は、存沼を一瞥してそんなことをつぶやいた。
知り合いか?
首をひねりつつも、俺は体勢を立て直した。するとニヤリと笑って、青年が俺に向き直った。そして――腰を抱き寄せられた。
「怪我がなくて何よりだ」
「あ、ありがとうございます」
「――没有要提交一」
離して欲しいのだが、青年の手にはどんどん力がこもっていく。俺は動けなかった。
「大丈夫か?」
存沼がこちらへやって来るとなりから、西園寺が顔を出した。
呆然としていると、俺は存沼に抱きしめられる形で、青年の腕から抜け出すことができた。
「――っ、黄こうか」
「久しぶりだな西園寺。友人か?」
「ああ」
西園寺と、黄と呼ばれた青年が話し始めた。彼は西園寺と同じぐらい背が高い。
俺はといえば、存沼の腕の中で呆然としていた。まだ落ちかけて恐怖が冷めなかったというのもある。しかしどちらかといえば、存沼が王者の気迫を醸し出しながら、黄さんを見ているのが気になった。
「知り合いなの?」
「いいや。誉に長いこと触っていたから気に入らなかったんだ。助けてくれたことには感謝するけどな」
小声で聞いたところ、存沼からはそんな言葉が帰ってきた。まったく……俺はそんな場合ではないのに照れてしまいそうになった。海外に来て開放的になっているのかもしれないな。特に存沼がな。最近すごく甘い言葉が多い。いちいち動悸が激しくなる俺の体よ、自制しろ!
それから西園寺が、黄さんを指で奥に促した。
そして階段で抱き合っている(!)俺たちのところに歩み寄ってきた。
「気をつけたほうがいいな」
「どういう意味だ?」
西園寺の声に、存沼が眉をひそめた。眉間に刻まれたシワが本当に怖い。存沼の怒っているところを俺は基本的に見たくない。心臓が止まってしまう。声が険しかった。
「あいつは華僑だ。レイズに用事らしいから通したけどな、目をつけられるとなかなか狡い手を使ってくる。油断するなよ」
西園寺はそれだけ言うと踵を返した。俺と存沼も階段を上りきり、再度部屋へと向かう。
どちらともなく大きく息を吐いたのは、扉を閉めてからのことだった。
ふと思う。西園寺はああはいったが、助けてくれた。俺にはそんなに悪い人には思えなかった。だが、基本的に存沼も含めてたいてい俺の周りの皆はやり手である。別にその手腕くらい、俺もずば抜けていても良かったような気がする。ここでも俺は当て馬なのである。出し抜かれることはあっても、出し抜ける試しがない。切ない。そんな思考が途切れたのは、存沼に抱きしめられたときのことだった。
「心配した」
「ごめん、まさかいきなり揺れるとは思わなくて」
「そうだな……本当に無事で良かった。助けてやれなくて悪かった」
「マキ君が謝ることじゃないよ」
足がもつれた俺と、横にあった階段が悪いのだ。波も悪いか。しかしやはり揺れるときは揺れるのだな。船は船なのだ。
「――このあとどうする?」
それはそうと、俺たちはティタイムまで暇なのだ。
昼食には、どこかのレストランに入ってみようと俺は思っているのだが、それまで何をしよう。やはり船内の散策がいいだろうか? 存沼はどうしたいんだろう?
「そうだな。誉はどこか行きたところはあるか? 連れて行ってやる」
「マキ君に任せるよ」
「俺は誉ともう少しゆっくりしたい」
「じゃあ少しこのお部屋で休もうか」
まぁまだ一日目だし、気合を入れて動き回らなくてもいいか。
頷きながら俺はソファに座った。すると存沼がコーヒーを見た。それから俺を見る。これ淹れろということだ。自分で淹れろ! そうは思いつつ、俺は立ち上がった。納得したように頷き、存沼はソファに陣取った。
こうして二つ分のコーヒーを手に、俺もソファへと戻った。
だが考えてみると、何もすることのない状態で、こんなふうにゆっくりと存沼と過ごすことが出来るのは、随分と久しぶりだ。話したいと思っていたことが俺にはたくさんあったはずなのだが、いざ考えてみると出てこない。
「誉、言っておきたいことがある」
「何?」
思案していると、存沼の側から話を振ってきた。
「俺以外を見るな」
「え?」
そんなことは不可能である。存沼を見れば、自然と周囲の壁や観葉植物だって視界に入る。首をひねっていると、ため息をつかれた。
「お前の恋人は誰だ?」
「マキ君だけど……?」
「ほかの男にも女にも触るな」
「えっと……」
「この俺を嫉妬させるな」
不機嫌そうな顔で淡々と言い切った存沼を見て、俺は瞠目した。嫉妬。え?
悪いが嫉妬したのは俺の方であり、ここまでの間に、存沼が俺に嫉妬する余地などどこにもなかっただろうが。言いがかりである。なんだ? 八つ当たりか?
「昨日から綺麗だと言われてキスされそうになったり、さっきはなんだ、犯したい顔をしている? 誉、お前には隙がありすぎるんだ」
「待って、何の話?」
「お前も少しは英語以外も身につけろ」
存沼はそういってあからさまにため息をついてから、コーヒーカップを手にとった。
言われている意味が分からず、俺は静かにコーヒーを飲む。
「学園でもよく思う。どうしてそんなにお前は好意に鈍いんだ」
「え」
悪いが俺は鈍いつもりはない。そもそも、ここでいう好意が指すのは恋愛感情だろう? 確かに学園ではこの前もヴァレンタインショックが恒例行事のように訪れたが、俺は繰り返すが男を相手に……存沼を除いて、心動かされることはないのだ。存沼だけが悔しいことに特別なのである。そして目立たず平凡に生きているこの俺には、存沼以外に好意をよせてくるような人物はめったにいないのだ。あれか。これが恋に盲目という状態か。
「マキ君は考えすぎだよ」
だよな?
「……誉。本当に気をつけろ。頼むから」
「それを言うならマキくんの方こそ」
昨日だって美女に囲まれていたのはお前だろうが! と言いそうになったが俺はもちろんやめておいた。恥ずかしいからな!
そんなやりとりをして、俺たちは昼食までの時を過ごした。