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決してホームシックでもない。ただ家族の声が聞きたかっただけなのだ、日常の。
無意識に受話器を取ったまま、電話設備に向かう。すごい高額らしいんだよな、これ。この際お正月貯金から少しだけ……。そんなことを考えてから、俺は時差を気にすることも忘れて、無意識に番号を押していた。
『もしもし誉かい?』
数コールでつながった電話の先からは、穏やかな父の声が響いてきた。
直ぐに俺だと分かってくれた。それだけでも安心して、泣いてしまいそうになった。俺の涙腺はもう、緩みきっているのだ。
「お父様」
必死で声の震えを押し殺しながら、頷きを込めて名を呼んでみる。
正直父の声にホッとしている俺がいた。
きっとこれから船の生活やパーティはどうかと聞かれて、俺は楽しいと言って笑うんだろう。頭の中でそんな算段をしていた時だった。
『なにかあったのかい?』
「え?」
『声に元気がないよ』
帰ってきた意外な言葉に息を飲む。どうして、どうして? どうしてわかったんだろう。
しかし俺はもう我慢できなかった。気づけば思わずつぶやいていた。無意識だった。
「ちょっと……っ……何人か苦手な人がいて」
『具体的には何人だい?』
「二人」
『名前は?』
「一人は王子様なんだ。もうひとりは華僑の人で」
『誉。名前を』
「カダールと黄」
『酷いことをされたと思ってる?』
「……うん」
『そう、辛かったね』
思わず父の声に泣きそうになった。電話を切ったあと、一人でひとしきり泣いてから、本当に俺は泣きつかれて寝てしまったのだった。
それからよく丸一日。
俺はただ寝台に寝転がっていた。何もする気が起きなかった。
ああ、平和な日本に帰りたい。そればかりを思っては、時に海を見る。
起きだしたのは、二日目になってからのことだった。
今夜は、各国の若年層が民族衣裳をまとって参加する交流パーティがあるのだ。俺は最低限それには参加しなければならない。だからあれほど和服を持って来いと念押しされたのだ。未だに気だるい体を引きずって俺は朝食の席へと向かった。
在沼は毎晩俺を抱きしめて眠ってくれるけれど、いつも朝は俺よりも早い。そんな趣味知らなかったが、飴をなめながらクラシックを聞いているのだ。その爽やかな音の中で目を覚ますのは決して悪い気分ではないのだが……今でも目を伏せると、嫌なことが色々と蘇る。
「起きたか。朝食が届いているぞ」
「うん」
「まだ食欲が戻らないのか?」
「そんなことはないよ」
そうはいいつつも、俺の今の胃には重そうな豚ブロックの姿に、目が自然と細くなってしまった。お味噌汁が飲みたい。多分この船であれば、言えば出てくるだろう。しかしわざわざそれを頼むほどの気力もない。
俺が着席すると、在沼が新聞を置いた。何とはなしに見れば、日本の新聞だった。
一面は、【外交断絶!? 日本側からの拒否は異例】という見出しだった。今俺はグローバルなニュースなど見たくもないので、その下の方を見る。すると我が家の商品が載っていた。【ポテトチップス撤退!?】と書いてあった。どこからだろうか。もういっそ日本国内展開でいいんじゃないのだろうか。俺は将来、海外と渡り合う気は一切失せたからな。
「三面を見てみろ」
「どうして?」
「お前の父親が出ているぞ」
なんだろうと思ってみてみると、【美食家がゆく】という写真付きコラムで、今回出かけた美食家が俺の父親だったのだ。行き先は横浜中華街。小さな豚まん屋さんの前で、小柄なお婆ちゃんと笑顔で写真に写っていた。顔を見ただけでなんとなくホッとした。
「やっと笑ったな」
「え?」
「ずっと笑わなかったから、心配していたんだ」
「僕、そうだった?」
「ああ。やっぱり誉は笑っている方がいい」
在沼はそんな事を言うと、朝食を食べ始めた。俺も胃に優しそうなものから手を付ける。
純粋に美味しいと思うのだ。気分がすぐれないだけでな。
あんなことされなければ、絶対にこの船旅は楽しかったと思うのだ。
それもこれも、あああ、考えてみると油断していた俺のバカ!
「在沼の会社の方はどうなったの?」
「誉は気にしなくていい。あれは俺の仕事だ」
「うん、そうだね……」
確かに聞いたところで、俺に何かができるわけではないのだ。
そんな自分の無力感に胸が辛くなる。
在沼には助けられてばかりだ。俺だって、在沼の力になりたいのに。
やりきれない思いに身を絡め取られそうになる。
そんな感情をそのままに見た在沼は、至極いつもどおりで、だからこそやるせない。
せめて罵倒してくれたら、気持ちが軽くなったかもしれないのにな。
俺は――在沼が本当はこんなに優しいやつだなんて知らなかったのだな。
再び倒壊しそうになる涙腺を、俺は気づかれないように天井を見ることで、涙を抑えた。
ああ、それでもまだ船旅は続くのだ。不吉だが、いっそ沈没してしまえ!