【六】雪のバルコニー。
「大変でしたね」
「――え?」
少し歩いた所で、ソフィア様にそう言われた。
二人で歩こうと言われたので、クレソンさんもいない。
お城の中は安全だから、自由に歩いて良いそうだ。
「ライネルは正妃になろうと必死なので、貴方を目の敵にしているのです」
「……――正妃様って、そんなに凄い事なんですか?」
「大変名誉あることだとは思いますが、ライネルが正妃の座にこだわるのは、フェンネル陛下を愛しているからでしょうね」
「そうなんですか……俺、まだ男同士って実感が全然分なくて」
「仕方がありませんよ。徐々に慣れれば良いと思いますよ――そうだ、慣れるといえば、城の庭はもうご覧になりましたか?」
「庭?」
「今日から最終月ですから、ライトアップされてるんですよ。そこのバルコニーで少し眺めてみませんか? 水面に映って大変綺麗なんですよ」
「見たいです!」
こうして俺達は、近くの部屋に寄り道した。
壁と一体になっている窓を開けてバルコニーに出ると、冬の風が冷たかった。
だが、それを我慢するには十分な光景が広がっていた。
あんまりにも幻想的で綺麗で、俺はうっとりとした。
「夜のこの城の膨大な魔力は、辛くはないですか?」
「膨大な魔力?」
「ええ。私は今でも時々息苦しくなって。ほら、魔力が強いと重力が強くなったように感じるでしょう?」
「へ?」
「とてもジャンプなんてできません」
「……?」
なんの変化も感じないので、俺は試しにジャンプしてみた。
すると驚愕したようにソフィア様が目を見開き、硬直した。
「さ、さすがは、黒猫族の王族ですね……」
「え?」
「私よりも魔力が強いだなんて」
「?」
ボソっと低い声でソフィア様が言った。俺は、まずいことをしてしまった気がした。
「私、先に戻りますね。ネル様は、もう少し魔力と風景をご堪能されては?」
「え、あ、は、はい」
俺がおずおずと頷くと、さっさとソフィア様が中へと入っていってしまった。
その横顔は冷たく不機嫌そうで、優しい表情が消えていた。
一緒に行くのは怖かったので、俺はもう少し外で庭を見ていることにした。
それにしても、一気に色々ありすぎて困る。
息を吐くと真っ白だ。そう考えていたら、夜空から雪が降り始めた。
キノコの谷には、雪が降らないから、俺は初めて雪を見た。
「わぁ、すごい!」
手を伸ばすと、手のひらの上で雪が溶けた。冷たい。
なんだか楽しくなって、頬を持ち上げた――その時だった。
背後で、ガチャンと音がした。俺は硬直した。
反射的に振り返ると窓がしまっていて、施錠音が聞こた。
さらにカーテンがしまった。
「あ、外に――」
そう声を上げた時には、遠くで扉が閉まる音とそちらの鍵が締まる音も聞こえたのだった。――え!? 焦って俺は声を上げた。
「外に居ます!!」
何度かそう叫んで、窓を叩いてみたが、何の反応もない。
これ、は。
誰かに外に締め出されたような気がした。過失じゃなく、故意に……。
被害妄想であることを祈るしかない……。
まぁ、そのうち誰かが気づいてくれるだろう。
俺は、前向きに考えることにした。それまでじっくり庭を眺めていようじゃないか!
そうして――三時間ほどが経過した。
俺は震える体を両手で抱いた。朝から寒い寒いと思ってはいたのだが、ここに来て、俺は理解した。気温ではなく、寒気だったみたいなのだ。なにせ今は、体が震えるのに、ひどく熱い。寒いのに熱いのだ。
雪は次第に大きな綿雪になり始めた。それを眺めながら、俺は必死で手すりに体をあずけて、体勢を保とうとした。これはまずい。俺は、風邪をひいていたみたいだ。明らかにそれが、外にいるせいで悪化している。
「誰か……」
何度目なのかわからない声を上げたが、誰も気づいてくれない。
だんだん、窓を叩く気力がなくなり始めた。
ため息をついて、正面の塔を見た。そうだ、向こうからこちらの部屋が見えるかも知れない。そう気づいて明かりの灯っている部屋を探したら、唯一カーテンが空いている部屋に――フェンネル様の姿が見えた。執務中のようだった。どうにかして、こちらに気づいてもらえたら、助けてもらえるかも知れない。
そう思って、俺は周囲を見回した。そして、片隅にゴミ箱があるのを見つけた。開けるとなかに、紙くずが入っていた。俺はそれを取り出して、フェンネル様のお部屋の方に向かって投げた。朦朧とした意識では、窓に当たると確信していたのだが、すんなりとそれはすぐそばの地面に落下した。――だが。
フェンネル様が、その動きに気づいたようで、顔を上げた。
目があった。助かった……!?
