【五】解読を頼まれる。




 翌朝、俺は目を覚まして焦った。お日様の高さが高かったからだ。
 畑にお水を上げなければ――と、飛び起きて、周囲を見渡し、自分が今お城にいることを思い出した。夢ではなかったのである。

 時計を見たら、もうお昼の十一時だった。
 その後顔を洗い、俺は見よう見まねで、クローゼットの服に着替えた。
 紐のリボンがうまく結べない。何度も試行錯誤していると、少しマシになった。

 ノックの音がしたのはその時だった。

「はーい」
「入るぞ」

 昨日覚えたフェンネル陛下の声に、驚いた時には扉が開いていた。
 陛下は、俺のお父様の蔵書を山のように片手で持っていた。

「聞きたいことがある。起きるのを待っていた。いつもこんなに遅いのか?」
「いつもはもっと早い。なんだかこの部屋、ちょっと寒くて毛布から出られなかったんだ」
「寒い? シュバルツの土地の冬は、このような比ではない。贅沢な話だな」

 そう言いながら、バチンと白い手袋をはめた指を陛下が鳴らした。
 俺には音以外、なんの変化も感じられなかった。
 気づいてみたら、体が震えてきた。本気で寒い。この服が薄いのだろうか?

「座れ」
「あ、はい」
「――この第二章六節の三行目からの、古代魔法の詠唱簡略化技法について聞きたい」
「えっ」
「付属の魔法陣の見本。こちらに関しても、森猫族では感知していない召喚獣の名前が刻まれている。どこの亜空間からどのような形態で呼び出すんだ?」
「……」

 俺は、フェンネル陛下が開いた本を見た。俺には模様にしか見えない……。
 正直困った。俺は、文字が読めないのだ。

「ファントムクォーツ王家の特技だったはずだ、詠唱簡略化と召喚は」
「……」
「ネル?」
「ごめんなさい……全くわからない」
「……」

 素直に言ってみたら、フェンネル陛下が、またすっと目を細めて冷たい顔をした。

「アルア期の古代語が不得手なのか?」
「……」
「仕方がない。皇室の辞書を貸してやる。部外秘の貴重な書物だ。夜までに解読しろ」
「え」
「安心しろ、大陸共用語とアルア古代語の辞書だ。六歳児でも解読可能だろう」

 陛下はそう言うと、テーブルの上に分厚い辞書らしきものを置いた。
 どこから取り出したのかはわからなかったが、フェンネル陛下がテーブルの上を叩くようにしたら出てきたのである。これに関しては、俺の家にあったものではない。

「では、また晩餐で。食事の際に聞かせてもらう」

 そのまま陛下は出て行った。呆れたような声音だった。
 残された俺は、辞書の表紙をめくってみた。
 すると、確かに見覚えのある文字が書いてあったが――やはり俺には読めない。見覚えが有るのは、村で使われていたものだからであって、俺は習っていないから読めないのだ……どうしよう、困ってしまった。

 仕方なしに、俺は元々の本の方を見た。
 魔法陣は絵だから、まだ分かる気がする。ただし、この丸い模様が魔法陣という名前だと知ったのは、たった今である。困っていたら、再びノックの音がした。

 入ってきたのは、食事を持ったクレソンさんだった。

「おはようございます。どうしたんですか? 暗い顔をして」
「……クレソンさん」
「なんです?」
「黒猫族って何なんですか? 魔法って何ですか?」

 俺が聞くと、クレソンさんが目を丸くした。
 ハムエッグの乗った皿をテーブルに置いてから、正面のソファに座り、彼は腕を組んだ。

「そうですね、お話しておきますか」
「お願いします」
「しっかり食べながら聞いてくださいね」
「はい! いただきます!」

 頷いて、俺はフォークを手にとった。

「その昔、猫獣人は、もっと全体の数は少なかったんですが、多くの種族がいたんです。三毛猫族なんて、今は0.001パーセントですが、昔はもっといた。代わりに――森猫族はいなかったんですがね」
「そうなんですか!? 嘘!」
「そうなんですよ。それで猫獣人というのは、元々が自由な気質だったらしく、まとまりがなかった」
「え!? だって森猫族の軍隊は大陸で一番統制が取れていてまとまっているって、村長様から聞いたことがあるのに!」
「――昔の話です。それである日、狂鼠族が襲ってきて、猫獣人族の三分の二が死亡しました」
「……っ」

 そのお話は、少しだけ知っていた。大昔に、怖いねずみのお化けが襲ってきて、大勢の猫獣人を殺したというお伽噺があるのだ。巨大で、灰色で、鎌を持っていると聞いたことがある。だが、本当のお話だとは思わなかった。そのねずみのお化けの名前が、狂鼠族だというのは、やはり村長様から聞いたことがあったが、誰も村では信じていなかった。

