【十二】眼鏡みたいな橋
眠い目をこすりながら、俺は入ってきたレストに手伝ってもらって着替えた。作りが複雑すぎて、一人では無理だったのである。陛下は当然のように手伝ってもらっていた。そちらが高貴な人物にとっては普通なのだろう。
こうして朝食を伯爵に振舞ってもらう頃には――俺は初めての視察に緊張し、目が冴えきっていた。もう眠気はどこにも無い。王家の馬車で、いざ橋へと向かう頃には、胸が緊張から騒がしくなっていた。
普段の俺は、決してあがり症では無い。だが、これまでの俺の仕事は、机に座って行うものばかりだったから、いきなり式典に出るというのはハードルが高い。
「おお……」
が。馬車から降りた俺は、美麗な石造りの橋を見て、目を瞠った。まるで俺が先日までかけていた眼鏡のようなアーチが二つある橋は、細部にまで彫刻が施されている。下を流れる水路の色も、鮮やかな水色だ。絶景だ。
「綺麗だ……」
俺の口からは、ありきたりな感想しか出てこない。そんな俺の隣に降りたルカス陛下は、ちらりと俺を見た。
「風景に感動するタイプだとは思っていなかった」
「へ? 綺麗だと思わない? 陛下こそ、そういう感性を持っていそうなのに」
「勿論、俺は美しいと思っている。俺の国だ――全ての景色を愛している」
「それはちょっと大げさすぎて信じられないなぁ」
素直に俺が言うと、ルカス陛下が喉で笑った。その表情がいつになく優しげだったため、こういう姿は、本当に国王陛下らしいなと感じてしまう。すると不意に、ルカス陛下が俺の右手を握った。
「?」
「――婚約しているのだから、それらしく歩いた方が良いだろう?」
「ああ、なるほど」
こうして、式典前の視察の一環として、俺達は橋の上を歩いた。周囲には近衛騎士の他、この日のために集まったという領地の人々がいた。皆、にこやかに俺達を見ている。俺も笑顔を返したが、正直顔が引きつりそうになった。そうして橋の中ほどまで進んだ時、ルカス陛下が足を止めて、下の水路を見た。俺も隣で視線を向ける。
「すごい……!」
水面がキラキラと煌めいている。思わず頬を持ち上げ、俺は興奮のあまり、ギュッとルカス陛下の手を握った。それから振り返り、ブンブンと持ち上げて振った。
「綺麗すぎる!」
「子供のようだな、オルガは」
「年齢なんて、このキラキラには無関係だと思います!」
「それもそうだな。ただ俺には、お前がそう言うだけで、一際綺麗に思えてくるから不思議だ」
俺達がそんなやり取りをしていると、後ろから楽しそうな笑い声が聞こえた。そちらを見ると、フェルスナ伯爵が目を細めて笑っていた。
「仲がよろしくて羨ましいですな」
それを聞いて、俺は慌てて手を下ろした。本当は離したかったが、ルカス陛下が握っている力もまた強かったし、振りほどくのも躊躇われたのだ。仲が良いのを否定してはまずいからだ。ただ内心では、『これは仲の良いフリなんだ!』と叫んで回りたくなる。改めて周囲に言われると、恋人扱いされると、照れてしまうのだ。何せ俺と陛下は、陛下の一目惚れからの、恋愛による婚約関係という事になっているのであるから……なんというか……。しかし俺の凡庸な外見に一目惚れというのは、今更だが説得力が無さすぎるだろう。
その後、橋を渡り終えて、俺達は式典に臨んだ。俺は椅子に座っているだけだった。陛下も隣に座っていたが、伯爵の挨拶後に、お祝いの言葉を述べるため、立ち上がった。そして、凛と響く声で、橋や水路、領地について語っていた。俺は視線を向けながら、毎朝寝ぼけて動揺している姿とは全然違い――やはり本当に国王陛下なのだなぁと改めて思ってしまった。俺がついうっかり書類を直したりしなければ、決してこのように直接隣に並ぶ事は無かった相手だ。雲の上の存在だ。そう考えると、何故なのか複雑な心境になった。
式典後は、再び手を繋ぎ馬車まで向かって、その後、昼食を兼ねた次の視察先へと向かった。この領地は養鶏が盛んであるらしく、鶏肉は昨晩もご馳走になったのだが、本日は卵料理を振舞ってもらう事になっていた。領地の人々も大勢いる。
「これ、本当に茹で卵?」
「そうだと思うが? どうかしたのか?」
一口食べて硬直した俺を、不思議そうに陛下が見た。
「美味しすぎる……! これが茹で卵なら、俺が茹で卵だと思っていた食べ物は、何か違うものだったのかと思うくらい、美味しい。卵なのに、なに、この卵」
動揺しながら俺が言うと、周囲にいた人々が楽しそうに笑う気配がした。そこで俺は我に返り、俯いた。ルカス陛下も笑っている。
「それだけ丹精を込め、丁寧に、大切に、育てているのだろうな――妃が気に入って何よりだ。今後もぜひ、美味しい鶏や卵を頼むぞ」
「勿体無いお言葉です、陛下」
その後も美味しい食事を沢山味わってから、伯爵の邸宅へと俺達は戻った。
この日の夜は――昨夜眠れなかった事も手伝い、俺は爆睡してしまった。
「ん」
翌朝目を覚ますと、ルカス陛下は本日も俺を抱き枕にしていた。陛下も昨日は熟睡したらしい。だが、俺達はほぼ同時に目を開けたようだった。そのままお互い驚いて、しばしの間、視線を合わせていた。すると――不意に陛下が微笑んだ。
「朝、こうしてお前の顔を見るのは、そう悪い事ではないな」
「俺もだんだん、抱き枕にされる事に慣れてきました」
ただ、いつか、そうだなぁ誕生日にでも、抱き枕をプレゼントしたいと考えている。
――このようにして、俺達は視察を終え、馬車にて王都へと帰る事になった。
見送ってくれた伯爵に別れを告げてから、また来たいなと俺は感じた。