【十三】恋の自覚。




 この日から――俺は、フェンネル様を見ると赤くなるようになってしまった。
 今も、晩餐の席で、顔を上げられない。食事を終えて、仕事に戻るためにフェンネル様が席を立ってから、俺はやっと一息つけた。

「「……」」

 するとライネルとソフィア様が顔を見合わせる気配がした。

「なーんかさ、聖夜の日から、いきなりネル、色っぽくなったよね」

 ライネルが不意に言った。俺は驚いて顔を上げた。

「良い事ではありませんか。私の手腕です」
「は? ソフィア様、また何かしたの?」
「また、とは、どういう意味です?」
「別に。ただの言葉のアヤですー」
「ただ――確かに、ぽかんとするほど色気がありますね……私でさえグラっときそうです」

 二人はそんなことを言い合ってから再び俺を見た。
 なんだか恥ずかしくなって、俺は席を立った。

 ――今も、フェンネル様は、変わらず夜、俺の部屋に来る。
 そして文字を教えてくれる。だが、最近は、必ず帰る前に俺を抱きしめて、キスをするようになった。フェンネル様は、それ以外は前と変わらずいつも通りなのだが、俺はいちいちドキドキしてしまう。顔が熱くなるのだ。


 さて、もうすぐ年の瀬だ。俺は窓の外に降りしきる雪を眺めながら、吐息した。
 そうしたら、絵本よりも少し難しい童話を開いていたスピネルが俺を見た。

「――確かに色っぽくなった」
「へ!? な、なんだよ急に」
「城中で噂されてるから。俺の耳にまで入った」
「……」
「嫉妬する」

 スピネルの言葉に驚いて顔を上げた瞬間、腕をひかれた。そしてすっぽりと抱きしめられた。スピネルは俺に抱きつくのが好きらしい。だが、この日は、いつもよりもギュッと強く抱きしめられた。そして耳元で囁かれた。

「兄さんと何かあった?」
「っ」
「そうなんだ。兄さんのことが好きなのか?」
「えっ、あ、いや、その――」

 俺が動揺していると、さらに腕に力がこもった。

「――俺は、ネルのことが好きだよ」
「え!?」

 突然の声に、俺は思わず声を上げた。今までにも何度か言われたのだが、その時とは違い、真剣な声だったのだ。これまでは、友情の「好き」だと思っていたのだが、今回の言葉は、それとは違うものに聞こえた。

「一目惚れだった」
「……」
「話せば話すほど好きになった」

 スピネルはそう言うと、俺の頬に手を添えた。静かに撫でられる。
 そして顔が近づいてきた。直感的に、キスされると思った。
 俺は押し返そうとしたのだが、力強い腕が俺を拘束していた。

「待っ――」

 言いかけてから、俺はギュッと目をつぶった。こういうのは、よくない!
 混乱していた、その時だった。

「っ、うわ!! ちょ、クラウゼン!!」

 バサバサバサと音がして、俺の肩から飛び上がったクラウゼンが、スピネルの顔を嘴でつついた。目を開けた俺の前で、今度はスピネルの頭を攻撃し始めた。

 た、助かった……俺は、安堵の息を吐いた。
 そう思って、何気なく窓の外を見たら、フェンネル様とソフィア様が歩いているのが見えた。見守っていると、俺の視線に、クラウゼンの攻撃から逃れたスピネルが気づいた。

