V:救済は雨上がり<2>
――翌日の早朝、早速終南山全体に張り巡らせている結界を修繕しようと雲中子は洞府から出た。そうしないと、気が休まらない自分がいる事に気付いて、苦笑してしまう。人嫌いが極まっている。悪意に晒され続けていては、自我を保てなくなると、正確に理解していたのだろう。
「早いな」
「っ」
そこへ声がかけられたものだから、雲中子は息を飲んだ。昨夜とは一転して広がる青空の下、燃燈道人が本日は気配無く、終南山へと訪れた。仙気を繰る事に長けている燃燈を、気付かなかった雲中子が見上げる。
「今度は何の用だい?」
「昨日、話をしに来ると告げただろう?」
「……私には、特に話す事は無い。帰ってもらえるかな」
「断る。私は、崑崙の現状を憂いている」
「だとして、それはスプーキーと評判の、嫌われ者の私との会話で何か変化する事ではないはずだ」
続けてから雲中子は、これでは己が拗ねているみたいだなと、内心で苦笑した。
しかし決して被害妄想ではない。今の崑崙山において、雲中子は間違いなく嫌われている。それは燃燈であっても知る事だった。
ただし燃燈は、そういった『評判』が、昨夜顔を合わせた時から、あくまでもただの『噂』なのではないかと、内心で考えていた。同時に、雲中子から香ってくる杏のような匂いを無意識に感じると、少し気が緩む事も自覚した。
「別段お前と、崑崙山の今後について話し合いがしたいわけではない。私は正確に現状を把握したいだけだ」
「それこそ玉虚宮に行って――……っ」
そこまで言いかけて、雲中子は気がついた。
崑崙山の中核にいる燃燈に、計画の全容が知らされていないというのは奇妙だ。そこで燃燈の出自を思い出した。元々この研究は、仙人骨を持つ子を得るという趣旨から始まったわけだが、仙人骨があれば誰でも良いというわけではないはずだ。より強い子供、血筋、そういったものを望まれる可能性が高い。そのための、子種を注ぐαとして、燃燈は期待されている可能性が非常に高い。だからこそ――知らされていないのでは無いのか。
「雲中子?」
「……何でも無い」
「そればかりだな。言いたい事があるならば、言えば良い。嘗てのお前は、少なくとも今よりは明確に発言する方だったように記憶しているが?」
それは間違いでは無かった。だが、時間と孤独は残酷だ。
雲中子はそんな事を考えつつ、自身の過去を覚えられている事を知り――何故なのか、胸が疼いた。しかしそんな自身の情動がよく分からない。
バチンと、音がしたのはその時だった。ハッとして雲中子が顔を上げると、燃燈が仙術を展開した所だった。強い仙気で結界が新構築されている。
「これで良いか?」
「良いか、って……」
「私が張っておけば、私は入れる。好きな時に、破壊せずに」
「――君が来ないように修繕しようとしていたのだから、無意味極まりないんだけれどねぇ……」
そうは言いつつも、雲中子は小さく吹き出してしまった。本当に小さな表情の変化だったが、雲中子の笑顔を見た瞬間、燃燈の心臓がドクリとした。惹きつけられる――そう表現する以外には困難な感覚だった。過去には一度も体験した事が無い。
「仕方が無い。お茶の一杯でも振る舞う事としようか」
一切気付かず、雲中子が玉柱洞の方角へと振り返る。燃燈はその横顔を、暫しの間眺めていた。目が離せなかった。
「燃燈?」
「あ、ああ……邪魔をする」
我に返った燃燈は、小さく首を傾げた後、歩き出した雲中子の後を追いかける事とした。歩幅が異なるから、自然と後ろを歩く燃燈は、ゆったりと進む事になった。その結果、終南山の様々な緑を見る。もうじき、夏が来る季節だった。再び訪れる十年に一度の殺界までは、あと一ヶ月ほど、現在は梅雨の季節だ。
