W:運命の番い<3>




 ――事後。
 というのは、正確では無い。ソファの上で意識を飛ばし眠り込んでいた雲中子は、まるで死人のようにさえ見えて、先に理性を取り戻した燃燈は終始心配そうに視線を向けていた。雲中子が目を覚ましたのは、三日三晩交わり続けた後の、翌日の朝の事だった。

 朝靄が、窓の外に見える。
 気怠く重い体では、指先を動かす事すら大変に感じたが、暫しの間ぼんやりとした後、雲中子は漸く我に返って、慌てて無理に体を起こした。

「目が覚めたか?」

 ずっとついていた燃燈は、勝手に拝借した冷たい緑茶を飲んでいた。それを目にして、雲中子も己の喉の渇きを自覚する。だが、体からは不思議なほど熱が退いていた。まだ殺界の、発情期の最中であるというのに。

「……一口もらえるかい?」
「ああ」

 燃燈が気遣うようにしながら、グラスを差し出す。だが雲中子の受け取ろうとした手が震えている事に気付いて、背中を支えてから、口元にグラスを寄せた。気恥ずかしかったが抵抗する体力も無く、雲中子は有難く緑茶を飲ませてもらった。

「燃燈……」

 その後、雲中子が少し掠れた声で、燃燈の名を呼んだ。燃燈は糾弾される事を覚悟していたが、まずは話をしようと頷きながら耳を傾ける。

「ごめん」

 しかし雲中子の唇が紡ぎ出したのは、予想外の謝罪だった。虚を突かれて、燃燈は目を丸くする。

「私はすぐにラット抑制剤を持ってきて君に投与するべきだった」

 漸く仕事を再開した雲中子の理性が、言葉を選ばせた結果だ。その後雲中子は俯き、燃燈がかけてくれたらしいタオルケットを見た。それを両手で軽く握る。

「そもそも私がΩである事を、伝えておくべきだった」

 それを聞いて燃燈は思案した。
 仮にそうであれば、殺界中にΩと二人になる事は基本的に避けていたから、玉柱洞へは来なかった――だろうか? 客観的に考えれば、雲中子に配慮して、期間を置いたかもしれないが、いいやそれは無かっただろうなという内心があった。愛する雲中子が、結ばれる事が可能なΩであると理解した今、喜ぶ胸中を燃燈は抑えきれない。きっと、事前に聞いていたとしても、嬉々として来訪した可能性が高い。

「雲中子が謝る必要は無い。確かに、勝手に私は、雲中子もまたαだと考えていたから、その点で配慮に欠いた事をこちらこそ謝罪したい――が、私は後悔していない。お前に酷い事をしたのは私の方だ。だが……」

 謝ろうという気にはならない。理性は謝罪すべきだと何度も唱えているのだが、雲中子を手に入れる事が叶った幸福感の方が強い。しかし雲中子は、そんな燃燈の発言を、フォローだと捉えた。

「すぐに緊急避妊薬を服用するよ、安心してくれて良い」

 それを聞いて、燃燈が息を飲む。

「何故だ?」
「何故って……私のヒートが収まっているという状況から考えても、ほぼ十割私は妊娠しているからねぇ……」
「責任を取りたい」
「燃燈……私は、燃燈の事が好きで、だから私が誘ったんだし、抑制剤を取りに行くこともしなければ、君を誘うようなマネさえしたんだよ。悪いのは私だよねぇ、どう考えても。発情を利用して、燃燈に、無理に番いにさせたんだから」
「言い方を変える。責任を取るというのは理由付けだ。私こそ、雲中子が好きだ」
「でも君は、最後まで番いになるのを拒もうとしていたじゃないか」
「それはお前の気持ちを確認していなかったからだ。雲中子を傷つけたくない一心だった。本当にそれだけだ――だが、今はもう、迷いは無い」

 燃燈の言葉を、雲中子は『優しい嘘』だと判断した。

「本当に良いんだよ、気にしなくて」

 そしてなんとか立ち上がると、そのまま実験室へと向かう。ふらついている雲中子を見て、まだ辛そうだと判断しながら、燃燈は支えてついて行った。

 雲中子は、保存庫の扉を開け、試験管を一本取りだした。それを見て、燃燈が尋ねる。

「それは?」
「だからつい今し方話した、緊急避妊薬だよ。これでも絶対では無いけれど、七割は避妊可能だ」

 それを聞いた燃燈は、雲中子から試験管を奪うようにした。雲中子が目を見開く。その前で、薬液が入った試験管が、床に落下し、パリンと音を立てた。

「燃燈。それを飲まなければ、私達にはほぼ確実に子供が――」
「産んで欲しい」
「っ、君に責任感があるのはよく理解したけど、何度も言わせないで欲しい限りだ。悪いのは私だし、言うなれば私が襲ったに等しい。私が燃燈を誘惑したんだよ」
「違う」
「違わない、私が襲ったんだ。私は燃燈が好きで、だから誘ってしまって――」

 雲中子の言葉は、そこで途切れた。不意に燃燈が雲中子を抱きしめたからだ。その体温と力強い腕に、雲中子は涙ぐみそうになった。

「つまり私達は、両思いだったという事だな」
「――え?」
「私は雲中子と番いになりたいと思っていた。だが、お前がΩだとは知らなかったから、それは叶わないと思っていた。けれど叶った今、悪いが私は後悔してなどいない」

 燃燈の言葉を聞いて、雲中子が大きく二度瞬きをした。それから、困惑したように燃燈を見上げる。

「本気で言っているのかい?」
「ああ」
「燃燈、よく考えてみて欲しい。私と君では、釣り合わないにもほどがあると思うんだけどねぇ」
「そうか?」
「そうだよ。第一、燃燈は周囲の皆に子供を望まれているわけで――」
「お前が産んでくれ」
「……」
「だが、それは周囲の期待に応えるためでは無い。私は、お前との間にであれば、愛の証を欲しいと思うからだ」

 燃燈の腕に力がこもる。

「そもそも周囲など関係ない。私は既に、お前が運命の番いだと確信している。第一仮に『運命』というものが幻想だとしても――そして私達がαとΩで無かったとしても、惚れていたと、確かにそう思っている」

 雲中子はそれを聞いて、動物実験をしていた時の事を思い出した。必ず特定のΩを見つけ出す、選択する、αがいた記憶だ。あるいは、それもまた、『運命』だったのだろうとは思う。

 ここの所を振り返ってみる。すると雲中子は、己が燃燈に惹かれた事もまた、『運命』としても差し支えがないようにも思った。αとΩとなった事で、明確されるに至った関係性の名前としても問題無い。

「雲中子と私は、運命の番いだ。誰がなんと言おうとも、な。それに、雲中子が拒否しようとも、既にうなじは噛ませてもらった。私は今後生涯、お前を手放すつもりはない」

 その言葉が無性に嬉しくて、気付いたら雲中子は涙ぐんでいた。
 だから燃燈の腕に触れながら、笑おうと試みたのに失敗に終わる。

 ――この日、二人は長い間抱き合っていたのだった。