【九】少し親しくなる。



 絵本の文字と、『あいうえお』の表を見比べながら、俺はお話を読んだ。このお話は、クロルという少年が、金色の瞳をした言葉を話す鳥と聖なるロウソクを灯すお話だ、というのは、小さい頃にお母様から聞いたから知っている。ロウソクに火が灯り、獣人の世界に鳥の世界の知識がもたらされたというお話で、それが新年間近の聖夜の日だったそうだ。

 ただ、覚えていても、読むのは難しい。
 並行して、文字を書く練習をしながら、俺は頑張ろうと再決意した。
 しばらく練習していると、午後の三時になった。

 コンコンとノックの音がしたから、誰かがお茶を持ってきてくれたのかなと思った。
 たまに休憩に、クッキーをクレソンさんが持ってきてくれるのだ。
 侍従の人がケーキを持ってきてくれることもある。

 返事をすると、扉が静かに開いた。顔を上げて、俺は小さく息を飲んだ。

「朝は、どうも。きちんとご挨拶できなかったから。お邪魔しても良い?」
「ど、どうぞ!」

 入ってきたのは、スピネルだった。スコーンの乗ったティスタンドとポットを乗せた銀の盆を持ったスピネルは、微笑すると正面のソファに座った。色とりどりのジャムとマカロンも乗っている。甘い香りが漂った。

「王都の菓子店から買って持ってきたんだけれど、良かったら」
「美味しそうだ……」

 まるで宝石みたいなお菓子に、俺の目は釘付けになった。
 思わず唾液を飲み込む。笑顔で、スピネルは、ティカップにミルクティを入れてくれた。

「――お勉強中だった?」
「うん。今、文字の勉強をしてるんだ」

 伝えてから、この年になって文字というのは、恥ずかしいかなと俯いた。
 ただ、俺の中では、勉強できるということは誇らしいのである。
 馬鹿にされるかなと思って、チラっと見たら、俺の書き取り練習の紙を、まじまじとスピネルが見ていた。

「ここ、『の』と『る』が、逆向きになってるよ」
「あ」
「俺で良かったら、教えようか?」
「え!? 良いのか?」
「勿論」

 穏やかに頷いたスピネルが、万年筆を取り出した。肉球と蔦を模した家紋が刻まれている豪華な万年筆だった。それから晩餐の直前まで、俺は文字を習った。絵本の文章を書き写したり、それから初めて聞く『文法』というものも習った。また、「俺」や「私」は「主語」というと知った。

「よし、今日はここまでにしよう。また明日、続きをやろう」
「本当にありがとう! ああ、お腹が減った! 丁度晩餐の時間だ」
「そうだね。俺は部屋に戻るよ。また」

 頷いて、俺はスピネルを見送った。
 てっきり晩餐のための着替えなどの準備で一度部屋に戻ったのだと思ったのだが――晩餐の席には、彼の姿は無かった。

 その日から、俺は日中、スピネルに文字を教えてもらったのだが、一度も晩餐の場で彼を見たことはない。

 晩餐後の夜は、フェンネル様に文字を習っているから、聞いてみようかと思ったのだが、なんとなくためらわれた。なにせ、日中にスピネルが置いていった紙の筆跡を見ただけで、顔をしかめる事があるからだ。俺に直接何か言ってきたりはしないし、文字の勉強はすべきだと言ってくれたが、やはりあまり弟が好きではないらしい……。

 せっかく家族がいるのだから、仲良くしたら良いと思ったが、色々と複雑なのかもしれない。俺は、その件についてはあまり考えないようにして、お勉強に集中した。


 ライネル様からお茶会に招待されたのは、そんなある日のことだった。
 お城の温室をライネル様が管理しているそうで、そこでお茶会をするのだという。
 初めての御呼ばれに、緊張しながら、俺は出かけた。

 約束の午後二時の十分前に、教えてもらった温室へ行くと、少しだけ扉が開いていた。
 中には、既に来ていたソフィア様とライネル様の姿が見えた。
 俺は遅かったみたいだ。入ろうと、俺が一歩前へと出た時だった。

「――どうせ、バルコニーに締め出したの、ソフィア様なんでしょ?」
「なっ」
「本当に見た目に反して腹黒いですよね!」
「言いがかりは止めて下さい!」
「言いがかり?」
「大体、それはあなたではないのですか?」
「は!? そっちこそ変な言いがかりは止めて!!」

 二人は口論していた。俺は息を呑んだ。
 どうやら、俺が締め出された時の話をしているようだった。
 これでは、入りづらい。確かに俺も犯人は気になるが、困ってしまった。

 ――そうだ!
 思い立って、俺は近くの壁をコツンと叩いた。
 わざと物音を立てて、俺が来たことにそれとなく気づいてもらうことにしたのだ。

 するとピタリと会話が止まった。俺はほっとした。
 それから大きな足音を立てて、扉へと向かった。扉もなるべく大きな音がするように開けた。中を見ると、慌てたようにふたりが笑顔になった。

「ようこそ。時間ぴったりだね。早く来るくらいの気遣いがあってもいいんだけど」
「ご、ごめんなさい!」
「ライネル、時間は守る方がマナーとしては正しいのです。さ、ネル様、おかけください」
「僕の温室なのに仕切るのやめてもらえます?」
「ここは城の温室です。貴方は管理をしているだけでしょう?」
「フェンネル様から直接任せてもらったのは僕だよ!」
「っ――そうですか。はぁ……私、気分がすぐれなくなったので、帰ります」

 そう言うと、ソフィア様が立ち上がった。そして「失礼します」と言って、いなくなってしまった。呆然と見送っていると、「座れば?」と、今度はライネル様に促された。だから俺は、おずおずと席に着いた。

