W:運命の番い<1>



 梅雨が明け、夏本番が訪れた。同時に今年は、境の十年目。殺界の時期が訪れたとも言える。

 連日猛暑が続いているとは言え、空調の効いた玉柱洞の中は涼やかだ。
 実験室に立った雲中子は、今し方包装したばかりの錠剤を見る。

 ――発情期抑制剤だ。

 殺界と名付けられた発情期の時期で無くとも、雲中子は己の第二性別がΩだと分かってから、常に服用している。誰に会うでもない日々を送っていても、それは変わらなかった。万が一に備えての自衛の為でもあったし、例えば迷い込んだαを、不用意に誘わないようにという配慮もあったが、一番の理由は体の熱だ。

 いくら抑制剤を常用していても、殺界の時期には体が熱を孕む。
 肉欲が強制的に高められる。
 現在、崑崙山にはそういった術が張り巡らせられているからだ。

 いつか点滴を行ったように、発情後でも必ずしも対処が出来ない訳では無いが、基本的には、発情後はαに抱かれるまでΩの体は収まらない。その事実も、Ωが劣等種だという噂に拍車をかける結果となっている。

 カプセルを二錠取り出して、雲中子は口に含んだ。そして傍らにあった水で飲み込む。白い喉が動いている。それから雲中子は、その喉にはめっぱなしで過ごしているネックガードに触れた。黒光りがする鉄の輪に見えるその宝貝は、αの放つ仙気に反応する。迂闊に触れた場合、α側には電流のような衝撃が走る仕組みだ。余程強い仙気の持ち主でも無ければ、無理に外す事は出来ない。

 その事実を何とはなしに回想してから、雲中子は服の首元を正した。

 それから実験室の壁に掛かる丸時計を見る。現在は、午前十一時。本日燃燈は、午後に訪れると話していた。丁度先週の事で、殺界が訪れる少し前のある日だった。今も燃燈は、暇を見つけては高頻度で、玉柱洞を訪れる。

「同情されているのだろうけどねぇ」

 ポツリと雲中子は呟いた。舌に載せた言葉が、思いのほか苦い。
 燃燈としか会わない日々が始まって、まだ一ヶ月にも満たないというのに、燃燈道人という存在が、日増しに自分の内側を侵食していく事を、雲中子はよく理解していた。他に誰かと接触する事が無いから当然なのかもしれなかったが、燃燈の事ばかりを考えるようになっていった。例えばふとした瞬間、料理中、『ああ、この味は燃燈が好きそうだなぁ』と無意識に呟いた時など、顔から火が出そうになる。

「これは、依存かねぇ」

 雲中子は、最近自分の感情の動きが分からないでいた。何百年も前の過去、それこそ第二性別など崑崙に存在しなかった時分には、例えば玉虚宮の回廊ですれ違おうとも、特に印象は抱かなかった。だが今は、あの激しい雨が降っていた夜から始まり、燃燈の鮮烈な存在感を、忘れた事が無い。

 無性に惹きつけられる感覚がする。

「……αだから、ではないはずだ」

 雲中子がそう結論づけたのは、過去にもαと遭遇した経験があるからだ。殺界が開始する前ではあるが、第二性差の検査を手伝った折、多数のαと顔を合わせたが、このようにはならなかった。明確に燃燈が、『特別』になっていく。いいや、最初から『特別』だったような気さえする。たった数日会えないだけで、寂しく感じてしまうほど、ここの所燃燈の来訪を待ち望み、傍にいたいと感じ――これでは、まるで。

「恋」

 無意識に呟いてから、雲中子はハッとして、思考を打ち消した。
 思考を放棄し、頭を振る。燃燈が顔を出してくれる、穏やかな空間を瓦解させたくない。会えれば、それで構わない。言葉を交わせれば、それで良い。

