U:スケープゴートのSpooky
晩夏――一度目の殺界が訪れた。白を基調とした居室で、雲中子はそうした外界の喧噪など素知らぬふりで、一人湯飲みを傾けていた。空調が一定に温度を保っている事もあり、汗一つ見えない。首の見えないいつもの白い道服姿で、長袖を揺らしている。玉柱洞のこの室内だけは、何の変化も感じさせない。
しかしその頃、崑崙山全体では、様々な喧噪が発生していた。
殺界と名付けられはしたが、各地で一斉に、Ω性を持つ者が発情期を迎え、体が変化した。その際に放ったフェロモンに当てられたαも数知れず。元々恋情があった場合もあるだろうが、そうでなくとも一斉に解放された欲望に戸惑う者は少なくなかったはずだ。
気付いたら番いになっていた、子が出来ていた――そんな事例が後を絶たない。
雲中子が危惧した通りの結果が、崑崙山全体で問題となった。
反面、当初の目的の通りで、仙人骨を持つ子は多く産まれてきた。いいや、正確には、十割が仙人骨を持っていた。αとΩの数もほぼ同数だ。
だがこれらの結果を、雲中子は知らなかった。既に己の手を離れている研究であるから興味を欠いたというわけではなく、最初から強い興味を抱いていなかったと言える。
玉柱洞に人々が訪れる場合、それは受胎したからではなく、極度の困難をつきまとうような妊娠・出産時ばかりとなり、一般的な場合は、終南山へ足を運んでわざわざ母胎を見て欲しいという依頼をする者もいない。
と――いう事には、一つ理由があった。
まことしやかに崑崙山で、ある噂が囁かれるようになったからだ。
『雲中子が第二性別を生み出した』
元々研究を命じられたのは、確かに雲中子である。しかしそんな事実は無い。だが噂には尾ひれがついて行く。その上、どんどん拡散されていった。
この頃から、崑崙山では、『Ωは劣等種である』というある種の差別的な考えも同時に広まった為、特に子を宿した中でそれが望んだものでは無かったΩは、雲中子を恨んでさえいる場合があった。
『己を劣等種のΩにした雲中子が許せない』
『雲中子が第二性別など生み出さなければ、乱暴される事も無かった』
Ωと判定された仙道の考えとして、別に珍しいものではなく、事実は異なるが真理だとしてこれらの憎悪が囁かれるように変化した。
同様に望まずΩの発情に巻き込まれたαである仙道もまた、雲中子を憎んでいる場合がある。
だが、最も雲中子を疎んでいるのは、仲を引き裂かれた恋人同士だ。
『雲中子がαとΩでなければ番いになれないなどと発見しなければ、恋人同士でいられたのに』
無論、番いという関係性は存在する上、子を成せないのは事実だが、それらは恋愛感情を制限するものではない。
けれど確固たる事実として、突如として変化した仙人界や、殺界という現象に戸惑いや不満を抱く仙人や道士にとって、雲中子は『憎むべき相手』となった。分かりやすい標的だ。完全にスケープゴートにされた雲中子は――しかし反論をする事は無かった。
当初こそ直接的な抗議が届く事もあったが、他者との関わりを遮断する事を、雲中子は選択した。わかり合う事は選ばず、洞府にこもる。仙術や宝貝を駆使しして、他者が終南山へと入る事を困難にした。
雲中子への怨嗟を産んだ噂の出所は――玉虚宮だ。雲中子がひきこもる決意を固める前、おしゃべりな申公豹が気まぐれに訪れて、笑って教えてくれた結果だ。
その直後、一度道徳が顔を出した事がある。
「本当にそれで良いのか?」
「混乱の収拾のために必要なデマなんだろう?」
「でもお前は――」
「道徳。私に肩入れして君まで糾弾される姿を見たいとは思わない。人の噂も七十五日というじゃないか。いつか状況を崑崙の仙道が受け入れた頃、またお茶でも飲みにおいで」
それが雲中子が他者を洞府に入れた最後だ。
Ωの妊娠・出産に関しては、終南山の入り口付近に、専用の研究所を設けて、それより先には決して人をあげなくなった。当初は雷震子も真偽を問いに――というより心配して訪れていたが、雲中子は愛弟子すらも洞府には入れなかった。純粋に、巻き込みたくなかったからだ。
結果、平穏が訪れた。
外界では、『変人』として雲中子の名前だけが一人歩きするようになる。
実際には、雲中子は比較的常識人で倫理観を持つのだが、それを知る者は次第に減り、信じる者も減少していき――雲中子といえばSpookyであるというイメージが確固たるものになっていった。
「おかしいなぁ」
雲中子は、今年も訪れた夏の気配を窓の外に感じながら、ポツリと呟いた。
「私は人間が嫌いでは無かったはずなんだけれどねぇ。研究対象にする程度には興味があったと思うんだけどな」
現在。
他者に興味を抱く事が出来なくなった。ここの所は、バース性に詳しい仙人も増加し、一線を退いていると言える雲中子よりも、臨床経験が豊富な医学専門の仙道も増加している。よって、終南山へ訪れる者はほとんどいない。
「それを寂しいと思う事も無く、他人を鬱陶しいと感じるのだから、緩慢で変わらないように思える日々も偉大だねぇ。研究対象が、無くなってしまうとは……滑稽だな」
自嘲気味に呟いた雲中子の表情には、何の感情も浮かんではいない。
この時、雲中子を苛んでいるものは、紛れもなく孤独だったのだろうが、当人すらそれには気付かない。
ただただ夏の日差しだけが忌々しいほどに照りつけている。窓の外を確認してから、静かに雲中子は双眸を伏せた。その時点において、今後二度と、他者と深く関わる事は無いだろうと、半ば確信していた。
――きっと、道徳や太乙が再びお茶を飲みに来る事は無いだろう。
――愛弟子の顔を見る機会も、もう無いかもしれない。
理性が紡いだ懐かしい人々に関する言葉は、脳裏を掠めてすぐに消えた。
空虚な心はそれに関して、寂しさを訴える事はせず、そもそも『寂しい』という感情についてすら想起出来なくなっている事にすら気付かせない。人は、脆い。
「何もする事が無いな。困ったものだねぇ」
退屈は猫をも殺すらしいが、生憎と己は生きている。死にたいと言った願望も無い。呼吸と鼓動、脳機能が続く限り、きっと生きるのだろう。その長い生を、他者に対する興味を失ったままで過ごす事が可能なのか、雲中子はふと疑問に思った後、久方ぶりに口角を持ち上げた。
「この白い部屋が悪いのかもしれないねぇ。考え事をするには良いけれど、白が基調の部屋に関しては、色々な知見もあるようだしねぇ。そうだな、模様替えでもしてみるかねぇ」
一人呟いたその声を聞く者は、他には誰がいるわけでも無い。
けれど雲中子は、心を折る事はしない。他者との関係を避け、孤独を選択したのは間違いなくとも、それは前を向かないと決めたからでは無い。いつかまた、信念のようなものが、打ち込めるような事柄が、きっと現れるはずだと、そうどこかで思っていた。
――その直感は、的中する事となる。