 白い薔薇やコスモスが咲いていた。様々な季節のお花が咲いている、不思議な温室だった。俺がキョロキョロしている前で、ライネル様は、レモンティを入れてくれた。

「なぁ、ライネル様」
「何?」
「どうして冬なのに、紫陽花が咲いてるんだ?」
「ああ、僕の魔法だよ。そんなこともわからないの?」
「魔法ってすごいんだな!!」
「……一応嫌味を言ったんだけど、流されると拍子抜けする」

 なぜなのか深々と息を吐き、それからライネル様は、俺にマフィンの入ったカゴを差し出した。お礼を言って受け取ったチョコレートマフィンは、すごく美味しい。

「危機感とかはないの?」
「へ?」
「もしもそれに毒が入っていたらどうするの?」
「え!?」
「僕だったら、危ないから、毒見魔法を使ってから食べるけど」
「……」
「勿論、チョコチップしか入ってないから安心して」
「よ、良かった……!」

 硬直したあと、俺が肩から力を抜いて脱力すると、ライネル様が呆れたように笑った。

「そういえば最近、スピネル様と仲が良いみたいだね」
「ん? ああ、文字を教えてくれるんだ」
「ふぅん。まあ、スピネル様も、話し相手がいないだろうから丁度良い暇つぶしなんじゃない?」
「そうなのか? 宿泊中は、お客様は暇なのか」

 俺が内心納得すると、ライネル様が目を細めて笑いながら首を振った。

「違うよ、あの髪の色、見なかったの?」
「髪の色? 金髪だ」
「――本来、皇族は、フェンネル様と同じで、世界樹の幹の色と同じ腐葉土色なのにね」
「……? どういう意味だ?」
「実のご兄弟のはずなのに、どうして金髪なんだろうね? 顔も似てないし。瞳の色は、あれは前正妃様の色だけど――前皇帝陛下は、フェンネル様と同じ髪の色だし、正妃様も茶髪だったんだけどなぁ。両者ともに、家系に金髪なんて一人もいないのにね」
「え?」
「早々に養子に出されてさ、引き取ったリヴァーキャット公爵家は、代々金髪の家系。前のご当主様は、正妃様とさぞ仲が良かったし?」
「……」
「皇位争いまでしていたからね、血筋も疑わしいのに」
「え……」
「ネル様のことを篭絡したら、皇位に改めて近くなるっていう下心もあったりして?」
「なっ」
「なにせネル様は、黒猫族の王族だし?」
「え!? 俺!? 俺にそんな力はないけど……」
「知らぬは本人ばかりっていうよね。ま、とにかく、あんまり近づかないほうがいいよ」
「悪い人じゃないと思うんだけどな……」

 思わずつぶやくと、ライネル様が嘆息した。

「だけどみんな噂してるよ。森猫族の恥の象徴だって」
「ひどいだろ……」

 なんだか俺は可哀想になってしまった。
 俺もよく、白兎族の面汚しと言われたからかもしれない……。
 話し相手がいなくて暇だったのも、俺も同じだ……。

「大体、ああいう誰にでも優しいというか、軽薄なタイプが僕は嫌いだね。あんなのが皇帝陛下にならなくて本当に良かった。フェンネル様以外に皇帝陛下に相応しいお方なんて存在しないしね。それに関しては、血筋の正当性だけじゃなく、お人柄!」
「人柄……」
「そう! 優しくて人望があって、理知的で、冷静沈着で、有能で! 大好き! 仮に正妃になれなくて、側妃になったとしても、僕は一生ついていくし、お慕いしているんだ!」
「――ライネル様は、本当にフェンネル様の事を愛しているんだな」

 思わず俺が率直な感想を述べると、ハッとしたように、ライネル様が赤面した。

「わ、悪い!?」
「悪くない」
「う、うん……――そういうネル様はどうなの?」
「へ?」
「毎晩フェンネル様は、ネル様の所に行ってるって聞いたけど」
「うん、文字を教えてくれるんだ」
「――それだけ?」
「たまに夜食を魔法で出してくれる」
「へ、へぇ。その、だ、だから――……一緒に寝たりはしないの?」
「? 俺は、もう小さい子供じゃないから、一人で眠れるけど」
「ああそう」

 俺が首をかしげると、ライネル様がこめかみを指でほぐした。

「そうだ――文字といえば、これ」

 その後、そう言ってライネル様が指を鳴らした。
 すると隣にあった銀色のトレーの上に、大量の本が出現した。

「僕からの聖夜のプレゼント。どうぞ。あげるよ。僕も昔使ってた、古代語を覚えるための文献」
「えっ!?」
「魔法を使うには、どのみち覚えることになるしね。その――僕も教えてあげないことはないからね」
「ありがとう、ライネル様」
「うっ……素直に僕相手にお礼を言う人なんてなかなかいないから調子が狂う……ああ、もう! それと」
「?」
「ライネルで良いよ。いちいち、様とかつけなくて。僕もネルって呼ぶから」

 なんだかライネル様――……ライネルは照れていた。
 俺は、ちょっと仲良くなれた気がして嬉しくなった。
 性格が悪そうだと思っていたのだが、必ずしもそうではないのかもしれない。

「うん、分かった。ありがとう、ライネル」
「どういたしまして」
「俺も魔法を覚えたら、年中、季節を問わずに、野苺を育てられる?」
「――まぁ可能だよ。ただ、この温室みたいにするには、美意識がないとね。僕みたいに」
「確かに綺麗だ」
「……は、恥ずかしい――! なんでさらっとそういうことが言えるんだろう、信じられない!」
「ライネルはお花が好きなのか?」
「うん、まぁね。眺めるのも好きだし、育てるのは趣味かな」

 それからしばらく二人で、温室の花を眺めた。