【二】森猫族の遣い。



 早速畑に向かい、俺は人参を抜く作業に従事した。
 カゴいっぱいの人参を収穫しなければならない……。
 そうなのだけれど、そうしてしまうと、食事が大変だから、それも憂鬱だ。

 人参ピクルスの瓶は、あと二つしか残っていない。
 キャロットジャムの瓶は、三つだ。
 ちなみに、俺は人参は、本当はあんまり好きじゃない。

 だが、畑の作物の種や苗で、俺が唯一分けてもらえるのが、納税用の人参だけなので、仕方がない。他には自生している野苺や桑の実、キノコ、ヒマワリの種が俺の主食だ。

 お昼までかかって人参を収穫してから、俺は井戸からお水を汲んで、洗った。
 馬車の音がしたのは、滑車を動かしていた時のことだった。
 いつも俺が通る獣道の方ではなく、村から街道に続く少し離れた通りからだった。

 三ヶ月に一度、王都から積荷が届く時に馬が通る以外には、誰も使わない道だ。
 だから驚いて視線を向けると、遠くで馬車の扉が開くのが見えた。
 降りてきた人を見て、俺は目を見開いた。

 立派なお耳が見えた。兎獣人よりは短いが、代わりに太くてふさふさのお耳だ。
 三角形よりなのは俺に似ているが、俺のお耳はふさふさじゃないし黒い。
 しかしその人物のお耳は、灰色なのだが、光に当たると緑にキラキラ光るのだ。
 毛先の一本一本が緑の粉をまとっているかのように幻想的で美しいのである。

 あれ、は。
 文字が読めない俺ですら知っている、隣の国の森猫族の人だ。
 この大陸で一番大きな国だという。とっても強い国だそうだ。

 猫獣人という種族だと聞いたことがある。
 体格も、白兎族よりずっと大きいし、ふさふさで長いしっぽも大きい。

 ポカンとしてみていると、目があった。
 狼狽えて桶を取り落とした。
バシャリとお水が俺の靴を濡らした。

 慌てていると、その人物がこちらへ歩いてくるのが見えた。
 ど、どうしよう。貴族の服を着ている。
 白兎族は、平民階級だから、貴族に会ったら敬意を評してお辞儀しなければならないそうなのだが、俺は学校に行っていないから、お辞儀を習っていないのだ……!

 焦って俺は、とりあえず地面に膝をついた。
 そして両手を組んで、深々と頭を下げた。
 多分お辞儀とはこんな感じだったはずだ……!

 すると、草を踏む音がしたあと、立ち止まる気配がした。

「頭をお上げください」
「は、はい!」

 突然声をかけられたものだから、ビクビクしながら、俺は顔を上げた。
 すると鷹のような目をした森猫族の貴族は、俺を見たあと目に涙を浮かべた。
 ――?

「ネル様ですね?」

 さ、様?

「俺は、ネルと、い、言います。白兎族のネルです」
「いいえ」
「へ?」
「貴方は黒猫族の王族です」
「え?」
「ネルライト=ファントムクォーツ様、それが貴方の本当の御名です……! ああ、ご無事で……! 生きておられると信じておりました! やっと見つけた! ネフェル様にそっくりだ!」
「え、ええと……?」

 何を言われたのか分からないでいると、俺の前で――な、なんとその人が今度は膝をついた。高価そうな貴族のお洋服が、俺がこぼした水でグチャグチャの土で汚れるのにも構わず、その人が両手を組んだ。

「わしは、森猫族の将軍で、クレソンと申します。黒猫族の王族の最後の一人、尊い血を受け継ぐ唯一のお方であるネルライト様をずっとお探し申しておりました」
「……?」
「その日蝕の瞳、漂う濃厚な魔力、間違いありません。何よりお顔が……お父様に瓜二つだ……」
「え……俺のお父様を知っているんですか?」
「勿論です。黒猫族の最後の王――ネフェル様は、実に立派な方でした。黒猫族は森猫族にとって、元来特別な存在ではありますが、ネフェル様は別格です」

 実は俺は、お父様の名前も知らなかったので、何とも言えなかった。
 それに、王様? というか……

「あ、あの」
「いきなりのことで驚かれるのも無理はありません! ですが、事実です」
「待って下さい」
「いいえもう待てません!」
「そ、その――……黒猫族ってなんですか?」
「――は?」
「森猫族は、猫獣人だと知っています。でも、黒猫族は、聞いたことがありません。何獣人ですか?」
「え、な、なんと? 今、なんと!?」
「す、すみません、俺頭が悪くて……」
「……」
「……」
「……」

 俺の言葉に、クレソン将軍は黙ってしまった。
 村長様よりは少し若いから、五十歳くらいだろう。
 瞳の色も緑色だ。こちらは光の加減で金色に光る。

「整理致しましょう。まず、黒猫族は、猫獣人の一種です」
「そうなんですか!?」
「はい。そして、ネルライト様は、その黒猫族の王族なのです」
「王族……?」
「そうです。世が世ならば、この大陸は貴方が統べていたことでしょう」
「……? だけど俺は、白兎族で、平民です。王様じゃないし、猫獣人じゃなく兎獣人です」
「いいえ。そのお耳を見れば分かるのではありませんか? 一切兎獣人の特徴はございません」
「っ、た、確かに俺は醜いけど……」
「醜い!? とんでもない! わしは、ネルライト様ほどお美しい方は、ネフェル様しか存じ上げません! その白磁の頬、大きな瞳――白兎族は、不埒と聞きますが、なにか被害に遭われたことはございませんね!? それだけが不幸中の幸いだ。余計な淫行は魔力を濁らせますゆえ!」
「インコ?」

 俺に心当たりのある被害は、悪口と増税と石ころだけだ。
 鳥を始め林の動物達は、むしろ俺のお友達である。

「とにかく、すぐにお連れしなければ。責任を持って、森猫族で、黒猫族の貴方を保護致します!」
「え?」
「さぁ、一緒に馬車へ! 森猫族の国へお連れします!」
「待って下さい!」
「荷物などは不要です。全てこちらでご用意いたしますから! 中の家財等もこちらで運ばせていただきます」
「あ、あの、俺、人参を納めに行かなきゃならないから――」
「そんなものは不要です。貴方のように高貴なお立場の方が、これまで白兎族などという一平民一族に納めるべきものなど何もございません!」
「……」
「参りましょう!」
「え、でも――」

 そんなことを言われても俺は困った。
 なにせ、まるでお引越しするみたいな口ぶりだ。

「――いつ帰ってこられますか?」
「今後は、森猫族の庇護の元、暮らしていただきます。何の心配もいりません」
「け、けど、俺はここに住んでいて――」

 そう口にした時、突然、強い風が吹いた。
 髪が乱された。こんな風が吹いたのは初めてだった。
 ざわりと皮膚が泡立ち、直感的になんだか嫌な感覚がした。

「くっ――狂鼠族に気づかれたか……」
「え?」
「狂鼠族は危険です。もう猶予はない。間に合って良かった。行きますぞ!」
「え、あの、待って――」
「待てません。乱暴な真似はしたくなかったのだが――失礼します」
「!」

 そう言って、クレソンさんが――俺の首の後ろに、高速で手刀を叩き込んだ。
 俺の意識は暗転した。