「あ、兄さん達だ」
「うん」
「正妃の件の話し合いかな。あのふたりは、密談するとき、いつも薔薇園を歩いてるから」
「そうなのか。正妃の件?」
「そう。年明けに発表なんだ――まぁ、ソフィアで決まりだろうな。元々最有力候補だしね。なにせ、王国一番の魔力の持ち主だから」
「ソフィア様が?」
「そりゃあネルから見たら大したことのない魔力かもしれないけどね」
「いや、そういう意味じゃない。普通にすごいなって思ったんだ」
「ネルは良い子だね。向こうはネルが来て焦ったと俺は思うけどな」
「……」
「皇室は、魔力を強めるための婚姻が多いんだ。代を経るたびに、血が薄まって、森猫族の魔力は弱まっているから、今後、狂鼠族のような脅威と再び戦争になったら困るんだ。そのためにも、より強い子供が必要みたいなんだ」
「戦争……」
「奴らはいつ襲って来るかわからないからな。それに――ソフィアは兄さんの幼馴染で、兄さんもソフィアに対しては、態度が違う。あきらかにね。対等というか、話しやすそうなんだよね。俺は、兄さんは、ソフィアが好きなんじゃないかと思うな」
「……そうなんだ」
「そう。俺はその点、ネル一筋だよ」
「な、何言ってるんだよ!」

 俺は、冗談めかして笑っているスピネルを軽く叩いた。
 ただ、胸の奥が少しざわついた。
 俺は――フェンネル様に「好きだ」と言われたことはない。
 好き同士の相手がするようなキスをしているというのに、一度もない。
 そう考えてから、ふと思った。俺自身は、どうなんだろう?

 好きな人、と、心の中でつぶやいた。そう考えた時、真っ先に思い浮かぶのは、フェンネル様だ。改めて庭を見た。親しそうに歩いている二人を見る。フェンネル様がソフィア様を好きだと思ったら――なんだか悲しい衝撃が、胸を襲った。

「……ネル?」
「……」
「ごめん、悪かったよ。そんな風に悲しそうな顔をしないでくれ」
「……」
「嫉妬して、意地悪なことを言っただけだよ」

 スピネルはそう言って苦笑したのだった。
 慰めだろうと俺は思った。心の中がもやもやした。

 ――こういうのは、良くないと思う。
 俺はその日の夜、やってきたフェンネル様に、直接話してみることにした。

「フェンネル様」
「どうした? どこか分からないのか?」
「わ、分からないことがあります!」
「どこだ?」
「フェンネル様の気持ちだ!」
「――何?」

 俺の声に、フェンネル様が虚を突かれたような顔をした。

「俺、フェンネル様が好きみたいなんだ」
「っ」
「フェンネル様は、俺をどう思ってるんだ?」
「……」
「どうして、俺にキスするんだ?」

 俺が率直に聞くと、フェンネル様は静かに吐息した。

「――年明けに、正妃となる者と婚約することになっている」
「……うん」

 思わず俺は俯いた。すると――フェンネル様が、俺の顎に手を添えて、上を向かせた。
 正面から目が合う。エメラルドの瞳に、俺は絡め取られそうになった。
 強い眼差しだった。

「俺と結婚してくれるか?」
「!」
「俺は、お前の隣を歩きたいと思っている。それが、俺の気持ちだ」

 そう言うと、フェンネル様が俺を抱きしめた。
 その温もりに、俺は涙ぐんだ。穏やかな喜びが、胸を満たしていく。

「答えは?」
「はい」
「――そうか」
「本当に俺で良いのか?」
「お前が良いんだ」

 フェンネル様は微笑した。いつもよりも優しい顔をしていた。
 そして俺に触れるだけのキスをした。

 ――この日を境に、フェンネル様は、おかしなほど俺に優しくなった。
 俺は思いっきり甘やかされているのを自覚した。
 本当に同じ人か疑うほど、フェンネル様は俺に優しい。

「本当にネルは綺麗だな……愛してる」

 しかも言葉まで甘くなってしまった。それを聴くたびに、俺は恥ずかしくなって真っ赤になってしまう。そんな俺をフェンネル様は、優しく愛情溢れる瞳で見ているのだ。俺は、どうして良いのか分からない。

「実を言えば、俺もお前に一目惚れだった。あまりにも儚く見えた」
「……」
「その内に、健気に頑張っているネルを見たら、目が離せなくなった」
「……」
「狂鼠族の知らせの時は、心臓が凍った思いだった」
「……」
「好きだ」

 毎日のように愛の言葉を囁かれて、優しく抱きしめられて、俺は――幸せだと思った。