【三】






 月が昇って、暫くが経った。約束の時間を過ぎても、燃燈は来ない。

「また、残業か。連絡の一つもして欲しい……なんて言ったら、面倒だろうなぁ」

 逆の立場だったら面倒だと、雲中子は考えた。

「いいや。言って欲しかったぞ」
「っ」

 その時、後ろから不意に声がかかったものだから、驚いて雲中子は息を飲んだ。反射的に振り返ると、そこには燃燈が立っていた。気配が、まるで無かった。確かに燃燈は実力ある仙人ではあるが、雲中子はこれまでに、彼の来訪に気づかなかった事などない。だから純粋に驚いていた。

「手のかからない猫のようだったからな」
「燃燈?」
「その上、懐いているようにも見えない。何を考えているのか不明。そのくせ寝台では、私の腕の中にいる」
「……?」

 不可思議な燃燈の声に、雲中子は首をひねるしかない。

「え、っと、いつからそこに?」
「雲中子、この研究はやめておけ。その宝貝を作成してはならない理由だが、倫理以外の別の理由がある」
「――え?」
「その宝貝の研究理論は、禁光?という、あるスーパー宝貝に、根底部分で通じるものがある。存在が認められ、許される時期が、今ではない宝貝の一つだ」

 突然、燃燈に言われたものだから、雲中子は瞠目するしかない。上手く意味を理解できなかった。

「今、私はそのスーパー宝貝の力を利用して、未来のために存在しては困る宝貝の研究を停止させるために、ここに来ている。その未来が来たならば、改めて研究を再開し、進めれば良い」

 呆然としたまま、雲中子はそれを聞いていた。

「つまり、始祖の技術に近すぎる。この段階で崑崙山に、その技術がある事を、完成したならば、歴史の道標は見過ごさないだろう。それと――雲中子が言うとは思えないが、私に会った事は他言無用だ」
「……」
「あとな、もう少し我が儘に、甘えて見せても良いんだぞ? 寧ろ、もっと甘えてくれ」
「……え?」
「面倒どころか、可愛くさえ思う。昔も、そして今も、な」

 燃燈はそう言って口元に笑みを浮かべると、天井を見上げた。

「さて、私はそろそろ戻る」
「燃燈、君の話を信じる根拠が――」
「全てが終わったら、神農の居場所を聞くと良い。終わりとは、望む未来の始まりだ。それがいつなのかは、その時が来れば自ずとわかる」
「そうじゃなくて……」

 結局こちらの聞きたい事を推測できない部分が変わらないから、目の前にいるのは確かに燃燈らしいと雲中子は判断した。聞きたいのは、本当に面倒ではないのかと言う部分だったからだ。その時の事だった。

「ああ、可愛いと思っている話の方か?」
「!」
「もっと派手に照れて見せてくれていたならばと、今も思う。お前の感情の機微を、その表情から解読できるようになるには、非常に時間がかかる。雲中子、可能な限り言葉に出してくれ。言ってくれ」

 そう口にして笑うと、燃燈の姿がかき消えた。狐につままれた気分で、しばしの間呆けてから――思わず雲中子は赤面して、利き手で口元を覆った。

 そのまま暫く立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。

「雲中子?」
「っ、あ……」

 聞き慣れた声――そして、いつもと同じ気配。紛れもなく、本物である様子の燃燈に振り返り、雲中子はポカンと口を開けた。こちらが本物だとするならば、先ほどの来訪者はなんだと言うのか。あちらもまた燃燈に見えた。燃燈が自分にはわからない仕事をしているのは、雲中子も理解している。雲中子の研究を燃燈が理解していないのと、同じような事だ。互いに理解は出来ない。

「どうかしたのか?」
「……ううん。なんでもないよ。遅かったね」
「急な仕事を元始様に押し付けられてな」
「そう」

 必死で頷き、動揺を抑えながら、雲中子は酒の用意をする。そんな雲中子の様子に、燃燈が首を捻った。

「雲中子?」
「え? な、何?」
「――怒っているのか?」
「別に。燃燈が予定より遅くなるなんて珍しいことじゃないと思うけどねぇ」
「そうではない。研究の可否の件だ。公私混同はしないんじゃなかったのか?」

 雲中子は息を飲みかけた。先ほどのスーパー宝貝の話を思い出す。あの話が嘘だとは、何故なのか思えなかった。だから、来たるべき時を待とうと考えていた。よって、怒りなど本当に無い。怒ってなどいない。

「していないよ。一体、どうして?」

 何故燃燈がそのように言うのか考えながら、雲中子は燃燈の前に酒を置く。するとそれを一瞥しながら燃燈が言った。

「いつもは私が来る直前に、酒の肴を用意してくれていたと思うが」
「――え?」
「今日は卓上に何も無い。残念だ。雲中子の手料理を楽しみにしていたのに」

 わざとらしく嘆くように告げた燃燈を見て、雲中子は体を硬くした。キッチンと冷蔵庫には、準備済みのものがある。しかし今日は直前に呆然とする出来事があったから、現在いるリビングに運ぶ暇がなかっただけだ。だが、用意していたと知られる事も、そして今までにも気づかれていた事実も、どことなく気恥ずかしい。

「わ、私の料理に、危険を感じるんじゃなく、楽しみを感じるなんて、そ、その……」

 上手い言葉を探そうとする。しかし、何も出てこない。

「まぁ良い。料理よりも雲中子の方が欲しいからな」

 そのままさらりと燃燈に言われて、雲中子は両手で顔を覆った。無性に羞恥にかられて、燃燈を見ていられなかった。だから目も閉じたし、逆に朱くなっているだろう己の表情も見られたくなかった。