 己を孤独から引き上げてくれたある種の恩人に、何かを求めたいとは思わない。
 これは雲中子の本音であったし、理性が導出した答えだった。



 宣言通り、燃燈はその日の午後、玉柱洞へと訪れた。熱い日差しの中を歩いてきたようで、雲中子が差し出した冷たい焙じ茶のグラスを、燃燈は美味しそうに傾けた。それからグラスを置くと、燃燈は珍しく卓上で頬杖をついた。

「玉柱洞は良いな」
「エアコンが効いてるからねぇ」
「そうじゃない。お前と私しかいないから、気が楽で良いという話だ」

 燃燈は、午前中にあった、『会議』について思い出していた。名目としては、『会議』だからと玉虚宮に呼び出されたのだが、その実そこには、幾人もの発情状態のΩがいた。抑制剤の投与が成されていなかった――わけではない。玉虚宮側は、あたかも燃燈の提案を聞き入れたかのように、意図的に数名のΩに、『効果を弱めた抑制剤』を投与して、一つの会場に集めていた。理性を飛ばすほどでは無いが、発情しかかっているΩの仙道がひしめいていたあの場で、燃燈の他にも幾人か招かれていたαの多くが理性を飛ばした。

 鋼の精神で甘ったるいフェロモンを退けた燃燈は、会議の中身が無い事を確信してすぐに、その場を出て終南山へと訪れた次第だ。

 玉柱洞のリビングに入ると、杏に似た良い香りがした。既にこの匂いに、燃燈は慣れつつある。だがこの日は――いつもよりも、それが濃く感じて不思議に思った。しかし先程まで囲まれていた最早悪臭と述べたくなるような甘ったるいフェロモンとは異なり、玉柱洞で感じる杏に似たこの気配は、燃燈に快さを齎す。

「会議が難航したのかい?」
「いいや……――己が繁殖用の動物と同等だと認識させられかけたとだけ言っておく」
「へぇ」

 雲中子は頷きながら、マロングラッセの載る皿を置いた。そうしながら、緊張していた。燃燈が入ってきた直後頃から、明確に体が熱くなり始めたからだ。先程発情期抑制剤は服用した上、丁度今、それは作用しているはずである。だというのに、燃燈と同じ空間にいいると、ドクンと体の内側が熱を孕む。このような経験が、雲中子には無かった。

 おかしい。
 異変に気付いた雲中子は、抑制剤を再度飲むべきだと判断した。

「……おかわりを持ってくるよ」

 理由をつけるべく、己の焙じ茶を飲み干す。
 だがほぼ同時に燃燈も異変に気付いた。杏の匂いが濃く、深く変わった瞬間だったからだ。脳髄が直接揺さぶられるように、意識が二重にブレた。燃燈が反射的に右の掌で口と鼻を覆う。けれどその時には既に、その独特の香りに飲み込まれていた。

 キッチンの方角を見て立ち上がった雲中子の手首を、気付けば燃燈は掴んでいた。狼狽えたのは雲中子だ。

「燃燈……? 離――」

 雲中子がそう言いかけた時には、燃燈はよく筋肉のついた片腕で、雲中子を抱き寄せていた。そして驚愕したように目を見開いている雲中子を見てから、漸く理性が幾ばくか働いた。

「――雲中子、私は今……何を?」
「私が聞きたいのだけれどねぇ、とりあえず離――」

 再度雲中子が言いかけて、片手で燃燈の逞しい胸板に触れた。その接触が悪かった。ブツンと理性の糸が途切れたのは双方だ。次に二人が我に返った時、横長のソファに雲中子は押し倒されていたし、燃燈は覆い被さっていた。

 鋼の精神で、これまでΩのフェロモンを退けてきた燃燈だが、今彼の空色の瞳には、明確に情欲が宿っていた。それを見て、雲中子は息を飲む。燃燈の瞳は、あまりにも獰猛に見えた。ゾクリとしてしまう。

「燃燈!」

 雲中子は、状況を把握した。己が半ヒート状態にあるのは殺界が来ている以上明確であるし、今まで大丈夫だったとはいえ、実際にはαである燃燈がそのフェロモンに曝されて
ラット状態にならない事の方が不思議な現象だ。