玉柱洞のリビングに燃燈を促してから、雲中子はキッチンへと向かった。
自分用に作ってあった栗羊羹を切り分けて、緑茶と共に運ぶ。
ソファに座っていた燃燈は、室内で少し浮気味のカラフルなチェストを一瞥していた。
「どうぞ」
「気を遣わせて悪いな」
視線を戻した燃燈は、それから対面する席に座した雲中子を見る。その後置かれた皿を見て、不思議な気分になった。やはり杏のような香りがするから、そういった茶菓子が出てくるのかと推測していたのだが、出てきたのは羊羹だ。
「それで、話とはなんだい?」
「昨夜の件。Ωの発情を緩和する薬が存在する事は、既に玉虚宮に報告済みだ」
「へぇ」
そんなもの燃燈が報告するまでも無く、玉虚宮は関知している。しかし雲中子はそれは告げず、己の湯飲みに手を伸ばす。
「殺界に苦しむ者は多い。あの点滴が普及すれば、混乱がかなり収まる」
「そうかもしれないねぇ」
「量産は可能か?」
「私の研究設備では困難だよ」
「こちらで手配をする。また、より強い薬効を持つ品の開発も期待したい」
既に存在している事、雲中子はこれもまた黙秘した。そして手配すると考えているのは燃燈だけに過ぎないだろうと、正確に状況も理解していた。
「協力してもらえるか?」
「そういった命が下れば、私は一介の仙道であるから従うざるを得ない」
「乗り気では無いのか?」
「……ここの所、研究自体から久しく離れているから、役に立てるか分からないんだ」
雲中子は事実を交えて本音を述べた。
部屋の模様替えをしてからも久しいが、現在に至るまで、何事にも興味が戻ってくる事は無い。
「即ち、洞府にこもって研究に打ち込んでいるというのも、ただの『噂』か」
燃燈が探るような色を瞳に宿した。雲中子は言葉に窮する。
「では何のために結界を?」
「……別に。静かに過ごして、研鑽に励んでいただけだよ」
「そうか」
しかし燃燈は深く追求する事はしなかった。
ただ無性に――『もっと話がしたい』と感じ、雲中子の事を知りたいと感じる己が不思議でならなかった。そこに横たわっているのは、理屈では無かった。
声を聞いていたい、そばにいたい。
杏のような香りに浸りながら、燃燈は自然と浮かんでくる己の思考を不可解に思っていた。
雲中子はそんな燃燈の内心など知るよしも無く、湯飲みを置くと、ほぅと吐息した。
「まぁそんな訳だから、協力をしたくとも出来るとは言えないんだよねぇ」
「承知した」
「話は終わりかねぇ?」
「そうだな」
「じゃあそろそろ――」
「所で雲中子、あのチェストは変わっているな」
「ん? ああ……たまには奇抜な色も良いかと思ってねぇ」
話を打ち切り帰宅を促そうとした雲中子の言葉が終わる前に、燃燈が話を変えた。率直に燃燈は、己の感情に従ったのだ。話がしたいと感じるのだから、話す。特に不自然な流れでも無かったから、雲中子も雑談に答える。
その後、二人の間では家具の話から始まり、続いて羊羹の話になった。自然と雲中子は、二杯目のお茶を用意し――この日燃燈は、陽が落ちるまでの間、ずっと終南山に居座って話を止めなかったが、長らく人と接していなかった雲中子にとってもその時間は不思議と不快では無かった為、追い返す事もしなかった。
「また来る」
夕日が入り込んできた頃、玄関で燃燈が述べた。雲中子が苦笑する。
「人体実験をしていると評判の私の茶菓子を食べに来るのだから、君こそ変人の異名を持つべきじゃ無いのかねぇ」
「美味かったぞ」
本当に次があるのか、この時の雲中子は疑問だった。
だが、燃燈は本日一日で、より一層、『雲中子とずっと話がしていたい』という感覚を抱くようになっていたから……翌日も、そしてそのまた翌日も、玉柱洞へと足を運んだ。
これがある種の契機となった。