そう思って俺は目を見開いたのだが、少ししてから、冷めた顔をしたフェンネル様は、さっとカーテンを閉めた。……俺が締め出されているとは、全く考えていないようだった。それはそうか。お城は安全であるはずだからな。
それからまた二時間ほどたった。時刻は、時計塔の鐘の音で分かる。
もう夜中だ。
立っていられなくなり、俺はついに、床に膝をついた。
手すりを持っていたのだが、ズルズルと体が倒れた。
ギギっと音が響いた気がしたのはその時だった。その方向を見ると、正面で、フェンネル様のお部屋の窓が空いているのが見えた。今度は、フェンネル様がハッとしたような顔を見た気がしたが、俺はもう何も考えられず、そのまま倒れた。
「ネル、ネルライト! 大丈夫か!?」
次に目を開いた時、俺は、窓の開いたバルコニーで、フェンネル様に抱き起こされていた。喉が少し傷んで、咳が出た。頭がボーっとする。
「……」
「どうしてこんな所に? なぜ鍵が――……それに、この熱は何だ? いつから熱があった? この短時間でこれほど高熱になるとは思えない」
「……」
「っ、立てるか?」
「……」
俺がぼんやりとしていると、フェンネル様が息を飲んだ。そして俺を両腕で抱き上げた。俺は目を閉じてされるがままになった。
「首に手を回してくれ。部屋まで送る」
「……」
小さく俺は頷いた。頭痛がして、グラグラと視界が揺れるから、きつく目を閉じた。
それからお部屋に連れて行ってもらい、ベッドに下ろしてもらった。
「すぐに医者を呼ぶ――ネル? 大丈夫か?」
俺は、そのまま眠ってしまった。
目を覚ましたのは、朝の光の中だった。少し気分が良くなっていた。
ゆっくりと起き上がろうとしたら、隣にいたフェンネル様がこちらを見た。
本を読んでいたらしい。
「具合はどうだ?」
「あ……だいぶ楽だ。付いていてくれたんですか?」
「まぁな」
俺は、何とも言えない気持ちになった。
風邪をひいてもいつも一人だったので、どのようにお礼を言えば良いのか分からなかったのだ。なにせフェンネル陛下は非常に多忙なはずだからだ。
「どういう経緯であそこにいたんだ?」
俺はソフィア様の事を言おうか迷ったが、彼が犯人とも限らないので、言葉に迷った。
「ちょっと……ライトアップされた庭を見ることにして」
「……」
嘘ではないが濁して言うと、陛下が探るような瞳をした。
「まぁ良い。調べればすぐに分かる事だ――それはそうと、この本、解読しようとした形跡があるが、本当に分からなかったのか?」
フェンネル様が、魔法陣のページを開いた。そこには、俺が魔法陣を紙に書きとった落書きが挟まっていた。恥ずかしい……。
「……わかりませんでした」
「では、どこまで分かった? 逆に、どこが読めなかったんだ?」
「俺……文字が読めないんです」
「っ、何だって?」
「学校に行ってなくて……」
「家庭での手習いなどでも、全く習わなかったのか?」
「うん……お母様も文字が読めなくて……学校に行ったら覚えられるって……」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿で悪かったな……」
「違う! お前の母親は、エルライト様だろう?」
「え? お母様を知っているのか?」
「ああ。非常に優秀な魔法使いだった。俺の姉弟子だ」
「えっ!?」
「まさか、狂鼠族の呪いがかかっているのでは――……すぐに調べ……いや、まずは体を治せ。その……」
「呪い?」
「可能性の話だ、今は忘れろ。それより、その――」
「?」
「悪かったな」
「え?」
「――なんでもない。なぜもっと早く言わなかった。もういい、目が覚めて何よりだ。俺は仕事に戻る。後でまた医者をよこす」
そう言うと、顔を背けて、フェンネル陛下は出て行ってしまった。
結局俺は、お礼を言いそびれたのだった。