 思考を高速で回転させながら、雲中子は、自分の白い道服の首元を、破くように開けられた事に焦っていた。雲中子の白い首には、黒いネックガードが嵌まっている。その宝貝を目にした燃燈は――迷わずそれに触れた。

 するとバチンと音がして、呆気なくネックガードには罅が入った。
 元々、強い仙気を持つαが相手では、人為的な宝貝である以上太刀打ちは困難だ。それは雲中子もよく理解している。それでも、その衝撃で、燃燈が理性を取り戻してくれる事を、雲中子は期待していたが、呆気なくその望みは崩れた。

「ね、燃燈!」

 雲中子は声を上げる。そこには怯えが混じり、明らかに震えていた。逃れようともがき、体を退こうとした雲中子の手首を燃燈が握る。そしてもう一方の手を雲中子の後頭部に回すと、その白い首へ顔を近づけた。

 ――噛まれる。
 雲中子はそう覚悟した。白い雲中子のうなじに、燃燈の唇が近づく。
 ギュッと目を閉じた雲中子は、同時に心の内側に巻き起こった感情にも狼狽えていた。

 ――噛まれたい。
 ――燃燈の番いになりたい。

 ただ少し、噛まれるという恐怖がそこにあるだけだった。

 燃燈が口を開ける。雲中子は抵抗を止めた。ただ目を閉じていた。雲中子の手首から燃燈の片手がはずれ、雲中子の後頭部を片手で持ち上げる。

 肉を噛む音がした。

「雲中子、逃げろ」

 直後響いた燃燈の声に、雲中子はハッとして目を開ける。すると燃燈は、燃燈自身の腕を噛んでいた。

「逃げろ、今すぐに」

 言葉を放っては、苦しそうに再び筋肉の綺麗についた腕を噛む。燃燈の肌に、彼自身の噛み傷が重なっていく。

「自分が抑制できない。このような経験が私には無いが、一つ言える。確実にこのままだと私は――お前を傷つける」

 完全に情欲濡れているというのに、必死で理性を働かせようとしている燃燈の瞳と、呆然とした雲中子の黒い瞳が交わる。燃燈のこめかみからは、汗が伝っていて、その息は荒い。完全にラット状態だ。

「私は雲中子が大切だ。お前を傷つけたくない。だが、このままでは……っ、私はお前に酷い事をする」

 燃燈の腕の歯形が、鬱血していく。それほどまでに強く噛んでいる。理性の限界ギリギリの所で、燃燈は自身を必死に制そうとしていた。雲中子を傷つけたくない一心だった。それは、雲中子が大切でならないからだ。

 直感的に理解させられているから、もう分かる。
 雲中子がΩである事に、燃燈は気がついた。
 ずっと漂っていた心地の良い杏の香り――あれは、フェロモンだ。他のΩから感じるものとは本質的に異なって感じるほどに心地良かったからこそ、理解が遅れた。

 運命の番い同士であれば、発情期でなくともフェロモンを感じ取る事が出来るらしいとは、燃燈も聞いた事があった。逆に、他者との接触機会がほぼ無かった雲中子の側がそれを知らなかった。自分から出たフェロモンを燃燈が嗅ぎ取っている事を、今も雲中子は知らない。

「頼む、逃げてくれ」

 焦燥感に駆られるような燃燈の、なけなしの理性が放つ言葉。
 それを耳にした瞬間、雲中子は苦しくなって唇を噛んだ。

 ――燃燈は、優しい。
 ――燃燈は、私と番いになりたいなんて思っていないはずだ。
 ――それでも。

「燃燈」
「雲中子、早く――」

 逃避を呼びかけようとした燃燈の首に、雲中子は両腕を回した。そして目を伏せ、顔を傾ける。そのまま掠め取るように、雲中子は燃燈の唇を奪った。

 直後、燃燈の理性は完全に途切れた。