V:救済は雨上がり<3>
「また来たのかい」
雲中子は玉柱洞の玄関で、燃燈を出迎える。精悍な顔つきで笑う燃燈の表情は明るい。最初の名目は、発情期に関する薬についてだったはずだが、五日も経過した現在、その話題は出なくなった。というのも、燃燈が元始天尊に謁見を求め、話し合う時期の調整をしているから、らしいとだけは雲中子も聞いていた。
――無駄だろうけどねぇ。
そんな内心を殺しながら、この日も雲中子は笑顔を浮かべた。
人間は長らく笑っていないと、表情筋の動かし方を忘れるらしいが、不思議と燃燈を前にすると両頬が持ち上がる。
「明日は来られない」
「へぇ」
「漸く元始天尊様と話をする機会を得た。朝から玉虚宮に出向く」
「そうなんだ」
何気ないやりとりをしながら、自然と燃燈は玉柱洞に入ったし、雲中子がそれを咎める事も無い。この日も二人は、何気ない雑談をして、一日を過ごした。
燃燈が来ない日が久しぶりだったから、雲中子はそう感じる己に苦笑しながら一日を過ごした。不可抗力とはいえ他者を避けていたはずなのに、燃燈はあっさりと心の内側にたった数日で入り込んできた。それが心地良くもあった。
リビングの横長の象色のソファに寝そべり、雲中子は天井を見上げる。
一人きりの時間が決して嫌いでは無いはずなのに、無性に寂しい。
そんな風に感じている内に、雲中子は微睡んだ。
――乱暴に扉が開く音を夢うつつに聞いて、雲中子は双眸を開けた。緩慢に視線を向ければ、既に窓の外は暗い。月も高い。ぼんやりとそんな事を思っていると、ここ数日で慣れた仙気の持ち主が、リビングへと顔を出した。
「今日は来られないんじゃなかったのかい?」
雲中子はそう問いかけてから、燃燈の瞳が非常に不愉快そうである事に気がついた。
「雲中子、どういう事だ?」
「話が見えないねぇ。一体、何について?」
「元始天尊様と話をした。既に薬は開発済みだそうだな」
「それが?」
「太乙や道徳とも話した。薬の存在を秘匿したのは、玉虚宮だとも聞いた」
「仙人界の未来を憂いたのは、君も玉虚宮も同様なんじゃないかねぇ。私には、口出しをする権利が――」
「雲中子。お前は何も悪く無かった。だというのに、そんな理不尽な決定を受け入れたのか?」
無力感が再び心の中で頭をもたげた。雲中子は、ソファから起き上がりながら嘆息した。燃燈は雲中子に歩み寄ると、その肩を強く掴む。痛いほどだった。
「それが崑崙山の一つの流れであり、仙道の新しい未来の――」
「私はそんな話をしているつもりはない」
「え?」
「お前の話をしているんだ。何故雲中子が、現在のように悪し様に言われ、事実無根の噂で糾弾されなければならないというんだ? それが正しい流れだと、本当に思うのか? それは私が思う正義とは異なる。ただの陰湿な情報操作だ」
「燃燈……君は何が言いたいんだい?」
「お前の心配をしている。何が悪い?」
激昂している燃燈の声を聞いて、雲中子は驚いた。息を飲む。
「仙人界の事を、Ωやαの事を考えているんじゃ……」
「私は雲中子の話をしている」
「……一体、どうして……?」
ポツリと雲中子は、思わず聞いた。すると燃燈がすぐに口を開いた。
「それは――……」
しかし最後まで述べる前に、燃燈は言葉を止めた。理由が、彼自身にも分からなかったからだ。正しくは無い事であるからなのか、それが自分の思う正義に反する事だからなのか、当初そう考えたものの、それは自分でつい今し方否定したばかりだ。
ただ単純に、雲中子が陰惨な目に遭っている事が、許せないと思うだけだ。
「……悪い。お前は何も悪く無い以上、雲中子を責めるのは違うな」
「私のために怒ってくれているのは理解したけれどね、同情なら不要だよ」
「違う、そうではないんだ」
「? だから、どうして?」
再び雲中子が尋ねると、その肩を握る指先から力を抜きながら、燃燈が目を伏せた。思いのほか華奢な雲中子の体を、今更ながらに乱暴に掴んだ己を愚かだと感じる。
同時に、明確に理解した。
何故、か。どうして、か。
それは実に簡単だった。雲中子に惹かれているからだ。雲中子に惹きつけられているからだ。道士を運んできたあの夜、顔を合わせたその直後から、ずっと雲中子の存在が、燃燈の心を占めていた。きっかけは何も無い。だから気がつかなかった。それだけだ。
「燃燈……?」
沈黙してしまった燃燈を、雲中子が不思議そうに見やる。
その声に、目を開けた燃燈は、じっと雲中子を見据えた。
「好きな相手が不遇な目に遭っているのを知り、苛立った」
「優しいねぇ。それに、私を好きだなんて――崑崙中の仙道が卒倒しそうな友人関係だな」
雲中子は、燃燈の言葉に幾ばくか体から力を抜いたようにし、微笑した。
……友人。
その言葉に燃燈は、内心で首を振る。
友愛では決して無い。この好意の種類は、明確に恋情だ。
α間の恋愛が成立するのかを燃燈は知らなかったが、己の気持ちに嘘を吐こうとは思わない。
――雲中子の第二性別を燃燈は知らない。
だが、伝えるべきは今では無いと、今は傷つかなかったはずが無い愛しいと悟った相手のそばにいたいと、燃燈は思った。だからゆっくりと手を離してから、こちらも笑顔を浮かべた。
「これからは私が盾になろう」
「不要だよ。私はどうせここからは出ないからねぇ」
冗談めかして雲中子は述べたが、それは本心でもあった。