【十】庭へ。



 翌日からも、日中はスピネルに文字を習った。
 俺は正直、来るのが待ち遠しかった。話していると楽しいのだ。
 まるでお友達ができたみたいだ。実際、友達になれていたら嬉しい。

 俺はペンだこを眺めながら、吐息した。友達ができるのは、初めてだ。
 その時、ノックの音がした。

「おはよう、ネル」
「おはよう!」
「今日も可愛いね」

 隣に座りながら、スピネルが冗談めかして笑った。
 スピネルはいつもこういう事を言う。
 それから絵本の書き取りを始めた。同時に、スピネルから、森猫族の国の、色々な美味しい食べ物のお話を聞く。スピネルの趣味は旅行らしく、今度連れて行ってくれるそうだ。スピネルは優しい。白身魚のムニエルについて聴きながら、俺はスピネルを見た。

 笑顔も優しそうだ。俺は、スピネルといるとほっとする。
 そう思って集中力が途切れていたのか、ノートをめくったら、紙で指を切ってしまった。

「痛っ」
「あ! 大丈夫か?」

 慌てたように、スピネルが俺の手を取った。そして――指を口にくわえた。
 驚いていると、血を舐めとった後、スピネルが心配そうに俺を見た。

「気をつけてね」
「うん」

 頷くと、苦笑してから、スピネルが俺の頭を撫でた。大きな手だ。
 どうして――こんなに優しくていい人なのに、フェンネル様とは仲が悪いんだろう。
 ライネルの話によると、他の大勢の人とも仲が良くないようだ。
 ただ、確かにあんまりフェンネル様とは似ていない。
 なにせ、スピネルは、優しい! 意地悪なことも言わない。それでも――……

「フェンネル様とは兄弟なんだよね」

 俺は思わずつぶやいてしまった。その後で、ハッとした。
 スピネルが、少しだけ俯いたからだ。

「何か聞いたの?」
「え、あ……あの」
「――別に大丈夫だよ。俺は、ね。ただ、ネルが嫌なら、もう来ない」
「そんなことない! 来ないほうが嫌だ」
「ありがとう」

 俺の言葉に、顔を上げて、スピネルがはにかむように笑った。
 それから細く長く息を吐いた。

「昔からねぇ――この髪の色のせいで、あまり周囲には快く思われていないんだ」
「……」
「好きで金髪に生まれたわけじゃないんだけどね」

 苦笑したスピネルを見て、気持ちが痛いほどわかる気がした。
 俺の三角形のお耳と、彼の金髪は多分同じなのだ。
 こんなに綺麗な色の髪の毛なのに……なんだか、俺は涙が出そうだった。

「嫌われることにも蔑まれることにも、いい加減慣れたけどね。それにいちいち悩んでいたら、人生つまらないし、損だから。楽しまないとね」
「スピネル……」

 しかしスピネルは、俺よりも、ずっと強いと分かった。

「世間では、俺が皇位を狙っていたなんても言われているけど、そんな事実はないんだ。だって、皇帝陛下になったら、忙しくて旅にも行けないだろう? 俺は、兄さんみたいな仕事中毒者じゃないんだ」
「そうか」
「うん。見ているこちらが心配になるくらい、兄さんは働き者だからね」
「――スピネルは、フェンネル様が嫌いじゃないんだな」
「まぁね。たった二人の兄弟だから。俺は、兄さんが好きだよ。もっとも、兄さんは俺が嫌いみたいだけど」
「……」
「けどね、そこまで嫌われていない気もするんだ。あの人、素直じゃない人だから」

 そう言って吹き出すようにスピネルが笑った。
 俺は、思ったよりも険悪ではないのかなと思って、少し安堵した。
 何にホッとしたのかはわからない。
 やっぱり、家族同士は仲良しがいいと思っただけかもしれない。

「ただ、俺ね」
「うん」
「――ネルの事はもっと好きだ!」
「!!」

 スピネルが俺をギュッと抱きしめた。そして髪を撫でた。
 俺はびっくりした。自分とは違う体温に驚いた。動揺してしまう。
 お母様以外に抱きしめられたことなんて無いのだ。
 あからさまに俺は照れてしまった。
 すると耳元で、「可愛い」と囁かれた。その吐息がくすぐったい。

「何をしているんだ?」

 そこに――凍てつくような声が響いた。俺はびくりとして顔を上げた。
 見れば、音もなく開いていた扉のところに、フェンネル様が立っていた。
 非常に冷たい眼差しで、こちらを見ている。