「狂鼠族は、 土人形 ゴーレム という召喚獣を使います。そして、猫獣人族には、当時召喚獣の知識はなかった」
「……」
「しかし、猫獣人の中で、唯一強い魔力を持つ黒猫族が撃退しました。少数で、莫大な数の狂鼠族を撃退したのです」
「おおお!!!!」
「さらに黒猫族の王族であるファントムクォーツ家のその代の国王陛下は、召喚獣の手法も解読し、猫獣人にも召喚獣を使用可能にしました」
「すごい……」
「ええ。まさに英雄であり、我々全員の救世主と言えます。そして彼らは、生き残った猫獣人を全てまとめました。それが、森猫族の祖先達です」
「……」
「その際に、黒猫族の王子殿下と、森猫族の初代皇帝陛下が婚姻を結んだため、長い目で見れば、ネルライト様とフェンネル陛下もご親戚なのですよ」
「そうなのか」
「はい。黒猫族と森猫族は、切っても切れない仲であり、黒猫族は猫獣人にとって神に等しい存在なんです」
「……知らなかった」
「魔力は血統遺伝のため、今でも黒猫族を祖先に持つ皇族は、森猫族全体でも抜きん出た魔力を持ちます。また、親戚関係にある貴族もそうです。とはいえ、黒猫族の直系王族には叶いません。魔法とは、その魔力をもとに行使する、言うなれば不可能を可能にする力と言えます。例えば、こうやってティカップを出現させたり」

 パチンとクレソンさんが指を鳴らした。皇帝陛下と同じである。
 そこには、オレンジの香りがするお茶が出てきた。

「け、けど、俺は魔法なんて使えない。俺は黒猫族なんですよね?」
「これから覚えれば良いのです。魔力があるのは、気配で十分よく分かる。すぐに使えるようになります」
「本当に?」
「本当です――本来ならば、お父上のネフェル様に直接……ネフェル様もきっとそうしたかったことでしょう」
「そうだ、俺のお父様は……? 生きているんですか?」
「――残念ですが」
「そうですか……」
「十六年前、狂鼠族が、生まれたばかりの貴方様の強い魔力を狙って襲ってきたのです。それを撃退し、奥様とネルライト様を逃がした際に――……偉大な方でした。あのように立派な国王陛下を見たのは初めてです」
「俺を逃がした……? 知らなかった……」
「一歳だったはずですからね。覚えていなくとも無理はありません。むしろ覚えていたら奇跡だ。ネフェル様のためにも、これからもご注意下さいね? 狂鼠族は、猫獣人の血が好物なのです。中でも多量の魔力を血液に含有している黒猫族は狙われやすい。奴らは理性と知能はありませんが、魔力を察知する能力には長けています。召喚獣操作は別として」

 その言葉に、体が震えた。また一段と室温が下がった気がした。寒い。

「ほら、手が止まっていますよ!」
「あ」
「またおいおいお話しましょう。魔法の勉強も焦る必要はない」

 クレソンさんの声に、俺は文字が読めないことを相談しようとした。
 だがその時、部屋の外から侍従さんの声がして、クレソンさんが呼ばれてしまった。
 俺は忙しそうに出て行く彼を引き止めることはできなかった。

 そのまま、必死で俺は本を眺めてみたのだが、時間だけが流れていき、すぐに晩餐の時間になってしまった……。俺が席に着くと、本日は既にフェンネル陛下がいた。

「――それで? 解読は出来たか?」

 開口一番がそれだった。俺は何か言おうとしたが、何も言葉が出てこなくて、俯いて、ギュッと太ももの服を両手でそれぞれ握った。

「陛下、解読って何?」
「ライネルにも先日頼んだ二章の件だ。六節を尋ねた」
「ああ、あの、簡単なやつ? 僕暇だったから続きも解読して、翻訳して、いつでも使えるようにしておいたんです!」
「何? 事実か?」
「はい!」
「さすがは、魔術の名手、コスモオーラ伯爵家の出自だな。それで、八問の解答はどうなった? それだけ先に聞きたい」
「良いですけど――……ネルライト様も解読したんでしょ? お仕事を奪うのは気が引けます。後が怖いですし。いじめられたりしたら、僕耐えられない!」
「……――そうか。それではネル、回答を教えてくれ」

 その言葉に、俺は泣きそうになった。

「……せん」
「何?」
「……わかりません」
「……就学直後の六歳児以下ということか。就学前の五歳児にも劣るかもしれないな」

 実際、就学していないのだから、陛下の言葉は正しいかも知れない……。

「はぁ。それで? ならば本日は何をしていたんだ? さぞかし暇だったはずだが」
「……」

 一応解読しようと頑張っていたのだが、俺は何も言えなかった。
 できなかったのだから、何もしていないのと同じである……。
 なんだかやるせなさと情けなさが募ってきたせいか、食欲が出ない。

「ごちそうさまです……」

 ポツリと俺は言った。すると隣で、クレソンさんが苦笑していた。

「陛下、きっとネル様は、まだ旅の疲れが抜けていらっしゃらないんです。お顔の色も優れませんし。私、お部屋までお送りしてきても良いでしょうか?」
「そうか。そういう事にしておこう。ソフィア、くれぐれも無事に送り届けてくれ」

 ソフィア様の優しい声に、興味がなさそうな声でフェンネル陛下は呟いたのだった。