【八】公爵の来城。
以来俺は、文字の勉強を昼間は一人でしながら(召喚獣は、フェンネル様がいないと何も話さない)、夜を待つようになった。晩餐の後、少ししてから陛下は俺の部屋に来て、文字について少し教えてくれる。同時に薬を塗ってくれるのだ。
お城に来てから一週間以上が過ぎたからなのか、俺はこの暮らしに少し慣れた。
慣れたというのは、あくまでも、お城にいるという事実を受け止めただけで、朝起きた時に驚かなくなったという程度の話だ。やはり、こんな風に豪華な暮らしは、俺には恐れ多い気がしてならない。帰ったほうが良い気がする。
そこで、皇帝陛下に話してみることにした。最近は少しずつ話をするようになったのだ。俺は、彼にも少し慣れた。
「あの、フェンネル様」
「なんだ?」
「そろそろキノコの谷に帰ろうと思うんだ」
するとフェンネル陛下が、眉間に皺を刻んだ。
「何か不都合でもあるのか?」
「無いけど……ここは、お城だし」
「城に住むのが嫌なのか?」
「嫌というか、その――」
「春になったら好みの邸宅を建築する事は易い。ただし、この厳冬の最中には難しい注文だ。雪について言うならば、そうだな、白兎族の集落まで馬車を出すのすら困難だ」
「え」
「国内の舗装された道でも、通常の3倍は移動に時間がかかる。不満があるのならば、出て行く以外の手法で解決を」
「不満はないです!」
「――そうか」
そんなやりとりをすると、少しだけフェンネル様が安堵したような顔をした。
なお、俺は一週間程度で、絵本を読めるようになった。
お伽噺は、元々内容を知っているから、推測しながら読むこともできて、俺の中で読みやすいものの一つとなった。
さて――そうして、最終月の最初の二週間が終わった。
残りの二週間は、大陸共通で、聖夜祭の期間となる。
その後はカウントダウンを挟んで、新年となるのだ。
明日から聖夜祭期間となる日の夜だった。
「ネル、明日、客人が来る。しばらくの間、滞在が決まっている」
「客人?」
「リヴァーキャット公爵と言う。挨拶に来るだろうが、それ以上はあまり関わるな」
いささかフェンネル様は、不機嫌そうだった。
あまり好きなお客様じゃないのだろう。
俺は、皇帝陛下よりもさらに怖い人を想像して、緊張してしまった。
「分かった」
「ああ、それで良い」
頷いたフェンネル様を一瞥し、俺もまた頷いた。
それから何とはなしに窓の外を見た。今日も雪が降っている。
これのせいで馬車が出ないとは言うが、生まれて初めて雪に接しているから、俺は雪を見ているのが好きだった。
「どうかしたのか?」
「――雪をずっと飾っておけたら良いのにと思って。春には溶けちゃうんだろ?」
「俺は溶けることを願うが――確かに、綺麗だな」
そんな話をして、その日は別れた。
翌朝、俺は部屋に借りてきてあった絵本を全て読み終わった。
書庫に行くと、もっと沢山の絵本があるから、いつでも自由に借りて良いと言われている。行ってみようと俺は決意した。肩には召還獣のクラウゼンがいる。安全だ。
一人と一匹で、赤い絨毯が敷かれた廊下を歩く。
約三十分ほど歩いた時、階段の踊り場で、肖像画を見上げている人物を見つけた。
緑色の外套の肩に、雪が少し付いていた。
思わず立ち止まると、青年がこちらに気づいた。
俺は目を見張った。
金色の髪をした背の高いその人は、フェンネル様と同じでエメラルドによく似た瞳をしていた。だけど、目の形が違うからなのか、与える印象が全く違う。こちらを見て優しそうに微笑んだ青年に、俺は小さく息を飲んだ。
「――もしかして、ネルライト様?」
「あ、はい……」
「はじめまして、スピネルと言います。お会いしたかったんだ――けど、まさか、こんなにお綺麗な方だとは……あ、すみません、ぶしつけで」
「綺麗? それは、そっちだ……」
「照れるなぁ」
俺たちはそんな不可思議なやり取りをした。
スピネルさんは、気さくそうだった。
俺とフェンネル様の間くらいの年で、二十歳前後くらいだと思う。
「スピネルさんは、今お城に来たんですか?」
「スピネルで良いよ。うん、そう。聖夜祭だからね、今は、城にも客人が多いだろ?」
「みたいだ。朝から馬車が沢山来てる」
「三分の二は、ネル様を見に来てるんだと思うな。俺もそうだけど」
「俺、見ても面白くないぞ?」
「目の保養には十分すぎて、噂はバカにできないって思ったけどな、俺は」
「?」
「まずいな、俺、緊張してきて変なこと言ってる自信がある」
「緊張? 黒猫族だからか?」
「そうじゃなくて――可愛い美人を見たら、ドキドキするでしょ、普通」
スピネルは面白い人だなと俺は思った。
その時――後ろから、グッと腕を回されて、抱き寄せられた。
驚いて息を呑み、咄嗟に振り返ると、そこにはフェンネル様が立っていた。
……ものすごく不機嫌そうに見えた。なぜなのか、ちょっと焦っているようにも見える。
「近づくなといっただろうが」
「え?」
「ひどいな、そんなことを言ったのか?」
「当然だ。ネルは俺が保護している大切な客人だ。手を出したら許さない」
苛立つようにフェンネル様が言うと、スピネルが苦笑した。
「変わらないなぁ、久しぶりに会ったのに――うん、久しぶりだね、兄さん」
その言葉に、俺は驚いた。兄さん、と、言った。
つまり、兄弟ということだろうか!?
そういえば、瞳の色が同じだと、つい先ほど思った。
「俺はお前を弟だとは思っていないし、会いたいとも思っていなかった。くれぐれも大人しくしていろ。そしてさっさと帰れ」
「相変わらず冷たいね。久しぶりの弟に対して」
「黙れ」
兄弟みたいだというのに、二人の間には、険悪な空気が漂っていた。
いつも以上にフェンネル様が冷たく見える。
スピネルは悪い人には見えないのだが、何故仲が悪いのだろう?
「ネルはここで何をしているんだ?」
「新しい絵本を借りようと思って――」
「……何を借りたいんだ?」
「聖夜のお話を聞いたことがあるから、探してみようかなって……」
「――『聖夜のロウソク』か?」
パチンと手袋がはまった指をフェンネル様が鳴らすと、絵本が降ってきた。
俺は慌てて受け取った。
「部屋に戻れ」
「は、はい! ありがとうございます」
頷いた俺から手を離し、フェンネル様が改めてスピネルを睨めつけた。
「お前は客間に行け。別の道を通ってな」
「随分と過保護なことだね」
「うるさい」
なんだかその場の空気が怖かったので、俺は会釈して部屋へと戻った。
そしてソファに座って絵本を開きながら、兄弟なのに仲が悪いという場合もあるのかと不思議に思った。俺は一人っ子だから、兄弟に憧れていたのである。