V:救済は雨上がり<1>




 その夜は、酷い雨が降っていた。玉柱洞の窓も容赦なく雨粒に叩きつけられている、闇夜の事だった。雲中子は、結界作用のある宝貝と仙術が、ブツンと糸が切れるように破られた事に気がついた。

「誰だろうねぇ」

 呟きはしたものの、崑崙山においてそのような事が可能な仙人はごく少数だった。地位があるとは言い難いが、これでも雲中子は高仙だったし、現にこれまでは平穏が破られる事は無かった。

 気配が洞府に近づいてくるにつれ、相手を推測して一息吐く。
 ――燃えるような仙気。

「燃燈道人?」

 長く崑崙にいるから、顔こそ知ってはいたが、深い付き合いがある相手ではない。最後に噂としてその存在に関して聞いた時は、都合と燃燈にしか出来ない仕事があるから、十二仙から外れるという話題だったように雲中子は記憶している。その穴を普賢が埋めてからも久しい。

 いつ崑崙に戻ってきたのだろうかと、漠然と考えつつ、雲中子は玄関へと向かう。
 すると激しい音を立てて扉が開いた。

「邪魔をする」

 燃燈は逞しい両腕で、一人の道士を抱きかかえていた。扉が開いた瞬間から、むせかえるような甘い匂いがしていたから、雲中子はすぐに、その道士がΩであり発情状態なのだと気がついた。

 現在崑崙山においては、殺界と名付けられた発情期が規則的に訪れるが、元来発情期には個人差がある。だから不意にヒートを起こしても、なんら不思議は無い。

 燃えるような燃燈の髪は、雨で濡れている。その瞳は険しい。

「この道士が、急に発情期に突入した」
「へぇ」

 見れば分かるとは、雲中子は言わなかった。

「αとの性交渉以外で、発情期を抑制する術は無いのか?」

 燃燈は率直だった。雲中子は、過去の研究を振り返るが――太乙の言葉を思い出す。抑制剤の存在は、不都合らしい。

「さぁねぇ」

 無いとは告げない。それでは嘘になる。だから曖昧に濁してから、チラりと背後に振り返った。

「――ただ、少し緩和する事が可能な医薬品の研究を気まぐれにしてはいたから、診察室の寝台まで運んでもらっても良いよ」

 Ωにとって、発情期は非常に辛い。雲中子はそれをよく知っている。
 燃燈は大きく頷くと、そのまま玉柱洞の中へと入ってきた。
 雲中子は、道士を抱きかかえた燃燈を案内し、診察室のシーツを掌で撫でる。直接敵に洞府に人を上げる事を止めてから、久しく誰も診ていない。

 その後は、独自に改良を進めていた緊急抑制剤の点滴を、道士の手の甲に繋いだ。研究室中に甘いフェロモンの香りが充満している。それを理解しながら、処置を終えた雲中子は燃燈を一瞥した。すると鋭い眼光と真っ直ぐに目が合った。

「さすがに手慣れているな。この香りの中でも顔色一つ変えないとは」
「君こそよく当てられずに運んでこれたねぇ」

 雲中子は、そもそものサンプルに十二仙や燃燈のデータを用いていたので、燃燈がαである事を知っていた。ラット抑制剤を使用しているとは思えないため、燃燈は本能を強い精神力で抑え込んでいるとしか言えない。そんな事が可能だとは、雲中子は想定していなかったが、他に考えようが無かった上、その推測は当たっていた。

「当てられていないわけでは決して無い。だが、傷つけるような事をしたくは無かった」

 正義感が溢れる言葉に、雲中子は微苦笑した。無意識に首の服に触れる。

「平然としているという事は、雲中子自信はやはり影響を受けないような薬を開発済みなのではないのか?」

 雲中子は内心で、もっと単純な理由だと考えていた。
 ――己が、Ωであるから、ただそれだけだ。
 Ω同士であれば、一方が発情していても、影響を受ける事は無い。

 だがそれを燃燈に伝える必要性も感じない。

「Ωのヒートには慣れているんだ。所で燃燈、場所を変えよう。点滴が終わるまで、居室でお茶でも」
「ああ」

 珍しく狼狽えた様子だった燃燈だが、素直に同意した。こうしてリビングに場所を移し、二人は雲中子が入れた珈琲の浸るカップを前にし、向かい合う。するとカップの中身を診て、燃燈が首を捻った。