「見て分からない?」

 すると睨み返すようにフェンネル様を見ながら、スピネルが笑った。

「とても勉強しているようには見えないな」
「ネルを抱きしめてるからね」
「早急に離れろ」
「嫉妬?」
「ふざけるな」

 スピネルの軽口に、不機嫌そうにフェンネル様が扉を拳で殴った。
 激しい音に、俺はびくりとした。

「俺が保護している黒猫族の王族に不埒な真似をするな」
「――俺が、ね」
「皇帝としての当然の義務だ。なんの含みもない」
「含みがあるなんて言ってないんだけどなぁ」
「とにかく離れろ。仮にも間違いを起こして、森猫族の皇室の評判を貶めたら、どう責任を取るんだ!?」
「間違い? 悪いけど俺は本気だから、あやまちにはならないよ」
「なんだと!?」
「いくら好敵手が兄さんでも、譲れないこともあるんだ。ここ数日一緒にいて、俺は正直ネルに惹かれている」

 そう言うと、俺を抱きしめ直して、スピネルが――頬にキスしてきた。
 触れるだけのキスだった。俺はポカンと口を開けた。
 すると駆け寄ってきたフェンネル様が、俺を奪うように引き離して、スピネルを睨みつけた。部屋の気温が下がった気がした。

「出て行け!」
「――はぁ。分かりましたよ……――またね、ネル」
「う、うん」

 俺は、出ていくスピネルを見送った。それから俺を腕で挟んでいるフェンネル様を見た。フェンネル様は、今度は俺を睨んでいた。

「スキを見せるな」

 そしてそう言うと、不機嫌そうな顔のまま、俺の頬を指で拭った。
 それからため息をつき、フェンネル様も出て行ったのだった。
 お昼にお部屋に来るのは珍しいな、だなんてふと思った。


 次の日は、スピネルはもしかしたら来ないかと思ったが、少し遅れてやってきた。
 ほっとしたのが半分で、もう半分は、昨日ほっぺにキスをされたから緊張していた。
 スキを見せないようにしなければ! ああいうことは、お嫁さんとするのである。

「ねぇ、ネル。今日はさ、お勉強をお休みにしない?」
「おやすみ?」
「そ。少し庭に出てみないか?」

 俺は、その提案に目を大きく開けた。実は一度外に出てみたかったのだ。
 それから俺は、スピネルに手伝ってもらって、コートを着て、マフラーをつけた。
 茶色い手袋もはめた。肩には、いつもどおり、クラウゼンがのっている。

 二人と一匹で外に出て、水で溶けている道を歩き、それから少しして、雪道に入った。
 雪を踏むと、足跡がついて面白い。
 自然と笑顔が浮かんできた。スピネルが丸く固めた雪を投げてきたので、俺も雪玉を作って投げ返した。楽しい。木々の合間を抜けながら、そうやって遊んでいると、少ししてクレソンさんがやってきた。

「スピネル様、公爵家から魔法通信が入っておりますよ!」
「え、なんだろう?」
「新年行事の件だと伺っておりますよ」

 その言葉に、スピネルが頷いた。

「ちょっと行って来ないと」
「わかった。俺、もう少しここにいたいから、待ってても良いか?」
「うん、わかった。なるべく早くもどるから」

 そうして、スピネルとクレソンさんが、足早に城の方へと歩いて行った。
 一人残った俺は、木々の合間をもう少し進んでみることにした。
 やはり、外の空気を吸うと、気分が良い。
 考えてみると、ずっとお部屋の中にいたのだ。

 その時――さらに奥の木々の合間に、小さな野狐を見つけた。白い!
 雪と同じ色だと思って、まじまじと見ると、なんと足を怪我しているようだった。
 赤い血が見えた。なんということだ!

 俺は慌てて走った。雪道は走りにくい。
 駆け寄って、小さな野狐を抱き上げた。手袋越しにも暖かいのが分かる。
 小声で、野狐が鳴いた。手当をしてあげなければ――そう思った時だった。

 背後で嫌な気配がした。木々が一斉にざわついた気がした。
 ……え?
 体が硬直した。勝手に冷や汗が出てきた。俺は、無意識に、危機を感じていた。
 恐る恐る振り返る。

 するとそこには、巨大な体躯の、暗いローブをまとい、長い鎌を持った鼠――狂鼠族の姿があった。まるで死神のような姿で、クマよりも大きい怪物が、宙に浮かんでいた。絵本の挿絵ソックリだった。どうして、城の中に? 安全なんじゃなかったのだろうか?

 鎌が振り上げられた。俺は野狐をギュッと抱きしめた。
 あ、死ぬ……そう思った。