「杏の香りがするな」
「杏? 普通の珈琲だけれどねぇ」

 無味無臭の室内を保っているから、雲中子は不思議に思った。何か薬を混入していると疑われているのかと勘ぐる。

「別に無理に飲む必要は――」
「いや、頂く。所で雲中子」
「なんだい?」
「第二性別の研究だが、私は研究が開始されるという話を聞いた直後から、崑崙を一時的に離れていた。当初の時点では、あくまでも仙人骨を持つ子が生まれる可能性についての研究だったはずだ。それが、結果として、現在の崑崙山は混迷を極めている。倫理的に、私は愛の無い子作りには懐疑的だ。その点は考慮しなかったのか?」

 倫理について、最初に問題提起をしたのは、逆に雲中子だ。だが、燃燈はそれを知らない様子だ。そして今更、この崑崙中の抱く雲中子への印象を変えようとは、本人は考えていなかった。よって雲中子は否定をする事はせず、静かに珈琲を飲み込む。

「想像にお任せするよ」
「濁すな。私は真剣に尋ねているんだ」

 燃燈の瞳は険しい。その青い瞳に、憤怒と疑念が宿っているように見えたのは、雲中子の気のせいでは無いだろう。ただ闇雲に糾弾される訳では無かったから、雲中子は僅かの間、返答を思案した。直感的に、迂闊に嘘を述べれば、露見するという確信も得ていた。

「……私だって」

 だがそうした思考とは裏腹に、燃燈を見ていたら、勝手に雲中子の唇が動いた。

「……」
「雲中子?」
「……いいや、なんでもない」

 燃燈を見ていたら、妙に心が揺さぶられた。久方ぶりに他者と会うせいなのだろうか、言葉を交わしているからなのか、雲中子はそのいずれかが理由だと判断しながら、顔を背けた。元々さしてよく知らないはずの相手なのだが、何故なのか燃燈に誤解されると思うと胸が痛い。

「なんでもなくはないだろう?」

 一方の燃燈は、不意に雲中子が無意識に見せた、悲愴とでも言うしか無い眼差しを目にし、戸惑っていた。過去の印象では、飄々としていて余裕があるように思える畑違いの研究者といった感覚だったが、今目の前にいる雲中子はどこか脆く見える。

 洞府にこもっているとは耳にしていたが、それしても色も白すぎる。笑顔も無い。

 妙にそれが不安に思えた。今突き放したら、永遠に喪失すると、こちらも直感的としか言い様がない理解がある。その上不思議な事に、雲中子を見ていると惹きつけられて目が離せない。これは、同情なのだろうかと、燃燈は自問自答する。

「燃燈、君だって今この崑崙において私がなんと呼ばれているかはよく理解していると思うがねぇ。そんな怪しげな人間の元に、術や宝貝を破ってまで、例え辛そうだったにしろ、患者――……とも言い切れない、自然な発情を迎えた道士を連れてくるべきだったのかい? 今は専門家も多いだろう? 私に倫理感が欠けると判断しているのならば、尚更だ」

 雲中子が言葉をひねり出した。その平坦な抑揚の無い声を耳にした燃燈は、カップを置いて腕を組む。

「それは何一つ、私の問いの答えにはなっていないと思うが?」
「私に説教をしに来たのでは無いはずだけれど、違ったかねぇ? そろそろ点滴も終わる。私は処置室を見てくるよ」

 立ち上がった雲中子は、それ以上何も聞きたいとは感じていなかった。
 扉を開けて消えていく雲中子の背を見送りながら、今度は燃燈の方が言葉を探す結果となった。



 ――帰り際。
 寝入っている道士を両腕で抱えた燃燈が、玉柱洞の玄関で雲中子を見た。

「世話をかけたな」
「そうだねぇ」
「改めて礼に来る」
「不要だよ。それより、その道士が番いなら、今後は私の元に来るのではなく、抱いてやる事だね」

 雲中子が述べると、燃燈が片眉を顰めた。

「玉虚宮で急に発情期が訪れ、他のαが当てられそうになった結果、自制出来た私が連れてきただけだ」
「発情自体は想定可能な事態だろうけど、搬送先にここを選択する事が正しいとは思えないねぇ」

 特に興味があったわけではない。雲中子としては雑談だった。だが、不思議と、『番いではない』と聞いたら、体が軽くなった気がした。しかし本人には、その理由が分からない。

 燃燈もまた、不思議な心地だった。事実を述べただけなのだが、どこかで『雲中子にだけは誤解されたくない』と感じている事を自覚してしまったからだ。

 雲中子と燃燈の目が合う。お互い不可解な感情と感覚を抱いていたが、それは相手に問いかけて解決する部類のものでも無い。

「ならば、先程の話の続きにまた来る」
「結界を修繕するのは面倒だから、次からは迂闊に破壊じみた解除をしないで貰いたい限りだねぇ」

 半ば嫌味のつもりで雲中子は伝えたし、本当に『次』があるとも思っていなかった。
 既に雨は、上がっていた。